(下)虹立ちぬる授業の一幕

「えー……つまり、これらの大化たいか改新かいしんは……」



 五分間の休憩を挟み、一時間目の授業が始まった。彩は頬杖をつき、欠伸あくびを噛み殺す。しばらく土器やら古墳やらが続いていた日本の歴史に、いよいよ大きな動きが訪れようとしていた。歴史の授業が始まって一か月ほどが経過してもなお、いまだに出てきた主要人物は卑弥呼ひみこ聖徳太子しょうとくたいしくらいのものだ。神武じんむ天皇もすっ飛ばして、もう四十代近くまできてしまっている。



 狩猟採集の時代だった二、三万年前や、稲作が始まってからの一〇〇〇年くらいの道のりを、約一か月ほどの授業で通り過ぎていったことを思えば、むしろ早かったのかもしれないが。……いや、なにもないからか。



 正直、彩は金印にも埴輪はにわにも興味がわかなかった。何度も聞いたことのある内容ばかりで、彩にとっては退屈極まりなく感じる。まだ雨が降っている窓の外を、なにげなく見つめていたが、唐突に名前を呼ばれたような気がして、首を直角に右へと曲げる。言うまでもなく、それは教壇に立っていた先生の声だった。



「受持さん。なに、ボーっとしてるんだ。話、ちゃんと聴いてたか?」

「……あ、はい」

「本当か? それじゃあ、聖徳太子は、なにをした人?」



 起立したはいいものの、彩は顎に手を当てて考え込む。随分とざっくりした質問だが、これなら聴いていなくても解けそうだ。机の上に目を落とすも、開いていない教科書の表紙が映っただけで終わる。先生の横着によって、黒板にも、それらしい答えは書いていなかった。でも聖徳太子が、なにをした人かくらいは知っている、はず。彩は記憶を頼りに、というよりも勘で、ひょっとしたら正解を導き出せるかもしれない、と思った。



「い、一度に十人の話を聞き分けた? ……あれ、三十何人かだっけ?」

「うん、まあ……たしかに、それは有名だけど。いや、伝説とかじゃなくて、どんな功績を残したのかという」

 先生に訂正をされていたが、彩は言葉尻に被せるようにして、構わず続ける。「うま・ ・だけにうま・ ・小屋の前でうま・ ・れたらしい」「うまうま、やかましい! ……だから、伝説じゃねく」

 また、先生にツッコまれた。「初めて忍者を使ったのが、聖徳太子らしいよ?」「な、なんだ、その説!」

 またまた、先生にツッコまれる。さらに彩は、立て続けに持てる限りの聖徳太子・超人エピソードを披露する。「叔母おばにあたる額田部皇女ぬかたべのひめみこに『将来、天皇になる』って予言した、とか? 二五〇年後の太秦うずまさに寺がつくられ、三〇〇年後には都がつくられることを予言した、とか?」

「すげぇ予言しでるな。……いや、逸話いづわが聞ぎでいんじゃねぐって……」ツッこむ気力が段々となくなってきて、先生は方言の混じった口調になっていく。「誰よ、その、ぬか……なんとかって」

 それは教科書にも載っている有名人だと思うが、わかりやすい名で言おうと思っても、彩はあいにく、漢風のおくりなを瞬時には思い出せないでいた。……やばい、豊御食炊屋姫天皇とよみけかしきやひめのすめらみことしか出てこない。

「すいこてんのう」「そう! 推古すいk……え」



 彩に聞こえるか聞こえないかの大きさで、その声は発せられたようで、彩以外のクラスメイトたちは彩のことしか見ていない。助け船を出した張本人は、なに食わぬ顔をして、さっきまで彩がしていたように頬杖をつき、彩の席を挟んだ先の、窓の外へと龍は視線を向けていた。その顔面に、陽光が当たる。



「あ、雨。んでる……」



 クラスメイトの誰かが言う。彩は教室に差し込む陽光が作り出す、机や椅子いすの影に目を向けた。このあとの二時間目と三時間目は運動会の練習を予定しているが、まだグラウンドは泥濘ぬかるんでいるから、体育館での練習になると思う。しかし運動会当日まで、この天気が続いてくれれば乾くのでは、と彩は思った。



「虹だっ!」



 前(稲穂)の前の席に座っている生徒が、そう叫んだ。確かに窓際からは、雲間に薄く架かった虹がよく見える。七色のグラデーションが目に映るに至り、彩は、はっと思い出すことがあった。虹……七色……七……色……そうか。そして、彩は声高らかに言い放つ。



冠位十七条かんいじゅうしちじょう!」「いろいろ混ざってるな!」

 またまたまた、先生にツッコまれる。どうやら、彩の導き出した答えは間違っていたようだった。



 …………。

 ……。



 運動会に練習が必要なのかどうかは疑問だが、授業の一環とあっては仕方がない。徒競走のタイムを計測したとき、稲穂の走る早さに合わせていたから、彩は稲穂と同じ組分けになった。



 二時間に及ぶ授業が終わった途端、男子たちは勢いよく、体育館から飛び出していく。散々走り回ったっていうのに、どこから元気が湧き出してくるのか、と彩はばばくさいことを考えてみた。しかし、それは子どもだから、という至極当然な結論に行きつく。稲穂は日直の男子とともに先生の片づけを手伝い、重ねたカラーコーンを用具室へと運んでいた。彩も稲穂のもとへ駆け寄り、無意味な考えを振り払って、一緒に手伝うこととする。



わりぃな、いつも。気にせず、着替えさ行っててよかったのに」

「いえ」稲穂はカゴを抱えたまま、満面の笑みを浮かべて答えた。「わたしも手伝ったら、一瞬で片づきますから」

「いや~、申し訳ねっ」



 げていたホイッスルを首から外し、稲穂から受け取ったカゴのなかに入れると、先生はほがらかに謝った。綱を重たげに引きずっていた彩は、いきなり軽くなって驚く。綱の片方を、龍がつかみ持っていた。



「あ、ありがと」



 彩は素直にお礼を言う。……警戒しなくても大丈夫な人物だろうか、と身構えつつ思った。



「わたしも!」「あたしも!」



 次々と女子たちが名乗りを上げ、とっくに軽くなっている綱へ群がってきた。それを見ていた先生は、困惑するように嘆息する。「お、お前ら。なんだ、急に」

だな~センセっ! あたしたち、いつも手伝ってあげてるじゃ~んっ」「御饌都神くんって、足が速いんだね」



 話しているだけで、ほとんど手を動かしていない彼女たちを無視して、龍と彩は綱を運び入れる。体育館の片隅で、もじもじとしている修治の様子を見て、彩は彼に声をかけた。「なにしてんの? 手伝わないんだったら、さっさと着替えに行ったら?」



 すると修治は、誰かが脱ぎ散らかしたゼッケンをたたみ始める。あらかた片づいたところで、先生は用具室の扉を閉めて鍵をかけた。「五瀬さん、もう大丈夫。ありがとう」

 女子のひとりが、不服そうに膨れっ面をした。「えーっセンセ! あたしたちにお礼はぁー?」

「図々しいな、お前ら」

 先生はポカンと、軽く女子たちの頭をはたく。それに対して女子は、頭をかかえ、大袈裟おおげさなリアクションをしてみせた。「あ、体罰だ! 体罰教師だ!」

「おおおお前ら。ま、間違っても外で言うんじゃないぞっ!」

 何度も柱に肩をぶつけながら、先生は体育館を退出していく。足はガタガタと震えていた。申し訳ないことしたかな、冗談なのに、と先生のあとを追って、発言を反省した女子も体育館をあとにする。



「イツセ……?」

 彩とともに廊下へ向かいかけた稲穂は、小首をかしげる龍の反応が目に映って立ち止まった。自己紹介がまだだったから、先生の言った「五瀬」が誰なのかわからないのだろう、と稲穂は単にそう思う。



「あ、わたしの名前。五瀬稲穂」「イツセ……」「そう。稲穂」「……イツセ」「うん、稲穂」



「ふ~ん……珍しい苗字だな」どうやら龍は、苗字のほうだけ引っかかったらしい。それを言うなら「ミケツカミ」という苗字も、じゅうぶん珍しいだろう。でも確かに、自分以外の「五瀬」姓の人に会ったことはない、と稲穂は思った。「よろしくな、イツセ」

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