(五)グラウンドの上にて往ぬ

 弾かれた小豆あずきのように、後方へと吹っ飛ばされる。身体の制御は利かず、何回転もしながら、まるで水切りのように、何度も地面へ叩きつけられた。大丈夫ですか、と心配そうな風女神しなとべささやきが、そよ風のような心地よさとともに耳へ届く。そうか、きみが受け止めてくれなかったら、きっといまごろ、あたしは死んでいたかもね。ありがとう、と彩はつぶやいた。大丈夫、まだ身体は動く。



 なおも、地面の揺れる感覚があった。どうやら宿儺すくなが移動しているようで、だんだんと地鳴りの響きも近づいてくる。洋靴も草鞋わらじも履いていない大きな両足が、仰向あおけに倒れていた彩の目の前に現れた。片方の宿儺が前かがみになって踏ん張り、もう片方が、その上に載っかって全体重を預けている状態だ。まずい、このままだと踏み潰される。



 彩は咄嗟とっさに、一本の小刀をクナイのように飛ばす。これが下で支えていた宿儺のアキレス腱に刺さり、期待していなかった以上のダメージを与えたようで、バランスを崩して地面に膝をついてしまった。



 即座に彩は立ち上がり、上に載ったジタバタと足掻あがき続ける足をいくぐる。もうひとつの小刀で、もう一方のアキレス腱も斬ると、両手を完全に地面へとついてしまう。支えを失った上の宿儺は動くに動けず、下のほうも、上に載った相方の自重のせいで、地べたに倒れ伏すことを余儀なくされた。地面に転がった太刀たちを飛び越え、ふたつある宿儺の頭の先へ向かい、彩は勝利を確信して仁王立ちする。



「まさか弱点がアキレス腱だったとはね。もしかして、逆さまで川にでもかった?」



 ウィットに富んだジョークをかますだけの余裕は出てきたようだった。しかし、この季節では小刀しかつくれない。小刀だけじゃあ、トドメを刺すのも、ひと苦労しそうだ。彩はため息を吐く。宿儺の頭頂部に狙いを定め、彩は小刀を構える。なるべく痛くないようにするからと、呼吸を整えて心の準備をしていたとき、不意に風向きが変わった。文字どおり、吹いていた風の向きが変わる。



にほふ……この気配けはひは……」



 これは、風男神しなつひこからの便りだ。彩は風上に目を向けると、そこにあった人影を視認する。走ってきたのか、その人物は肩を揺らし、息を切らしていた。晴れるまではいかなくとも、雨脚が弱まってきている。その人物に気づいたらしい上の宿儺は、載ったままの状態で矢筒やづつへ手を伸ばし、引き抜いた矢を風上に向けて放つ。空を切る音が、猛スピードで遠ざかっていくのが聞こえていた。



 …………。

 ……。



 勢いよく全身を叩きつけられている。人生で初めて雨に打たれたような気がする、と稲穂は思った。校舎を横切る際、亀裂が入った壁を目の当たりにする。貫通はしていないようだったが、弾痕とも見分けがつかぬ穴が無数に開いている。なにがなんだかよくわからなかったが、ここで立ち止まってはいられない。あのまま待っているのが嫌だという、ただそれだけの思いで飛び出してきてしまったが、どこにいるかもわからない彩を探すことなんて、できるのだろうか。



 それでも、臆病な自分が大嫌いだった。彩と一緒に、教室へ戻りたい。体温が急激に奪われていくなか、稲穂は徒競走の自己新記録に負けないくらいの全速力で走っていた。泥濘ぬかるむ地面で、気を抜くと転んでしまいそうなほど、滑りやすくもなっている。視界は極端に狭く感じ、雨音によって聴覚もさえぎられているように感じた。雨雲が霧散し、隙間から日光が差してくれることを、いまは願うばかりだ。



 もう何十分間も、グラウンドをぐるぐる回っているような気がする。ここがグラウンドなのかも、もはや判然としなくなってきた。もし、ここがグラウンドではなかったら、わたしはいったいどこを走ってるの? 稲穂は言い知れぬ不安感にさいなまれた。もう彩は教室に帰っているのかもしれない。もしかしたら、稲穂のほうが帰れなくなってしまい、クラスメイトたちが捜索しにくるという、負の連鎖に陥ってしまうかもしれない。孤独感に襲われ、我心を見失ってしまいそうだった。



「あ、彩……」稲穂は、押しつぶされそうな気持ちをね返すかのように叫んだ。「彩っ!」

「まさか……だったとはね。……にでも浸かった?」



 彩の声だ。間違いなく、聞き馴染なじみのある親友の声だった。呼びかけようとした瞬間、前方から空気を切り裂くような、けたたましい音が響いてくる。なにごとかを考えるよりも先に身体が動いたが、稲穂は急ブレーキをかけようとしてつまづき、派手に転んでしまった。雨水とグラウンドの土が混ざった泥を大量に浴びてしまう。



 矢を運んでいった風が轟音とともに横切っていく。一瞬のことで、なにが起こったのか瞬時にはわからなかった。太い幹を有する結構な大木に、一瞬にして亀裂が生じる。地震でも起きたのかと間違えるほどの衝撃をグラウンド中に与えながら、その木の向こうにあったフェンスをし潰しながら倒れた。



 どこから湧いて出てくるのか、風を切る音は雨音にじって聞こえるのだが、暗い雨の向こうから矢が見えたときには手遅れだった。次の瞬間には矢とおぼしき物体が稲穂の顔面すれすれを通り過ぎていく。



 そんななかでも、稲穂は立ち上がり、走り続け、やっと彩の姿を視認する。彩の前方には、彩と対峙する不審者の姿も確認できた。しかし、その不審者たち・ ・ ・ ・ ・の容姿は、クラスメイトたちが語ったような、わかりやすい「ふたり組・ ・ ・ ・」ではなかった。前と後ろに頭がひとつずつあり、手や足も前後についている。簡単にいうと、ふたりの男が背中合わせに癒着したような容姿だった。真横から見れば、その異質さがよくわかる。



 近くまで来てしまったため、稲穂はすべもなく、あっという間に、新しく放たれた矢が眼前まで到着してしまった。しかし、そのとき一陣の疾風が吹いたかと思えば、ふわりと軌道がれ、闇の彼方へと矢は消えていく。唖然とする稲穂のことを抱く、女性の姿が見えたような気がした。



 その風に乗って、妙な匂いが鼻腔に届く。一面が黄金こがね色に染まった田んぼを想起させる、秋の匂いだ。そして、稲穂の目には信じがたい光景が映る。空中へと放り出される彩の姿だった。彩の身体からは鮮血がほとばしっているように見える。そこまでは覚えていたが、そのあとの記憶は曖昧模糊あいまいもことしていた。雨は身体に当たらなくなり、闇夜然としていた視界が急に開けてきたと思えば、今度は光しか目に映らなくなったかのように、視界全体が真っ白になっていく。そして、稲穂は気を失ってしまった。

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