(七)卒爾に訪るるまらうと
誰かが自分のことを呼んでいる気がした。いつからここで横になっていたのか、稲穂の正面には見覚えのある白い天井が見えている。どうやら保健室にあるベッドの上のようだったが、記憶は定かではなく、ここまでに至った経緯がぼんやりとしていて思い出せない。すぐ近くで、大丈夫か? と男の子に話しかけられ、龍が立っていることに気がついた。稲穂は驚き、かけ布団に半分だけ
赤くなった耳を隠すため、目元だけを
「……彩……は……?」「彩……? ああ。親友だったみたいだな。残念だけど」
龍の、そのひとことで、稲穂は、すべてを察した。突然のできごとに視界がぼやけ、差し込んだ日光が目元に当たり、水滴が
「うぐっ……くぅ……」
泣き声を押し殺すのに必死だった。初夏にもかかわらず分厚い布団は、遮音するのにある程度は役に立ったが、汗もドッと
なにか龍が話しているような声は聞こえるが、布団の
「え。泣き声? 眠り姫ちゃんの?」その人物は声をひそめ、なにごとか龍に
それから少し経ち、上半身に感じていた、かけ布団の重みが消えた。視界の右側から長い髪の毛が垂れ、稲穂の頬をくすぐっていく。誰かが、自分の顔を覗き込んでいるようだ。影を落とす「その誰か」を確認した稲穂は、口をあんぐりと開けて固まる。
「目が覚めたんだね、稲穂」「彩? なんで……」
正直、乱反射している視界のなかで、うまく焦点が定まらない。しかし、半分は願望だったのかもしれないが、解像度の粗い輪郭でも、稲穂は彩の顔だと瞬時に認識する。涙がおさまるまで、しばらくの時間がかかった。頭の先から足の爪先まで、彩の身体を
「生きてるん、だよね?」「勝手に殺さないで」「でも。斬られてなかったっけ?」「あー。峰打ち?」「え。血、めっちゃ出てたけど」「あー。血のり?」「な、なんで?」
素直な疑問が口をついて出る。いつから時代劇の
「峰打ちでも、死ぬことあるけどな」「ちょ、余計なこと言わないで」「え。やっぱり死んでるの?」「死んでないから。勝手に殺さないで」
イスに座りかけていた彩は、中腰になってツッコむ。キャスターつきのイスが、コロコロと後方へ転がっていく。引き寄せたイスに座りなおした彩は、上体を起こす稲穂を心配そうに見つめた。
「もう起きて大丈夫?」
「うん……」彩の顔を、執拗にペタペタと触った。間違いなく本物の彩だ、と確信した稲穂は、引き寄せたかけ布団越しに、龍のほうへと目線を向ける。汗で濡れた髪の毛を
「……ああ。親友じゃなくなって残念だ、という意味だ」
「どういう、こと……?」
「それは、もうじきわかる。俺たちとは住んでいる世界が違うってことに」龍は淡々とした口調で語りかける。「覚えているか、
「スクナ……?」「そう、
両面。身体が前後についていた、あの姿のことを稲穂は思い出す。彩は鋭い目つきで、龍のことを睨みつける。
「……あれって?」
「俺も実物を見るのは初めてだが、間違いなく両面宿儺だ。
「銃を持った男性と、日本刀を持った男性が、ふたり、入ってきたでしょう?」
龍の言葉を遮るように、彩は身を乗り出し、ふたりのあいだに割って入る。稲穂は小首を
「ふたり、というか、背中合わせにくっついていたような……」
「ほ、ほら。テレビで見たことない?
彩の表情が曇ったような気がして、稲穂は違和感を覚えつつも、それ以上の追及はしなかった。
「もしかして、教えてないんですか?自分の祖先のこと……」
わたしの先祖とは、いったいどういうことだろう、と稲穂の心はざわつく。龍の提言に、彩は首を振って強く否定した。「知らないほうが幸せなこともある」
「でも、気配を発してしまったんです」なおも食い下がって龍は続けた。「いままでどおりの生活は送れませんよ? 知っておいたほうが、力を……」
「わかってる!」彩の気迫に
なんだか稲穂は、とてつもない疎外感を覚える。龍は静かに言った。
「この先も、あのようなことが起きるかもしれません。周りに被害が出るかも……」
「スサノオなんかと一緒にしないで!」顔を背けて
彩は、いままでに見たことのないほどの、辛辣な表情を浮かべていた。三人のもとに、沈黙が
「あ。これ……」
彩が思い出したように、体育着入れを手渡してくる。それを稲穂が抱き寄せたとき、胸元に当たる違和感に気がつく。首筋にかかった紐を
「……それじゃあ、もう帰ろう」
「あ、お守り……」
「持ってて。あげるから」
それだけ言って保健室のドアを開けた彩についていくため、稲穂はベッドの下に揃えられていた上履きへ足を入れる。三人は無言のまま、帰宅の
「じゃあ、また学校で……」
背後から彩の声がする。稲穂が振り向いたときには、もうすでに彩の姿はなかった。カラカラと一枚目の扉を開けて風除室のなかへ入り、鉢植えの下に隠してある鍵を取り出して二枚目の扉に差し込む。しかし、うまく鍵が回らず、引き戸に手をかけてみれば、すんなりと扉が開く。母が帰ってきているのかと思って足を踏み入れた瞬間、どこからともなく現れた男性に正面衝突しかけて、なんとかその場に稲穂は踏みとどまる。
「ああ、おかえり……きみが
その男性は優しげな口調で
「あっ……もうお帰りですか。すみません、なにもお構いできなくて……」
「いや、いいんだ。次は、きみのお母さんが在宅のときにでも、またお邪魔するよ」
その男性は、なに食わぬ顔で玄関を出て行く。
「はい……お気をつけて……」
カラカラと外の扉が閉まる音を待ってから、稲穂は靴を脱ぎながら「ただいま」と改めて言う。まだ母が帰ってきていないのだろう、返答はない。冷蔵庫の扉に「チンして食べてね」と書かれた紙が、磁石で貼りつけられている。ラップの
いまのって、いったい誰だったのだろう。
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