(下)

 警官が三、四人、教頭先生のもとへ報告しにきた。

 うち一人は、ここの小学校の卒業生ということもあって、積もる話もあるのだろう、事件以外の話に花を咲かせている。

 ゲリラ豪雨だったようで、窓からは煌々とした陽光が差し込み、すっかり雨は止んでいた。

 学校の敷地外へも見回りに出かけていた警官が戻り、つかの間の談笑もお預けとなる。



「それらしい人物は見当たりませんでした」

「そうですか。やっぱり逃げてしまったのですね」

「重傷者が出なかったのは、不幸中の幸いでした」

「ええ。本当に」



 唯一、校長先生は病院へ搬送されたが、病院からの連絡によると軽傷で済んだようだった。

「またなにかありましたら、いつでも連絡ください」

 警察の事情聴取は、教師のみを対象として行われた。

 被害届を出したあとは、警察のほうで不審者を割り出してくれるそうだが、恐らく、いや、絶対に捕まりはしないだろう。



 そこから少し離れたところで、彩と龍は聞き耳を立てていた。

「校舎の崩れたところは、とりあえず石土神いわつちびこが修復してくれたみたいだから」

「すみません」

「でも一時的な措置だから。夜になったら、またここ集合ね。いい?」

「はい……俺のせいですから」

「誰のせいでもないよ」

「いえ。俺が招いたんです」

 頑なな龍に、彩は話を逸らせた。



「稲穂は?」

「倒れた直後はうなされていたようですが、いまは落ち着いているみたいです」

「あ、そ」

「助けていただき、ありがとうございます」

「あたしがしたのは、あくまでも応急処置だから。病院で診てもらうのをオススメするよ」

「はい……」



 彩は階段を上る龍の後姿を見上げた。

 さすがというべきか、完全に傷口が塞がっている。というよりも、傷口が消えている。蒲黄に、ここまでの効能はないはずだが、こんなにも神の力は偉大ということか。

 ……いや。いくら素戔嗚尊の子孫といえど早すぎやしないか。

 訝しげに彩は、龍の全身を隈なく見定めた。そこで、龍の持つタオルに目を留める。



「それ……稲穂のじゃない?」

「あ、はい。そうです」じとりとした視線を彩が投げる。「な、なにか?」

「変なことしてないでしょうね? そのタオルで」

「変なことというと?」

「いや。別にいいんだけど……いや。よくはないけど!」ひったくるように龍の手元から、彩はタオルを強引に奪い取った。「返して」

「はあ……?」

 わけがわからず龍は呆然とする。彩は胸元で、そのタオルをぎゅっと抱きしめ、それから顔を埋めた。

 あなたのほうがよっぽど変なことしてませんか。



「……そう。あ、あのさ……」

「二人とも。教室に入って」

 彩がなにかを言いかけたとき、担任の先生とばったり遭遇し、龍と彩は会話を中断し、有無を言わずに教室へ入ることになった。

 保護者がきている児童は、保護者とともに帰路へ着くことになり、事情を話し保護者が来れるようなら来てもらい、どうしても来れないようなら、なるべく集団下校で帰ることになった。

 体育着入れを手にしたとき、担任の先生から声をかけられた。



「あ、受持さん。きょう、親御さんは来てなかったよね」

「は、はい……仕事が忙しいみたいで」彩は龍と目配せした。「あたしは稲穂を起こして一緒に帰ります」

「そうだな、ありがとう。そうしてくれると助かる」

「御饌都神さんは……」

「途中まで同じ方向なので送っていきます」

「そうか。いがったいがった。じゃあ気をつけて帰りなさい」



 階段を下りて二階へ到着する。角を曲がれば、すぐに保健室が見えてきた。その隣りには職員室もある。



「あら。二人とも」

 ちょうど養護教諭が退室するところだったようで、ひょっこりと顔を覗かせた。

「お見舞い? よかった、先生これから会議だから。五瀬さんのこと、よろしくね」



「はい!」

 養護教諭が立ち去ると、彩は真顔に戻って、龍に問いかける。

 なにごともなかったかのような養護教諭の反応が気になったのだ。



「……どこまで覚えてないの?」

「気を失う前後十分間くらいだと思います」

「あとも?」

「はい。気を失ったという記憶もなくなるので、そこだけ突然ぽっかりと記憶をなくした状態になります」

「なるほどね……」



 保健室の中を区切っているカーテンを開ける。

 ベッドの上には、眉間に皺を寄せた稲穂が眠っていた。



 …………。

 ……。



 誰かが自分のことを呼んでいる気がした。

 いつからここで横になっていたのか、稲穂の正面には見覚えのある白い天井が見えている。

 どうやら保健室にあるベッドの上のようだったが、記憶が定かではなく、ここまでに至った経緯がぼんやりとしていて思い出せない。

「大丈夫か?」と男の子に話しかけられ、すぐそばに立っている龍の存在に気がつく。

 稲穂は驚き、掛け布団に半分だけ潜り込んでしまった。



 赤くなった耳を隠すために、目元だけを辛うじて出す。

 時間が止まったかのような悠久ののち、ようやく龍が発した質問の内容を理解した。

 稲穂は必要以上に大きく頷いた。どうして龍が隣りにいるのだろう。

 なにが起こったのか、混乱が混乱を呼んだ。

 必死に記憶を手繰たぐり寄せて、最新の映像はどれか整理してみる。

 確か、雨の中を飛び出して。彩が血飛沫ちしぶきを上げて倒れるところを目撃して……



「……彩……は……?」

「彩……? ああ。親友だったみたいだな。残念だけど……」



 龍のその一言で、稲穂は全てを察した。

 突然の出来事に視界がぼやけ、差し込んだ日光が目元に当たり、水滴が眩しくキラキラと煌く。

 寝顔を見られたかもしれない上に、泣き顔まで男の子に見られるのが嫌で、龍に顔を背けて壁側を向いた。

 滴り落ちる涙が、枕元を濡らすのに時間はかからず、ちょっとした水溜りができあがる。



「うぐっ……くぅ……」

 泣き声を押し殺して、掛け布団の中へと潜り込んだ。

 初夏にもかかわらず分厚い布団は、遮音するのにある程度は役に立ったが、汗もドッと溢れ出してくる。

 熱気のこもった布団の中はやけに蒸し暑い。

 汗とも涙とも分からない液体を拭いつつ、わたしは泣き続けた。

 乾き始めていた体育着は、すぐにまた濡れてくる。



 なにか龍が話しているような声は聞こえるが、布団の隙間から漏れてくる音はくぐもり、その内容は判然としなかった。

 そのとき、ガラガラと保健室のドアが開く音がして、誰かが入ってきた靴音が聞こえる。

 それから少しして、力強く掛け布団が剥ぎ取られた。

 御饌都神くんがっ強引にっとも思ったが、どうやらそういうことではないらしい。

 稲穂の顔を誰かが覗き込むような形で、視界の右側から長い髪の毛が垂れてきて顔をくすぐられた。

 長い髪の毛……女の子?

 影を落とすその誰か、を確認した稲穂は、口を半開きにして呆然とした。



「目が覚めたみたいだね、稲穂」

「彩? なんで……」



 稲穂は彩の全身を隈なく見渡した。

 傷跡ひとつすら、どこにもついていない。

 足もある。ちゃんと床に立っている。



「あれ……生きてる?」

「いや、勝手に殺さないで」

「でも……斬られてなかったっけ?」

「あー……峰打ち?」

「え。血、めっちゃ出てたよ?」

「あー……血のり?」

「な、なんで?」



 素直な疑問が口をついて出る。いつから時代劇の斬られ役に抜擢された?

 引き寄せた椅子を彩にすすめながら、龍が追い打ちをかけるように呟く。



「峰打ちでも死ぬことあるけどな」

「ちょ、余計なこと言わないで」

「え。やっぱり死んでるの?」

「死んでないから。勝手に殺さないで」

 椅子に座りかけた彩は、中腰になってツッコむ。

「もう起きて大丈夫?」



「うん……」

 彩の顔を執拗にペタペタ触る。間違いない、本物の彩だ。

 確信した稲穂は、不意に龍のほうへ顔を向ける。

「御饌都神くんっ? なんだったの、残念って」



「……ああ。親友じゃなくなって残念だ、という意味だ」

「どういう、こと……?」



「それはじきにわかる。俺たちとは住んでいる世界が違うってことに……」

 稲穂が寝ているベッドの近くに椅子を持ってきて、龍は腰かけながら淡々とした口調で話し始める。

「覚えているか、宿儺のこと」



「スクナ……?」

「そう、両面宿儺りょうめんすくなだ」



 両面。

 身体が前後ろについていた、あの姿のことだろうか。

 彩は鋭い目つきで、龍のことを睨みつける。



「……あれって?」

「俺も実物を見るのは初めてだが、間違いなく両面宿儺だ。五瀬も、名前くらいは聞いたことあるだろ?」



 稲穂は素直に首を振ると、驚きと落胆が入り混じった顔をする。

 残念そうに眉根を寄せて、龍は説明を始めた。

仁徳天皇にんとくてんのう六十五年の条に記されている、難波根子武振熊なにわのねこたけふるくまによってちゅう……」

「男性が、ふたり、入ってきたでしょう?」



 龍の言葉を遮るように、彩は身を乗り出し、二人の間に割って入る。

 稲穂は小首を傾げた。

「ふたり、というか、背中合わせにくっついていたような……」



 彩が肩を落としたような気がした。

「ほ、ほら。テレビで見たことない? 結合双生児けつごうそうせいじって」



「どう見ても大人だったよ? いままで、くっついたまま生活してたの?」

「それに……なんで鎧の姿を? 武器も日本刀と弓矢だったし……」

「どこまで、覚えてる?」



「彩を見つけて……そしたら斬られて……血が……」

 そのときの映像をまざまざと思い出す。

「えーっと、そのあとは、あれ? 目の前が真っ白になって……いつの間にか、ベッドの上に……?」



「そう……ならいいの」

「……教えたほうがいいんじゃないですか?」



 龍の提言に彩は首を振って強く否定する。

「知らないほうが幸せなこともある」



「でも、気配を発してしまったんです」

 なおも食い下がって龍は続けた。

「いままでどおりの生活は送れませんよ? 知ってたほうが、力を……」



「わかってる!」

 彩の気迫に圧され、龍は口を真一文字に結ぶ。

「そのぶん、あたしが守る。自分の命に変えても」



 なんだか稲穂は、とてつもない疎外感を覚えた。龍は静かに続ける。

「この先も、あのようなことが起きるかもしれません。周りに被害が出るかも……」



「スサノオなんかと一緒にしないで!」

 顔を背けた俯く龍は、このときどんな顔をしていたのか。

 ベッドの上に座る稲穂の位置からは、全く表情が読み取れなかった。

「ごめん……でも……できることなら、こんな殺伐とした環境に足を踏み入れてほしくないの」

 彩は、今まで見たことのないほどの、辛辣な表情を浮かべていた。

「もうこれ以上……減らしたくはないから」



 三人のもとに沈黙が下りてくる。

 時計の短針がときを刻む音が、どこからともなく耳に届いた。

「あ、これ……」



 彩が思い出したように、体育着入れを手渡してくる。

 それを稲穂が抱き寄せたとき、胸元に当たる違和感に気がついた。

 立ち上がった彩につられて、稲穂はベッド下に揃えられた上履きに足を入れる。

 首筋にかかった紐を手繰り寄せた。



「……それじゃあ、もう帰ろう」

「あ、お守り……」

「持ってて。あげるから」



 それだけ言って、彩は保健室のドアを開ける。

 三人は無言のまま、帰宅の途に就くこととなった。

 道中、気まずい空気感は変わることなく、気がつけばいつの間にか家のすぐ近くまで来ていたようである。

 まるで自分が鳩にでもなったかのように、無意識の状態で帰巣本能の赴くまま、稲穂は丁字路を左折した。



「じゃあ、また明日……」

 背後から彩の声がする。稲穂が振り向いた瞬間には、彩の姿はもう既になかった。



 からからと一枚目の扉を開けて風除室へ入り、鉢植えの下に隠してある鍵を取り出して、二枚目の扉に差し込む。

 しかし鍵がうまく回らず、引き戸に手をかけてみれば、すんなりと抵抗もなく扉が開かれた。

 母が帰ってきているのかと思って中に足を踏み入れた瞬間、どこからともなく現れた男性に稲穂は正面衝突しかけて、なんとかその場に踏みとどまる。



「ああ、おかえり……きみが昭義あきよしの娘だね」

 その男性は優しげな口調でたずねる。昭義。

 それは稲穂の父親の名前だった。

 動揺しつつ「はい……ただいま帰りました」と返す。

 男性は脇にけて、稲穂が通れるように道を譲った。



「あっ……もうお帰りですか。すみません、なにもお構いできなくて……」

 咄嗟とっさに口をついて出た言葉に、自分自身、言い知れぬ違和感を覚えた。



「いや、いいんだ。次は、きみのお母さんが在宅のときにでも……またお邪魔するよ」

 その男性は着物のそでひるがえして、玄関を出て行く。



「はい……お気をつけて……」

 からからと外の扉が閉まる音を待ってから、稲穂は靴を脱ぎながら「ただいま」と改めて言った。

 まだ母が帰ってきていないのだろう、返答はなかった。

 冷蔵庫の扉に「チンして食べてね」と書かれた紙が、磁石で貼りつけられている。

 ラップが被せられた皿を取り出し、冷蔵庫向かいにある電子レンジの中へ入れてボタンを押した。

 レンジの秒数がカウントダウンしていく中、はたと先ほど起こった出来事を思い返す。



 いまのって、いったい誰だったのだろう。

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