その三
二人が『男女の関係』になってからも、約一年ほどはそのまま養成所では『講師』と『生徒』でいられた。
別に何か約束を取り交わしたわけではない。
瞬は彼女が考えている以上に大人だったし、彼女も生来の生真面目さから、講義を行っている間は、普通の生徒を見る目で接していた。
そしてそのまま二年が経ち、彼が所定のカリキュラムを取得した時、某声優専門の事務所のオーディションを受け、合格し、卒業していった。
二人の関係は、その後もしばらくのあいだ続いたという。
彼は声の世界で名前が売れるようになり、仕事が増え始めた時、ある日突然、
『別れよう』と、向こうから切り出した。
仕方がない、早苗はそう思った。
何しろ三十歳の差がある。
当時彼は二十一歳、彼女は五十歳だった。
ベテラン(彼女はこの言葉があまり好きではなかったというが)の女優と、人気売り出し中の男性声優とでは、結婚などという甘い夢を抱ける余地などなかった。
だから、彼からそう切り出された時、
『そう、分かったわ。元気でね』
それだけしか言わなかった。
そのまま二人は別れ、元の通り仕事を続けた。
二年ほど経った、つい最近の事だ。
しばらくの間米国へ演劇の勉強に出かけていて、帰国した時、瞬と同じ頃に養成所に居た生徒から、思いもよらぬ話を聞かされた。
彼が『業界からの引退』を発表したのだという。
当時彼は幾つものレギュラー番組を持つ若手の実力派と見做されていたから、単に声の世界だけではなく、芸能界全体でも、ちょっとした騒ぎになった。
『私も信じられませんでした。あれほどの実力を持った彼が何も言わずに辞めてしまうなんて・・・・お願いです。彼の事、調べて貰えませんか?』
早苗はそう言って、俺の前に一枚の写真を置いた。
養成所の卒業式の際、生徒全員と講師で打ち上げをやった時に写したものだという。
『真ん中にいるのが私、そして・・・・』
『左端にいるのが、長野原君・・・・瞬です・・・・』
他の全員が笑っているのに、二人だけは笑っていない。
特に長野原青年は鋭い、きっとした眼差しを真っすぐに見据えていた。
『・・・・念のため聞いておきたいのですが』俺はコールドウォーターを頼み、ウェイトレスがテーブルに置くと、直ぐにそれを飲み干して訊ねた。
(幾らコーヒーが好きだからって、それにも限度がある)
『貴方の依頼は、かつての講師としてのものですか?それとも恋人としてのものですか?』
『両方、だと言ったら?』
俺は苦笑いを返す。
『よろしい。引き受けましょう。ギャラは一日六万円と必要経費。後は拳銃が必要になった場合、危険手当として四万円の割増料金を頂戴します。詳しくはこの契約書をよくお読みになって、納得が出来たらサインをして下さい。何なら郵便で・・・・』
俺がそう言いかける間もなく、彼女はペンを取り出し、手早く書類にサインをして渡した。
書類を一通り眺め、俺は折り畳んでポケットにしまい、レシートを挟んだホルダーを引き寄せる。
『結構、ところでこれも必要経費ということで』
『分かりました』
彼女はほっとしたような笑顔を見せた。
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