(九)宿儺といふ者ありけり
「あの薪、どうしたの?」
「薪……?」どうやら娘も身に覚えがないらしく、風除室まで確認しに行ったあと、小首を
「お客さん?」わざわざ薪を持ってくる隣人に、思い当たる人はいない。誰だろう、と早苗は頭をひねる。まさかと思い、一意に絞れるような質問をした。「どんな格好してた?」
「えーっと。着物を着てて……
そこまで聴けば、早苗の脳裏には、ある人物のシルエットが浮かぶ。キッチンの戸棚を開けて確認するも、茶葉が少なくなっている様子はないようだ。それから今度は、冷蔵庫を開けて缶ビールを確認する。こちらは一本、減っていることに、すぐ気がついた。そこで確実性が増し、二分の一の選択肢が消える。稲穂のほうへ顔を向け、早苗は質問を続けた。
「それで、その人は、なにか言ってた?」「今度は、お母さんがいるときにくるって」
早苗は、そう、と生返事を返す。また仕事中に
「その人に、また会うことがあったら、伝えてくれる? いまどき薪をもらっても嬉しくないって」
…………。
……。
稲穂が家に帰ってきたとき、午後二時を回っていた。少し遅めの昼食を済ませ、きのうにやり残していた宿題の続きに取りかかる。
テレビでニュースを観ていると、夕方になって早苗が帰宅した。風除室に置かれた薪のことを
午後七時。夕食を終えた稲穂は、母の分とまとめて皿洗いする。早苗はパソコンをコンセントにつないで電源を入れ、スマホをひととおり触ったあと充電器にセットした。最後の一枚を水切りかごに立てかけ、稲穂がタオルで両手を
「……そういえば、先生から電話があったんだけど……大変だったね」
ドラマかアニメで観たかのような、現実感のない記憶が去来した。目と鼻の先をとおっていった矢、逃げ惑う人々の恐怖に満ちた表情。下校する最中、何人もの制服警官とすれ違ったことを思い出す。少なからず厳戒態勢であったことは間違いない。
「大丈夫、稲穂?」
そう
「お母さん」もとの位置にタオルを戻し、母の隣りまで行ってソファーへ腰かけた。「『リョウメンスクナ』って知ってる?」
「どうして? 急に」
稲穂が思っていた反応とは違った。知らなかったら、まず「なに、それ」と言うはずだからである。テレビを注視する母の顔色から、心なしか血の気が引いていくように見えた。すると、立ち上がって父の書斎へ行ったかと思えば、すぐに分厚い本を
かなり後ろのほうを開いて、早苗はひとつの項目を指し示す。「ら行」のページの一部に、
「六十五年に、
事典を読んでいるあいだ、キッチンに立っていた早苗はマグカップに熱湯を注ぎ、スプーンを使ってかき混ぜていた。稲穂のいるリビングまで、コーヒーの香りが漂ってくる。ほとんどの内容は入ってこず、ルビの振られた部分だけ、かろうじて理解ができる程度だ。仁徳天皇という名前を、社会の教科書でちらりと見たことがあって、それだけはなんとなく知っている。あと最近、ねこたけ
「……ひとつの胴体に対して顔がふたつ。お互いの顔が逆を向いていて、頭頂部はくっついて項もない。それぞれに手と足がある。膝はあるけど
訊きたいことは山ほどあったが、なにから質問すればいいのかわからない。とりあえず、いちばん気になったのは、この言葉だった。
「ひかがみって、なに……?」
「
「くっついていた?」
「一見すると、普通に二本ある足のようだけど、膝や爪先が両側についていて、どっち側の正面からでも裏表のないように見える足ってこと。……そう考えると、
あれ? そんな足の形してたっけ。稲穂は首を傾げる。よく観察していたわけではないし、気がついたら保健室にいたわけだから、ほんの一瞬しか見ていなかったが、下敷きになっていたほうと、上に載っかっていたほうの足は、離れていたような気がした。
「……でも、どうして急に両面宿儺のこと訊いたの?」
「う、ううん」母の質問には答えず、稲穂は手を大きく振る。「なんでもない……」
「そう……」
静かに呟いたあと、なにも早苗は訊いてこなかった。
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