その二

 七年前、彼女は同じ劇団の先輩だった人に頼まれて、出来たばかりの『声優養成所』に、講師として出かけていた。


 声の仕事に本格的に取り組み始めてそれほど長いわけではないし、人に教えるなんてとんでもないと思っていたのだが、先輩は彼女の能力の高さを早くから評価してくれていたのかもしれない。


 人を教えるというのは思っていたより難しいものだったが、やり甲斐のある仕事だった。


 自分の経験や教科書通りの方式を一方的に押し付けるのではなく、生徒たちの個性を見つけ、そして丁寧に基礎を繰り返してゆく、それは自分にとっても勉強になることが多かった。


 そんな生徒の中に『彼』がいた。


『彼』・・・・名前は長野原瞬ながのはら・しゅんという。当時まだ十九歳。芸名に聞こえるかもしれないが、本名だそうだ。


『声』の仕事を志してきた生徒には、どちらかというと、子供の頃から、

『〇〇というアニメに憧れて』とか、

『××というアニメの主人公になりたくて』というような、浮かれたというほどではないにしろ、どこかそういう『キラキラした願望』みたいなものがあるものだが、彼は志望の動機をたった一言。


『役者になりたかったから』そう答えたきりで、それ以上深くは話そうとしなかった。


 眼差しをきっと見据え、講師である彼女の言葉を一言たりとも聞き逃すまいとし、そしていざ、自分が演技をしなければならないとなると、本当にその役になりきり、発音、滑舌、表現力など、全てに於いて文句のつけようのないくらいの、能力の高さを発揮した。


 早苗はそんな彼のことを最初の内はお世辞にも好きにはなれなかった。


 優秀で非の打ちどころがないというのは、表現者である俳優(声優)の世界では却って面白くない・・・・そう思ったからだ。


 だが、或る時、まだ講義が始まる一時間以上前のこと、


 早苗は準備のために教室へやってきた。


 ドアを開けて中に入ろうとした時、中から声が聞こえたので、いぶかしく思って、そっとドアを開けてみると、彼がたった一人でセリフの稽古をしていたのである。


 鏡に向かって、誰に聞かせるでもなく、朗々とある戯曲のセリフを、たった一人で喋っているのだ。


 しかも驚くべきことに、彼の手には普通は持っている筈の台本がない。


 1メートルほど離れた鏡の側にバッグと並んで戯曲の本が置かれてある。


 彼は全部で2分程もある長いセリフをまったくことなく感情たっぷりに喋り通した。


 一度だけではない。


 二度、三度・・・・彼は同じことを同じように、いや、正確には少しづつ表現を変えて、繰り返していたのである。


 その姿を見てしまった時、早苗はまるで雷に打たれたかのようなショックを感じ、これまで出会って来たどの男性よりも、彼に『男』を感じたのだそうだ。


 その日の講義が終わった後、早苗は瞬に声をかけてみた。


 しかし彼の態度は極めて素っ気ないもので、


『悪いですがちょっと用事があるので』と無感動な声でいい、先に帰ってしまったのだという。


 他の生徒に聞いてみると、彼はいつもこんな感じで、誰が誘っても『悪いけど』と、先に帰ってしまうそうだ。


 そんな彼にますます惹かれた。


 ある日早苗はそっと、彼の後をつけた。


 すると彼は、養成所の稽古場から30分と離れていない、人気のない神社の境内で、やはり一人でセリフの稽古をしていた。


 単にセリフをしゃべるばかりではない。


 動きをつけ、本当にその役の中の人物になりきっているかのようであった。


 早苗はたまらず、彼の側に駆け寄り、後ろから抱きしめていた。


 講師と生徒という関係というより、思わずそうしたくなってしまった。


 そうして、その夜二人は結ばれた。


 陳腐な表現だが、どちらともなく求めあったのだという。






 


 




 

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