(中)長雨、例の年よりも甚く
運よく、稲穂や彩が校舎へ入ったのとほぼ同時に、本格的な雨が降り出したから、
帰りまでに止むだろうかと、稲穂は水滴の垂れ落ちるガラス越しに、暗雲の垂れ込めた曇天を見上げた。クラスメイトのひとりが、いたずらっぽく稲穂の名前を呼ぶ。
「稲穂ぉ。晴れにしてよぉ」
「わたし、別に、
「冗談じゃん、ノリ
「ご、ごめん」
でも、たしかに稲穂自身、雨に打たれた経験が少ないかもしれない、という自覚はしている。逆に、風邪で欠席した行事は
「あれ。なんだろう?」別のクラスメイトが、稲穂の隣りで声を上げた。窓から校庭を見下ろして、ある一点を指さしている。「なにしてんだろ、あの人」
指の先を追って、稲穂も視線を向けた。雨が降っているにも関わらず、窓から見える人らしき影は、傘もなにも差していなかった。そればかりか急ぐ様子もなく、悠然とした歩みで校庭を縦断していく。
「あれじゃあ、ずぶ濡れだよね……」「つーか、誰? この学校の人?」
野次馬となって窓際に集まってきたクラスメイトたちは、あれこれと喋っていたが、ひとりの男子の口から出たひとことによって、教室はあっという間に静まり返る。
「そういえば、きょう、先生が言ってるの聞いたんだけど、転校生がくるらしいよ」
転校生? この時期に?
「親の急な転勤とか?」「前の学校で、なにかあったりして」「めっちゃかわいい子だったらどうする?」「もしかしたら、かっこいい人かも」
転校生予想が加熱し始めたところで、始業のチャイムが鳴り響く。それでも着席することのなかったクラスの面々は、勢いよく扉が開かれて入ってきた先生の姿を見てから、大急ぎで自分の席に向かった。だが静かになるどころか、先生の
ひとつ咳払いをしたあと、ざわめきが収まってからした先生の説明は、あまりにも簡潔なものだった。「あー。転校生だ。えーっと……」
手に持ったファイルをちらちら見ながら、かつ、かつ、とチョークを
「『みけつかみ りゅう』です」
それが、彼の名前だった。一拍置いたことによって、神と龍の間が姓名の区切りだとわかる。稲穂は「饌」なんていう漢字を初めて見た。
「あー、ミケツカミくんの席は……」
龍が座れる席を探すために、先生は教室を見渡した。五×五に整列された机は、児童数二十二人に対して、空席が後方に
「んだな……じゃあ、受持さんの隣りに座ってくれるか?」
「はい」
彩の席は真後ろなので、龍は近くを通りすぎていき、着席した。そして、なにごともなかったかのように、先生は授業の準備を始める。転校生がくるという、一大イベントを終えたばかり特有の興奮も冷めやらぬなか、一時間目が始まるまでの二十分間に設けられた、読書の時間がスタートした。
…………。
……。
例年に比べて、多くの雨が降っているような気がする。雨になると
「どこから転校してきたの?」「誕生日いつ?」「きょう、なに食べた?」「好きな本は?」「遊びに行くなら、どこに行くの?」
午後にある「学級活動」の時間に、一応、自己紹介の時間を設けているらしいが、クラスメイトたちはフライング気味に、龍の周りへと集まってくる。先生の「静かにしろー」という注意する声が何度か聞こえるも、児童たちには届いていないようだった。稲穂も気になっている様子ながら、自分の席に着いて自前の本を読み始める。
書店でもらったらしい紙製のカバーを、稲穂はつけていた。稲穂に限って
「なに読んでんの」
そうして返ってきた答えを聞いても、彩がピンとくる作家名ではなかった。まだ、クラスメイトのひとりである
修治の前に座っている男子は、ハードカバーの伝記を読んでいる。不意に振り返った彼は、
「か、返して……」
「なにが面白ぇの、フィクションなんかさ。読んでるとかコドモだな。オトナは歴史に学ばねぇと」
ぽつりと彩は呟く。「歴史、ねえ……」
「あ、あの……っ!」稲穂がおずおずと手を挙げた。「伝記も、いろんなことを知れて面白いのはわかるし、小説も、このあと、どんな展開になるんだろうってハラハラして、どっちも面白いと思うよ?」
光は、鼻で稲穂のことを笑う。「役に立つか? フィクションなんか。人生で」
彩にとっては、なによりも稲穂のことを鼻で笑われたのが、いちばん腹立たしく思う。
「……はあ?」
その男子は、きょとんとした顔をしていた。あれ? 思っていた反応と違う、と彩は焦りを覚える。精いっぱいの
「要するに、物語のほうが人としての正しい道筋が書かれている。事実だけが語られていても、その当時の人物の内面までは知りようがない。人間を知るには、むしろ物語のほうがいい。つくり話だからと言い切ってしまうのは、ものごとの本質を捉えられていないんじゃないか。と、そういうことですよね?」
「え、あ、うん。そう……」彩は満面の笑みを
「他人の心情を
なんか、ひとこと余計だった気が……。彩は龍の横顔を注視したが、顔色ひとつ変えることなく本に目を落としながら、クラスメイトたちからの質問にも答え続けていた。いま、きみこそ、どういう心情なのよ?
それから彩は、龍の最後のひとことに傷ついていないかな、と光のほうを見る。光は納得がいっていないようだったが、それ以上、修治に絡んでくることもなく、おとなしく前を向いた。時間いっぱいまで、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます