(三)雨中の熱戦となりぬ

 暗いだけならまだしも、雨が降っていると物音がかき消され、相手がどこにいるのかわかりづらい。裏口を出た彩は、背後を取られないよう壁伝いに前へ進んだ。パトカーだろうか、赤い光がかすかに見えている。



 裏口から離れてすぐのところ、校舎の外壁が崩れた、その瓦礫がれきの上に、うずくまる龍の姿があった。かなりの出血はしているが、荒く肩を揺らしているあたり、まだ生きてはいるようだ。宿儺・ ・の姿はどこにも見えない。専門ではないが、この隙に応急処置をしておこう。彩は両手で椀をつくり、そこに向かって息を吹きかける。すると蒲黄かまのはなが、たちまちあふれんばかりに両手を埋め尽くした。



「傷口は雨で洗い流されているね。あとは、それを傷口にまぶして。だいぶ楽になるから」



 その一連の行動を見て、龍は驚いたような表情をした。蒲黄を受け渡し、彩は「安静にしてて」と言い残し、その場を去ろうしたが、「お待ちください!」と龍に呼び止められた。



「ん……?」

「相手は宿儺すくなです。狙いはたぶん、俺です」蒲黄のおかげか、もうすっかり血は止まっているようで、龍は立ち上がろうとした。「だから、俺がなんとかしないと……」

「そう……」



 彩は前かがみになって、ぐいっと顔を近づける。どことなく、あのヒト・ ・ ・ ・に龍の雰囲気が似ていると思っていたが、道理で、と彩は思う。暗雲の垂れ込める空を見上げ、彩は太陽があるはずの場所を探した。髪の毛が頬に貼りつき、睫毛まつげにかかった雨の重みで、上手くまぶたを開けられない。彩は腰に右手を当て、鎖骨のあたりに左手を沿わせ、それから胸を反らせた。



「あたしは保食命うけもちのみこと。こんな見た目だけど、あなたよりは強いと思うよ?」

「はい、承知しています。でも、わざわざ保食神うけもちのかみさまの御手おてわずらわせるわけには……」

「勘違いしないで」彩は深く息を吐いた。「あたしは保食じゃなくて保食

「……えっ?」

天照大神あまてらすおおみかみから拝命されたことを実行するだけで、別にあなたを助けるわけじゃない」起き上がろうとする龍を押しとどめ、彩は校舎のほうを指さした。「あなたには、してもらいたいことがあるの。あなたにしか、できないことよ」



 用件を簡潔に伝え、雨のなかを走り出す。標的である龍を見失っているせいか、ぱたりと攻撃がみ、あたりには雨音しか聞こえなかったが、まだいることは確実だろう。もうすでに学校を離れているとは思えない。ただ、闇雲に攻撃を仕かけてくる野蛮人でないことは、ひとつの救いかもしれなかった。到着したであろう警察官も含め、これ以上の被害を出さないためにも、早いところ相手を倒したほうがいい。彩はそう思った。



 くうを切る音がした。即座に身を引いて、飛んできた矢をかわす。その瞬間、日本刀の切れ味鋭い刃先が振り下ろされた。それも間一髪で躱し、武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいと対峙した牛若丸うしわかまるよろしく峰を蹴って宙を舞う。かぶとかぶった、ふたりぶんの頭部を通り越し、グラウンドを囲んでいるフェンスに、思いっきり身体をぶつけた。



 想像しているよりもはしにきていたようだ。フェンスの網目に指を突っ込んでみても、欲しいものには、まるで手が届かない。また空を切る音がかすかに聞こえ、太刀たちが右方向から飛んでくる。彩が素早くしゃがみ込むと、慣性力が働いて残された髪の毛の一部を、少しだけ切られてしまった。



 今度は逆方向から、足元を狙った攻撃が飛んできて、彩はしゃがんでいた状態から、一気に膝を伸ばす。田んぼの境界に設けられたフェンスは、見るも無残に真っぷたつへと叩き切られた。雨水が四方八方に弾け飛ぶ。用水路をび越え、畦畔けいはんに着地した彩は、植えられてから二週間ばかりが経つ、十センチほどまで成長した稲を二本、つかみ取る。



「……いただきます」

 そうつぶやいて稲を振ると、たちどころに刃渡り十センチほどの小刀に姿を変えた。その小刀を構えて、相手の動向に気を配る。相手が二刀流なら、こちらも二刀流でいこうと思い、農家には申し訳なさを覚えつつ、彩はもう一本を抜く。少し風が強くなってきたせいか、あたり一帯の気が乱れていた。普段はさほど感じることのない、木精くくのち野精のつちの気配さえも混ざり合って、宿儺の動きを探知するのが難しくなる。



 狙われているのは自分だという、龍の言っていたことが自意識過剰でないなら、彩の頼みに従って、校舎のなかへと入っていった龍を襲うため、宿儺も校舎へと向かうはずだ。そこには、もちろん最も危惧すべき稲穂もいるし、ほかの大勢の人たちが詰めかけている。是が非でも食い止めておかねばならぬ。軽々とした身のこなしで、グラウンドへと舞い戻った彩は、そっと目を閉じて耳を澄ませた。



 なにかが猛スピードで近づいてくる音が聞こえたため、最小限の動きで身をよじって躱す。その「なにか」は、彩の鼻先をかすめていく。だがそれに構うことなく、彩は神経をとがらせ続ける。視覚情報をなくし、余計な情報を遮断しているほうが、いつもより早く反応することができるだろう。



 暗がりのなかに、四メートル弱ある宿儺の巨体が、ぬっと姿を現した。宿儺の右足に向かって突撃すると、佩楯はいだて脛当すねあてのあいだにある、よろいに守られていない布部分を狙って、小刀の切っ先を力の限り突き刺す。いくら見た目が小学生といえど力は強いはずだが、わずかに外のはかまが切れた程度で、なかの皮膚に至っては少しだけり込んだだけだった。



 刺さった異物を振り払おうとしてか右足を高く蹴り上げたため、彩は宿儺の足の甲をステップにしてバク宙する。なんとか着地はできたが、休んでいる暇はない。振り下ろされた太刀を、ふたつの小刀で受け止める。金属がこすれる音を響かせながら、前方へと火花を散らせて走った。籠手こての隙間から見えた皮膚部分にりかかる。X模様の掠り傷はできるが、それほどダメージは受けていないようだった。



 矢継やつばやに繰り出される矢を、側転したり小刀でぎ払ったりして、彩は刀を持っているほうの宿儺の背後へと回る。刀と違って、矢は遠距離でないと十分な攻撃はできないはずだ。大きく水飛沫しぶきを上げながら方向転換し、彩は弓を持ったほうの宿儺の懐へと飛び込もうとする。だがその瞬間、地面が鳴動し、バランスを崩してしまう。目の前で、宿儺は脚を上下に動かしていた。地響きの音が聞こえ、グラウンドの土や芝生しばふが泡雪のごとく舞い散る。



 その場にとどまざるを得なくなった。土神はにやす草女神かやのひめの悲鳴が耳をつんざく。気を取られていた隙に、宿儺の右足、それも足裏が、彩の眼前まで迫ってきていた。気がついたときには、けるだけの猶予はなく、彩は顔の前で腕を交差させて防御し、とにかく、もろに食らわないようにするだけで必死だった。

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