(中)

 暗いだけならまだしも、雨が降っていると物音がかき消されて、相手がどこにいるかわかりづらい。

 裏口を出た彩は、背後を取られないよう壁を伝って前へ進む。パトカーだろうか、赤い光がかすかに見えている。



 そのすぐのところ、校舎の外壁が崩れて、その上に龍の姿があった。かなり出血はしているが、荒く肩を揺らしているあたり、生きてはいるようだ。

 両面宿儺の姿はどこにもない。専門ではないが、この隙に応急処置をしておこう。

 両手でお椀を作り、そこに向かって彩が息を吹きかける。すると、たちまち蒲黄かまのはなが溢れんばかりに両手を埋め尽くした。



「雨で傷口は洗い流しているね。あとは、それを傷口にまぶして。だいぶ楽になるから」



 その一連の行動を見て、龍は驚いたような表情をして、蒲黄を受け取る。まあ、普通の人は驚くよね。

 彩は「安静にしてて」と言い残し、その場を去ろうしたが、「待ってください……!」と龍に呼び止められた。

「ん……?」



「相手は宿儺すくなです。狙いはたぶん、俺です」

 蒲黄のおかげか、すっかり血は止まっているようで、龍は立ち上がろうとした。

「だから、俺がなんとかしないと……」



「そう……」

 彩は前かがみの姿勢で、龍に顔を近づける。

 どことなく雰囲気が似ていると思った。やっぱり、この子、素戔嗚尊すさのおのみことさまの……道理で。

 暗雲垂れ込める空を見上げ、太陽があるはずの場所を探した。

 髪の毛が頬に貼りつき、睫毛まつげにかかった雨の重みで、上手くまぶたを開けられない。



 彩は稲穂の顔を思い浮かべた。だから、こんなにも土砂降りなのか。

 初めて会った怪物に動揺して、天照大神と素戔嗚尊のパワーバランスが保てなくなったらしい。

 彩は腰に右手を当て、鎖骨のあたりに左手を沿わせ、それから胸を反らせた。



「あたしは保食命うけもちのみこと。こんな見た目だけど、あなたよりは強いと思うよ」

「はい、承知しています。でも、わざわざ保食神うけもちのかみさまの御手おてわずらわせるわけには……」

「勘違いしないで」彩は深く息を吐いた。「あたしは保食神じゃなくて保食命」

「……えっ?」



天照大神あまてらすおおみかみさまから拝命されたことを実行するだけで、別にあなたを助けるわけじゃない」

 なおも起き上がろうとする龍を押しとどめ、彩は校舎のほうを指差した。

「あなたにしてもらいたいことがある。あなたにしかできないこと」



 用件を簡潔に伝え、雨の中を駆け出す。

 標的である龍を見失っているせいか、ぱたりと攻撃は止んで辺りは雨音しか聞こえなかったが、まだいることは確かだろう。

 この程度で引き下がるとは思えない。ただ、無闇に攻撃を仕かけてくる野蛮人でないことは、一つの救いかもしれなかった。

 到着したであろう警察官も含め、これ以上の被害を出さないためにも、早いところ相手を倒したほうがいい、彩はそう思った。



 空を切る音がした。即座に身を引いて、飛んできた矢をかわす。

 その瞬間、日本刀の切れ味鋭い刃先が振り下ろされた。それも間一髪で躱し、弁慶と対峙した牛若丸よろしく峰を蹴って宙を舞う。

 兜を被った宿儺二人の頭部を通り越し、グラウンドを囲んでいるフェンスに、思いっきり身体をぶつけた。



 想像しているよりも端に来ていたようだ。

 フェンスの網目に指を突っ込んでみても、欲しいものには一向に手が届かない。県名が秋田というだけあって、学校の周りは田んぼに囲まれていた。

 また空を切る音が微かに聞こえ、太刀が右方向から飛んでくる。

 彩はしゃがみ込むと、慣性力で置いていかれた髪の毛の一部が、少しだけ斬られたような気がした。



 今度は逆方向から足元を狙った攻撃が飛んできて、彩はしゃがんでいた状態から一気に膝の伸ばす。

 田んぼの境界に設けられたフェンスは、見るも無残に真っ二つへ叩き斬られた。

 畦畔けいはんに着地した彩は、植えられてから二週間ばかり経つ、十センチほどまで成長した稲を二本、掴み取る。



「……いただきます」



 そう呟いて稲を振ると、たちどころに刃渡り十センチほどの小刀に姿を変えた。

 その小刀を構えて、相手の動向に気を配る。相手が二刀流なら、こちらも二刀流でいこう。

 少し風が強くなったせいか、辺り一帯の気が乱れていた。

 普段は感じることのない、微弱な木精くくのち野精のつちの気配さえも混ざり合って、宿儺の動きを探知するどころではない。



 そっと目を閉じて耳を澄ませる。

 猛スピードで、なにかが近づいてくる音が聞こえてきたので、軽く身をよじって躱す。

 最小限の動きだったため、その「なにか」は、彩の鼻先をかすめていった。

 目を閉じて、余計な情報を遮断しているほうが、いつもより早く反応することができる。



 暗がりの中に、四メートル弱ある宿儺の巨体が、ぬっと姿を現した。

 宿儺の右足に向かって突撃すると、佩楯はいだて脛当すねあての間にある鎧に守られていない部分を狙って、小刀の切っ先を力の限り突き刺す。

 いくら見た目が小学生といえど力は強いはずだったが、外の袴がわずかに切れた程度で、中の皮膚に至っては少しだけり込んだだけだった。



 刺さった異物を振り払おうとしてか右足を高く蹴り上げたため、彩は宿儺の足の甲をステップにしてバク宙する。

 なんとか着地はできたが、休んでいる暇はない。

 振り下ろされた太刀を二つの小刀で受け止める。金属が擦れる音を響かせながら、前方へと火花を散らせて走った。

 籠手こての隙間から見えた皮膚部分に斬りかかる。X模様のかすり傷はできるが、さほどのダメージは受けていないようだった。



 矢継ぎ早に繰り出される矢を、側転したり小刀で薙ぎ払ったりして、彩は刀を持つほうの宿儺の背後へ回る。

 刀と違って、矢は遠距離でないと十分な攻撃はできないはずだ。

 大きく水飛沫しぶきを上げながら方向転換し、彩は弓を持ったほうの宿儺の懐へと飛び込む。

 だが、その瞬間、バランスを崩して転びそうになった。地鳴りのような響きが聞こえ、グラウンドの土や芝生が泡雪のように舞い散る。



 覚束おぼつかなくなった足を、止めざるを得なくなった。

 土神はにやす草女神かやのひめの悲鳴が耳をつんざく。

 気を取られている隙に宿儺の右足、それも足裏が、彩の眼前まで迫ってきていた。

 気がついたときには、避けるだけの猶予はない。顔の前で腕をクロスし、とにかく、もろに食らわないようにするだけでも必死だった。



 彩は弾かれるように後方へ飛ぶ。

 身体の制御は利かず、何回転もしながら、まるで水切りのように何度も地面へ叩きつけられた。

 大丈夫ですか、と心配そうな風女神しなとべの囁きが、そよ風のような安心感とともに耳へ届く。

 そうか、君が受け止めてくれなかったら、きっといまごろ、あたしは死んでいたかもね。

 ありがとう、と彩は呟いた。大丈夫、まだ身体は動く。



 なおも、地面が揺れる感覚があった。

 洋靴も草鞋わらじも履いていない大きな両足が、仰向けに倒れた彩の目の前に現れる。

 片方の宿儺が前かがみになって踏ん張り、もう片方がその背中に載って全体重を預けていた。

 まずい、このままだと踏み潰される。彩は咄嗟に一本の小刀をクナイのように飛ばす。

 これが宿儺のアキレス腱に刺さり、期待はしていなかったが予想以上のダメージはあったようで、支えていたほうの宿儺がバランスを崩してしまった。



 即座に彩は立ち上がり、上に載ったジタバタと足掻あがく足をくぐる。

 もう一方の小刀で、片側のアキレス腱も斬ると、膝から崩れ落ちて手を地面につく。

 支えを失った宿儺は動くに動けず、上に載った相方の体重のせいで、地べたに倒れ伏せてしまった。

 地面に転がった日本刀を飛び越え、宿儺の二つある頭の前まで向かい、彩は勝利を確信して仁王立ちする。



「まさか弱点がアキレス腱だったとはね。もしかして、逆さまで川にでも浸かった?」



 ウィットに富んだジョークをかますだけの余裕は出てきたようだった。

 しかし、この季節では小刀しか作れない。小刀だけじゃあ、トドメを刺すのも一苦労しそうだ。

 彩は溜め息をつく。宿儺の頭頂部に狙いを定め、彩は小刀を構える。

 なるべく痛くないようにするからと、呼吸を整えて心の準備をしていたとき、不意に風向きが変わった。

 文字通り、吹いていた風の向きが変わる。



 にほふ……! この気配けはひは……



 これは、風男神しなつひこの警告だろうか。

 彩は風上に目を向けると、そこにあった人影を視認する。

 見覚えのあるその人物は、たったいま走ってきたように息を切らして立っていた。

 晴れるまではいかなくとも、雨脚は弱まってきている。

 その人物に気づいた上方の宿儺は載ったまま、条件反射のように風上へ向けて矢を放つ。空を切る音が、猛スピードで遠ざかっていった。



 …………。

 ……。



 稲穂は階段に腰かけていた。

 真正面には水飲み場があり、右に曲がれば一年教室と裏口がある。

 一段目から二段目に足を移動させて、さらに稲穂は身体を縮こまらせた。

 膝を抱えた腕の中に顔をうずめ、親友の顔を思い浮かべる。

 彩のことは心配だったが、自分にはどうすることもできない。



 ガタっと裏口のほうから音が聞こえる。

 そっと死角から覗いてみると、そこにいたのは、髪の先までずぶ濡れになった龍の姿だった。

「えっ。御饌都神くん?」



 彩が出て行った直後に稲穂は追いかけて、自分も裏口から出ていこうとした。

 しかし、養護教諭が去ったあとも帰るふりをして何度か試してみたが、やっぱり見えない壁が存在しているかのように弾かれた。

 通るタイミングは見ていなかったが、いま龍が来たのはその裏口だったのだろうか。わたしだけが通れない?

 稲穂は首を振って否定した。そんなわけない。



「あ、あなた。なにしているの」

 稲穂が声をかけるよりも先に、養護教諭が駆け寄ってくる。

 一通り校内を巡回し、また戻ってきたのだろう。

 龍の右手が素早く動き、養護教諭は糸が切れたマリオネットのように、その場にへたり込んだ。

 刃渡りが一メートルほどあろうかという日本刀を、龍は右手に構えていた。



「先生っ」思わず身体が動く。いつの間にか死角から飛び出していた。「……あ」



「五瀬、か」

 龍が自分の名前を呼ぶ。

 殺人現場を目撃した稲穂は足が震え、生唾を飲み込んだ。心なしか、ドスが利いたような声に聞こえる。



「あ、あの……こ、殺さないで」

「誰が殺すか、バカ」



 稲穂のことを一瞥いちべつしただけで、龍は気に留めた様子もなく、玄関へ歩を進める。

 ぐったりと横たわっている校長先生に向かって、追い打ちをかけるように何度も日本刀を振り下ろす。



「な、なにしてんの。やめてっ」

 龍の行動を止めようとして、稲穂は一歩進み出る。

 だが、よくよく見てみると、校長先生の身体に刃先は触れていなかった。

 そこに漂う黒い影のようなものが切り刻まれていき、だんだんと色が薄くなっていく。

 影が全て消えた瞬間、校長先生は息を吹き返し、体勢を変えて血を吐いた。

 龍は深い溜め息をついて、手に持った日本刀を離す。

 それが床へ到着する直前、まるで煙のように形を消した。



「……なにをしたの?」

「いや、なにも」

「保健の先生は?」



 恐る恐る口を開いた稲穂は、養護教諭に目を向ける。

 龍も振り返って、稲穂の視線の先を追った。

 養護教諭は尻を地べたにつけ、頭を深く垂れたまま動かないが、僅かに口元から息の漏れる音が聞こえる。

 龍がひとことだけ言った。



「問題ない」



 そうはいっても心配だったが、稲穂は龍のほうへ視線を戻した。

 ふらりと龍の影が揺れる。両腕を抱いて、震えているようだった。

 そうだ、たったいま龍は外からきたのだ。



「あ、わたしのでよかったら使って」

 体操着入れをまさぐってタオルを取り出す。

 龍がそれをまじまじと見つめるので、タオルを持つほうとは逆の手をぶんぶんと振った。

「だ、大丈夫だよ。予備で持ってきたやつだから。まだ使ってないし……」



 龍は無言でタオルを受け取る。

 まるで女子マネージャーのようなシチュエーションだと思った。

 稲穂は自分の身体が火照ほてってくるのを感じる。



「あ……いや……ご、ごめんっ深い意味はないからっ」

 龍に背中を向ける。ふわりといい匂いがして、振り向こうとしたときには、龍の顔がすぐ隣りまで来ていた。

 びっくりしすぎて、体勢を崩しそうになる。

 しかし、稲穂の動揺っぷりには気づいていないのか、目もくれずに稲穂の肩越しから、ある一点を龍は見つめていた。



「ドア開けてんのに、なんで雨が入ってこないんだ?」

 稲穂は龍の視線の先を追った。確かに裏口は開いているが、床に濡れた様子はなかった。

 そばに座り込んだ養護教諭の身体にも、全く雨が降りかかっていない。そこで、ふと稲穂は気がついた。

 濡れていないといえば、龍の体育着はボロボロになっていたが、身体そのものは濡れていないようだった。

 というか、なにがどうすれば、こんなボロボロになるの……?



「怪我、してる?」

 龍の腕には、何本かの筋がついていた。それが治りかけの切り傷だということに気がつくまで、少しだけ時間がかかった。



「大丈夫、手当してくれたから」

 手当。それを聞いて稲穂は、なぜか彩のことだと思った。



「彩に会ったの……?」

「彩? ああ、保食神うけもちの……さんとは、そこで会ったよ」



 龍が指差すほうを覗き見て、そっと稲穂は、校内と外との境界に手を伸ばす。

 神経が直接刺激されるような痛みが走ったが、稲穂は我慢した。

 最初に触れたときより、だいぶ慣れてきたようだった。



 龍は抵抗なく、すんなりと裏口を通り抜けていく。

 龍が周りを見回すと、紙垂しでのようなものが頭上から垂れ下がっているのが目に留まった。

 見上げると、そこには細い注連縄しめなわが横断している。



「これは……? まさか、結界か……?」



 彩が出て行ってから二十分弱が経った。このまま、ここにいるわけにはいかない。

 彩からもらったお守りを、稲穂は左手でぎゅっと握りしめる。ぽぅっと光ったような気がした。

 いままでの見えない壁が幻のように、抵抗感が急に一切なくなって、稲穂は前のめりにけそうになる。

 稲穂は龍の脇をすり抜けて、外へと飛び出していった。



 臆病な自分が大嫌いだ……!



 外へ出た途端、轟音とともに、勢いよく全身を叩きつけられる。人生で初めて雨に打たれたような気がした。

 校舎を横切る際、亀裂が入った壁を目の当たりにする。貫通はしていないようだったが、弾痕とも見分けがつかぬ穴が無数に開いている。

 なにがなんだかよくわからなかったが、ここで立ち止まってはいられない。



 体温が急激に奪われていく中、徒競走の自己記録に負けないくらいの、全速力で走り出した。

 この雨の中だ。視界は極端に狭く感じ、雨音によって聴覚も遮られているように思う。

 僅かな痕跡も見逃すまいと目を凝らして辺りを見回すが、やっぱりか、と肩を落とすしかほかになかった。



 雨雲が霧散し、太陽が顔を覗かせてくれることしか、いまの頼みの綱はないだろう。

 それまで、やっぱり待っていたほうが良かったのかもしれない。

 ……いや、駄目だ。彩のことを置いて、一人っきりで教室には帰れない。



 もう何十分間も、グラウンドをぐるぐる回っているような気がする。

 ここがグラウンドなのかも、もはや判然としなくなってきた。

 もし、ここがグラウンドではなかったら、わたしはいったいどこを走ってる?

 稲穂は言い知れぬ不安感にさいなまれた。



 もう二人は教室に帰っているのかもしれない。

 もしかしたら、稲穂のほうが帰れなくなってしまい、二人がまた探しに来るという負の連鎖に陥ってしまうかもしれない。

 孤独感に襲われ、我心を見失ってしまいそうだった。



「あ、彩……」稲穂は押し潰されそうな気持ちを跳ね返すように叫んだ。「彩っ!」



「まさか……だったとはね。……にでも浸かった?」

 彩の声だ。間違いなく、聞き馴染んだ親友の声だった。

 そう思った瞬間、前方から空気を切り裂くような、けたたましい音が響いてくる。

 なにごとか考えるよりも先に身体が動いたが、急ブレーキをかけようとしてつまづき、稲穂は派手に転んでしまった。

 雨水とグラウンドの土が混ざった泥を大量に浴びてしまう。



 矢を運んでいった風が轟音とともに横切っていく。一瞬のことで、なにが起こったのか瞬時にはわからなかった。

 結構な大木であるにもかかわらず、一瞬にして太い幹は横に亀裂が入り、地震でも起きたのかと間違えるほどの衝撃をグラウンド中に与えながら、その木の向こうにあったフェンスをし潰しながら倒れた。



 どこから湧いて出てくるのか、音はするのだが、暗い雨の向こうから矢が見えたときには手遅れだった。

 次の瞬間には矢と思しき物体が稲穂の顔面すれすれを通り過ぎていく。目に見えない速さとは、このことを言うのだろう。



 やっと彩の姿を視認する。その前方には、彩と対峙する不審者の姿も確認できた。

 だが、その不審者の容姿は驚愕なものだった。不審者の頭は前と後ろに一つずつあって、手や足も前後に四本ずつある。

 簡単にいうと、二人の男が背中合わせに癒着した、そんなふうな容姿だった。

 真横から見たいまとなっては、その奇妙な容姿がよくわかる。クラスメイトが話していた「二人」というのも半分だけ当たっていた。



 まさに矢継ぎ早といったように、さほど時間を置かず次の矢が飛んでくる。

 近くまで来てしまったため、稲穂はなすすべもなく、あっという間に、矢が眼前まで到着してしまった。

 しかし、一陣の疾風が吹いたかと思えば、ふわりと矢の軌道が逸れて、闇の彼方へと消えていく。

 唖然とする稲穂のことを、誰かが優しく包み込むように抱く。

 それが誰だったのかはわからないが、ほんの少しだけ稲穂は、女性の姿が見えたような気がした。



 その女性とともに、どこからともなく吹いた風に乗って、妙な匂いが稲穂の鼻腔に届く。

 次の瞬間、空中に放り出される彩の姿を、稲穂は目の端に捉えた。彩の身体からは、鮮血がほとばしる。

 そこまでは覚えているのだが、それからあとの記憶は突然、時空をワープしたかのように欠落していた。

 雨音が止んだ感覚があり、急に視界が開けてきたと思ったら、今度は真っ白になりすぎた景色の中へ、稲穂は飲み込まれていくような浮遊感を覚えた。

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