(中)長雨、例の年よりも甚く

 陰鬱いんうつな気分で、五瀬稲穂は、ため息を漏らす。登校完了時刻十分前の午前七時五十分になって、続々と集団登校のグループが到着し、教室へとクラスメイトたちがどっと入ってきた。傘も効果がないほどの横殴りの雨だったのか、びしゃびしゃに濡れた服をしぼり、床を水浸しにしてしまった男子を女子が叱りつける。



 運よく、稲穂や彩が校舎へ入ったのとほぼ同時に、本格的な雨が降り出したから、さいわい、稲穂たちは濡れずに済んだ。しかし、学校から遠いグループは濡れる確率が増すだろうから大変だ、と窓の外を眺めながら危惧する。来週には運動会が控えているというのに、このところ雨天が続いていた。このままでは順延か、最悪、中止か。

 帰りまでに止むだろうかと、稲穂は水滴の垂れ落ちるガラス越しに、暗雲の垂れ込めた曇天を見上げた。クラスメイトのひとりが、いたずらっぽく稲穂の名前を呼ぶ。



「稲穂ぉ。晴れにしてよぉ」

「わたし、別に、天○てんきの子じゃ……」

「冗談じゃん、ノリわるぅ」

「ご、ごめん」



 でも、たしかに稲穂自身、雨に打たれた経験が少ないかもしれない、という自覚はしている。逆に、風邪で欠席した行事はことごとく雨になった、ということも、一回や二回ではないのだ。今朝けさまで雨だった日の天気予報でさえ覆ったことも……と、そこで稲穂は首を振る。いやいや、偶然、たまたまだ。



「あれ。なんだろう?」別のクラスメイトが、稲穂の隣りで声を上げた。窓から校庭を見下ろして、ある一点を指さしている。「なにしてんだろ、あの人」



 指の先を追って、稲穂も視線を向けた。雨が降っているにも関わらず、窓から見える人らしき影は、傘もなにも差していなかった。そればかりか急ぐ様子もなく、悠然とした歩みで校庭を縦断していく。



「あれじゃあ、ずぶ濡れだよね……」「つーか、誰? この学校の人?」



 野次馬となって窓際に集まってきたクラスメイトたちは、あれこれと喋っていたが、ひとりの男子の口から出たひとことによって、教室はあっという間に静まり返る。



「そういえば、きょう、先生が言ってるの聞いたんだけど、転校生がくるらしいよ」



 転校生? この時期に?



「親の急な転勤とか?」「前の学校で、なにかあったりして」「めっちゃかわいい子だったらどうする?」「もしかしたら、かっこいい人かも」



 転校生予想が加熱し始めたところで、始業のチャイムが鳴り響く。それでも着席することのなかったクラスの面々は、勢いよく扉が開かれて入ってきた先生の姿を見てから、大急ぎで自分の席に向かった。だが静かになるどころか、先生のかたわらにいる男子を見て、さらに黄色い声がわき起こり、いっそう教室は騒がしさを増す。ランドセルが不釣り合いだと思うほど、小六にしては高身長で端正な顔立ちをした美少年。まるで、マンガから出てきたような人物だと、稲穂は思う。



 ひとつ咳払いをしたあと、ざわめきが収まってからした先生の説明は、あまりにも簡潔なものだった。「あー。転校生だ。えーっと……」



 手に持ったファイルをちらちら見ながら、かつ、かつ、とチョークをこする音を鳴らし、先生は「御饌都神龍」という文字列を記していく。この男子の名前らしいが、稲穂は読める気がしなかった。教壇に立ったままの男子は、先生が黒板に書き終えるのを待ち、チョークを粉受けに置くのを横目で確認してから、やっと口を開く。



「『みけつかみ りゅう』です」



 それが、彼の名前だった。一拍置いたことによって、神と龍の間が姓名の区切りだとわかる。稲穂は「饌」なんていう漢字を初めて見た。



「あー、ミケツカミくんの席は……」



 龍が座れる席を探すために、先生は教室を見渡した。五×五に整列された机は、児童数二十二人に対して、空席が後方にそろって三つほどある。



「んだな……じゃあ、受持さんの隣りに座ってくれるか?」

「はい」



 彩の席は真後ろなので、龍は近くを通りすぎていき、着席した。そして、なにごともなかったかのように、先生は授業の準備を始める。転校生がくるという、一大イベントを終えたばかり特有の興奮も冷めやらぬなか、一時間目が始まるまでの二十分間に設けられた、読書の時間がスタートした。



 …………。

 ……。



 例年に比べて、多くの雨が降っているような気がする。雨になると気怠けだるく感じるのは、自律神経の乱れが原因で、人間の身体の仕組み的に、仕方のないことだ。鬱陶うっとうしく思うのは彩にとっても同じことで、本当なら労働も勉学もしたくはない。四字熟語に「晴耕雨読」というものがあることだし、と思い、彩は、きのう買ったばかりの文庫本を開く。秋田県は全国に先駆けて「読書条例」というものを施行し、県民運動として読書活動推進に取り組んでいる。そのおかげかいなか、秋田県の小中学生の読書率は、全国平均よりも高かった。



「どこから転校してきたの?」「誕生日いつ?」「きょう、なに食べた?」「好きな本は?」「遊びに行くなら、どこに行くの?」



 午後にある「学級活動」の時間に、一応、自己紹介の時間を設けているらしいが、クラスメイトたちはフライング気味に、龍の周りへと集まってくる。先生の「静かにしろー」という注意する声が何度か聞こえるも、児童たちには届いていないようだった。稲穂も気になっている様子ながら、自分の席に着いて自前の本を読み始める。



 書店でもらったらしい紙製のカバーを、稲穂はつけていた。稲穂に限って淫書猥本いんしょわいほんの類いなわけはないだろう、と思いつつも、隠されていると不必要に気になってしまう。彩は、稲穂の背中に声をかける。



「なに読んでんの」



 そうして返ってきた答えを聞いても、彩がピンとくる作家名ではなかった。まだ、クラスメイトのひとりである修治しゅうじが読んでいる児童文学のほうが、彩でもタイトルを聞いたことのあるものだ。稲穂が逆に「それは?」と訊いてきたので、表紙を見せ、彩は早口に「ジョン・クレランド」と答える。表紙だけでは内容のわからない、しかも、タイトル名と作者名がカタカナのみで構成された、実にシンプルな装丁の本だ。稲穂は「ごめん、知らない」と謝るが、もしかしたら知っているんじゃないかと思い、冷や冷やしていた彩にとっては、それはむしろ、ありがたい言葉だった。



 修治の前に座っている男子は、ハードカバーの伝記を読んでいる。不意に振り返った彼は、鎧兜よろいかぶとを着た武将らしき人物の描かれた表紙を、修治のほうへと見せつけた。めちゃくちゃ面白ぇんだよ、と、その男子・みつるは熱弁を振るう。まだウザ絡みしているだけならよかったが、しまいには、修治の読んでいる本を取り上げてしまった。小さな声で修治は抵抗する。



「か、返して……」

「なにが面白ぇの、フィクションなんかさ。読んでるとかコドモだな。オトナは歴史に学ばねぇと」



 ぽつりと彩は呟く。「歴史、ねえ……」



「あ、あの……っ!」稲穂がおずおずと手を挙げた。「伝記も、いろんなことを知れて面白いのはわかるし、小説も、このあと、どんな展開になるんだろうってハラハラして、どっちも面白いと思うよ?」



 光は、鼻で稲穂のことを笑う。「役に立つか? フィクションなんか。人生で」



 彩にとっては、なによりも稲穂のことを鼻で笑われたのが、いちばん腹立たしく思う。せき払いをひとつし、おとなとして毅然な態度を心がけ、彩は幼子おさなごを諭すように話し始めた。「物語にこそ、道々みちみちしくて詳しいことが書かれていると思うのよ。ひたぶるに虚言そらごとと言い果てるのは、ことの心にそぐわないんじゃないかな」



「……はあ?」



 その男子は、きょとんとした顔をしていた。あれ? 思っていた反応と違う、と彩は焦りを覚える。精いっぱいのやさしい言葉で話したつもりだったが、どうやら伝わらなかったようだ。彩の隣りの席で、クラスメイトたちからの質問に答えていた龍が、こっちの会話も聞いていたようで、突然、口を開いた。



「要するに、物語のほうが人としての正しい道筋が書かれている。事実だけが語られていても、その当時の人物の内面までは知りようがない。人間を知るには、むしろ物語のほうがいい。つくり話だからと言い切ってしまうのは、ものごとの本質を捉えられていないんじゃないか。と、そういうことですよね?」



「え、あ、うん。そう……」彩は満面の笑みをたたえ、必要以上に大きく頷いた。「小説だって馬鹿になんないよ、ってこと!」



「他人の心情をおもんぱかる想像力があったら、傲岸不遜な態度を取ることはなかったでしょう」



 なんか、ひとこと余計だった気が……。彩は龍の横顔を注視したが、顔色ひとつ変えることなく本に目を落としながら、クラスメイトたちからの質問にも答え続けていた。いま、きみこそ、どういう心情なのよ?



 それから彩は、龍の最後のひとことに傷ついていないかな、と光のほうを見る。光は納得がいっていないようだったが、それ以上、修治に絡んでくることもなく、おとなしく前を向いた。時間いっぱいまで、各々おのおのの読書を続ける。伝記にしろ、小説にしろ、本を読むことにこそ価値がある、と彩は思う。以前から気になっていた本を読了したところで、ちょうどチャイムが鳴った。古今も洋の東西も問わず、世界中の書物や情報が、簡単に安く手に入るようになった現代は、なんと素晴らしいことだろう。彩はしみじみと、そのありがたみを噛み締めるのだった。

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