章第一「両面宿儺」
(一)走つてゐる最中に……
五月の最終土曜日、晴れ渡るなか、運動会当日を迎えた。稲穂の顔に、正円と台形のシルエットが影を落とす。カーテンの隙間から漏れる陽光の眩しさが、ベッドの上で
グラウンドのコンディションについては、実際に行ってみないとわからないが、少なくとも連絡網が回ってこなかったことを考えると、運動会の決行自体は確定だろう。きのうの天気予報では、きょうの降水確率を八十パーセントと言っていた。しかし、この空模様を見る限り、とても雨が降りそうな気配は感じられない。稲穂は、きのうのうちから用意していた体育着へと着替えた。
身支度を整えてリビングに入ったとき、テレビに映る女性が「お出かけの際は、傘を持っていきましょう」と推奨している。どうやら、きのうからの天気予報は覆っていないようだった。その後にテレビで流れた占い結果に悲嘆しつつも、大盛りにした朝食をすぐさま平らげる。靴を履くために玄関へ向かう途中、テーブルに向き合ったまま動かない母親の横顔が、稲穂の視界に飛び込んできた。
少しだけ、視線を落とす。リビングの奥にいる母親に向かって「行ってきます」と告げると、優しい声で「行ってらっしゃい」と返ってきた。玄関先には彩が待っていて、ふたりで集団登校の列に加わる。学校までは三十分ほどの道のりだった。校門の前には、ピンクと黄色のパラソルが、目立つような位置取りで立てられている。
六十歳ほどの女性がパラソルの陰で涼みながら、登校してくる児童たち一人ひとりに「おはよう」とあいさつしていた。秋田名物の「ババヘラアイス」である。秋田県内での知名度は高く、ほとんどの運動会や、夏場に行われるイベントのある場所の近くには、必ずと言っていいほど現れる。ババヘラアイスのお婆さんにあいさつしながら、稲穂たちは校門をくぐった。
「五瀬さん、おはようございます」
「ああ、
運動会は予定どおり開始された。選手宣誓やラジオ体操などの「開会式」が終わったあと、稲穂は彩や美空たちとともに、控え所のテントの隅に場所を取り、自分たちの順番がくるまで運動会を観戦する。数日前までの降水量が嘘のように、一切の水たまりも見当たらず、運動会をするには申し分ないほど、グラウンドの状態は良好だった。
しかし晴れすぎなのも問題で、運動会は
「いやあ、順番が回ってくるの早いね」担任の先生がきて、レーンの並び順に指示を出し始めたとき、彩は感慨深げに言う。「人数が少ないと」
稲穂は「そうだね」と相槌を打つ。毎年、同じようなことを聞いているような気がした。さらに彩は続ける。「去年よりも、一年生の人数が少なくなっているから余計に。全学年ひとクラスだし。おまけに、午後からはやらないんでしょう? 弁当をみんなでわいわい食べるのを楽しみにしていたのに! 入学する前は、てっきり午後からもあるものだとばかり……」
稲穂は句点に合わせ、相槌を打っていたが、ひととおりの不満を吐き出せたのか、彩は急におとなしくなった。大きなため息を吐きながら右肩に寄りかかってきた彩を、稲穂は静かに受け止める。丸まった彩の背中に、そっと手を回し、稲穂は優しくさすってあげた。彩の長い髪の毛が頬にかかる。「はああ。早いもんだね。……一首、
短歌の意味はよくわからなかったが、時間が経つのは、本当に早いのかもしれない。いまのような楽しい時間は特にそうで、あっという間に六年生の順番が回ってきた。運動会練習で測定したタイムを
彩はぴったりと、稲穂の隣りにくっついて走っている。追いつ追われつの微妙な距離感を保ったままだ。龍とは大股で二歩分くらい離れて、稲穂たちが後ろ姿を追いかける形となっている。どうしても、この距離を縮めることはできなかった。もうすぐゴールという、フィニッシュテープの手前まで迫ったとき、悲劇は突然に訪れた。
稲穂は目の端に、なにか動くものを
稲穂が止まるよりも先に、嫌な気配を感じ取った彩は、はたと足を止める。だが、「ぐはっ」という小さな悲鳴が耳に届いたときには、もうすでに遅いことを悟った。
「ぐはっ」
狭くなった声門から絞り出されるような、校長の声にならない声がする。どこからともなく飛んできた一本の矢は、校舎側に建てられた本部テントを騒然とさせた。応援に出てきた校長先生に命中し、派手に
「あ、あれだ!」
ひとりの教師がグラウンドの裏口を指さした。かなりの距離があったために、小さくて見えにくいが、確かに人影のようなものが認められる。別の教師が拡声器を
目線を裏口に向けたまま警戒を強めつつ、稲穂を校舎のなかへ連れて行くため、隣りにいるはずの彼女に手を伸ばしたが、そこで
稲穂が「怪我はない? 立てる?」と差し出した手を掴みながら、女の子は小さく頷いた。彩は
「早く! 避難しよう」
稲穂のもとへ駆けつけ、膝についた
「きみも早く、避難して!」
靴を脱いで校舎裏口に踏み
連れ戻そうとした教師たちの耳に、発砲音が聞こえ、恐怖のあまり足が
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