Episode18. 逃げた先で
酩酊などという範疇を通り越して、嘔吐の池が出来上がっていた。
とはいえそれもまた慣習らしく、アスタリアやメリス、他の軍関係の人たちは一切顔色を変えず、愛彩や翔吾は嘔吐するまでには至らなかった。
そしてこの場所は、周囲になにもない場所で————グレートサンディ砂漠。
オーストラリアの南西に位置する砂漠であり、名前を知っている人も多いはずだ。
…………いや、それよりも。
その何もないこの場所に、エレンの研究施設に向かうはずの二十台近くの車が停車しているのだ。疑問に思わないはずがない。
「あのエレン博士………ここは?」
「少し待っとれ」
と、手に持つパソコンを操作し始める。暫時の間を空けてエンターキーに触れた。
「一体何をって、うぉあ⁉︎」
愛彩が再度エレンに訊ねようとした刹那、轟音が周囲に鳴り響いた。
まさかもう追いついたのかと周辺をぐるりと一周見渡すが、それらしき鋼色は見られない。
「さて………もうすぐ見えてくるぞ」
「見えてくるって何が……………」
そう問う愛彩の言葉を遮ったのは、他でもなくその轟音の正体。
眼前に広がった砂漠の景色がゆっくりと円形に開いていく。完全に開き切ると、下から箱が上がり、その箱の一面の鉄柵が開放される。
「エレベータ………………でいいんですよね?」
「ああ。それよりもアスタリア、早く乗らせてやれ。時間が惜しい」
「そうだな。酔いが治った者から順に乗れ!」
とはいえすぐに乗ると名乗る人はほとんどいない。それも必然、大抵の人があの時速一〇〇キロを悠に超える速度を体験したのだから致し方ない。
「アイ、エレン! あとメリスとエルシャは先に降りててくれ。降って昇ってきた頃には数人乗れるようになってるだろ」
「あれ、翔吾君は……………?」
翔吾の方を見やると、他の人と同じように座り込んでいた。ローブを纏った妹の背中を優しく摩っており、とても共に下層へ降りられるような雰囲気ではなかった。
「では行くとするか」
エレンの背中を追いかけるようにしてエレベータに乗り込むと、すぐにもう二人も中へと入り、エレベータは動き出す。ゴウン、ゴウンと大きな音を立て、下降していくのが感覚で理解できた。
「それにしても愛彩ちゃんは良く酔わなかったね。もしかして三半規管強い方?」
愛彩が背を向けていたはずのメリスが、愛彩の目の前に顔を乗り出して訊いてくる。いつもの笑顔なのだろうが思わず視線を外した。
「いやまぁ、強いとか弱いとかはともかく。多分だけど…………貧血で眩暈がずっと残ってるからじゃないですか」
「まぁ確かに、船内に保管してあった分の血液量だけだと足りないのは当然だろう。幸い、この施設には血液サンプルが大量に保存されておるから安心せい」
「でも目が覚めてから七日近くも経ってるのにまだ貧血症状があるなんてね」
「輸血したのは輸血バッグ一つ分、食事だって必要最低限しか摂取していないんだからおかしくないんじゃない? それよりも………………その」
と、愛彩が気不味そうに指差したのはメリス………ではなくその後ろ。
メリスの体に隠れた白銀髪の少女が、潤んだ瞳で愛彩を凝視していた。
「あぁ。ほら挨拶してください」
「…………え、エルシャ……………………エルシャ=ガーノイト」
小さく可愛らしい声でそう告げると、またしてもメリスの後ろへと隠れてしまう。嫌われているのかとばかりに苦笑した後、愛彩は応える。
「私は長谷部愛彩。よろしく…………ってメリス、この子何歳?」
そう問うたのは、彼女———エルシャの服装に少し気になったからである。メリスやアスタリア、ルーカス同様に軍服を着飾っていたのだ。しかしその容姿からしてまるで似合っていない。単なるコスプレかあるいはその類いのようなものにしか感じられず、
「九歳だよ」
そのメリスの言葉を聞いた時には、不意にも愛彩は腰を抜かしそうになった。
「そんな若い子が軍隊に………………?」
「んー、実を言えば、人工知能対策特殊部隊ってのは隊員のほとんどが過去に何かあって、元は軍人じゃなかった」
そしてメリスも、その一人である。
暗殺者の家系に生まれ、その手伝いをしていたが妹の暗殺を妨害して追放され…………そしてアスタリアと邂逅を果たし、今ここにいるのである。
「でも別に毎日やってる軍事訓練に参加しなきゃいけないってわけでもない。私たちはAIの暴走、及びそれを伴う危険性が孕んでいると判断された時にしか動かない秘匿部隊だからね。この子も軍人だって言っても時々、書類整理とか手伝って貰ってるだけだよ」
「それでも……………」
「それに、彼女にはもうここしかないからね………………」
愛彩の言葉を遮ってメリスの発した言葉は、まるでエルシャに居場所がここしかないように言っているようであった。数瞬、思考を巡らせてようやくその意味を理解する。
過去に何かあって——————メリスはそう言った。つまり、エルシャもまたその一人であるということに他ならないのである。
「その………ごめんなさい」
思わぬ失念をしてしまったと、愛彩はエルシャとメリスに頭を下げた。
メリスは何かを言おうとして唇を動かそうとするも、メリスの後ろからエルシャが飛び出し、その発言を止める。
「……………アイさん、いい人………」
よしよし、と宥めるようにエルシャの手が愛彩の頭に置かれる。一体何がどうなったのか把握が追いついていない愛彩は、頭を下げたまま混乱していた。
その様子にメリスは微笑する。
「ふふ………エルシャはね、〝いい人〟だって思った人の頭を撫でるんだよ」
「え、なにそれ可愛い」
「だからもう少しそのままでいてあげて?」
「………………ごめんね、エルシャちゃん。私もう腰が限界だよぉ」
エルシャのためにもこのまま腰を曲げた体勢でいたかった愛彩だが、まだ傷がまだ疼くこともあり無念にも腰を戻した。エルシャの手は自然と頭から離れる。
「……………合衆国でのアイとは大違いだな」
「ははははは(棒)」
空笑いをして、誤魔化す。
けれど、確かにあの時よりも落ち着きがあるのを愛彩自身も実感していた。
「それよりもほら、見えてきたぞ」
エレンが指差すのは、鉄柵の先——————その地下空間。
無彩色の鉄壁で囲まれた世界が深く、遠く広がっている。
「これがワシの最大規模の研究施設…………通称、《ヘルヘイム》」
「……………あんまり………可愛く、ない」
「⁉︎」
エルシャの呟きにエレンが愕然とする。その表情を眼前に、メリスは思わず吹き出した。
「………まぁ、確かに可愛くはないよね。《ヘルヘイム》って、『死者の国』だし」
「でもどうしてそんな名前を?」
「ん」
と、メリスは下を指差した。
下に何かがあるのだろうか、そう思った愛彩は鉄柵越しから下を覗くも、特に目ぼしいものは見当たらない。ただ何の彩りもない底が広がっているだけである。
「違う違う、《ヘルヘイム》ってさ、ギリシア神話上ではニヴルヘイムの下層にあるじゃない? まぁ、そのニヴルヘイムも人間の世界(ミッドガルド)よりも下層にあるとされてるんだけど………………」
「つまり……………地下空間にあるからってこと?」
愛彩の回答に何を言うでもなく、ただ目線をそらしてコクリと頷いた。
そして。
ふとエレンの方を視野に入れると、どこか自慢げな面持ちをしているのだった。
地下約三〇〇〇メートル、その底に足を踏み入れる。
まるでデパートにいるよう、などという表現はあまり相容れないかもしれないが、堅牢な刑務所にいる、という表現もまた過剰のように思える。
どう表現して良いものかと苦悩してしまいそうな空間に、愛彩は固唾を飲み込んだ。
何処となく空間に隠された緊迫感が、愛彩の肌を撫で回す。
全身を逆撫でするような感覚にビクッ、と肩を揺らした。
「どうしたのー?」
「いや…………なんでもないよ」
エレンに続いて歩くメリス、エルシャの背を追って、愛彩はその場を後にした。
「ここの殆どは住居エリア、あっちを行くと医療エリア、こっちは訓練エリアになる。詳細は住んでいるうちに覚えておくといい。それで─────」
エレンの説明を受けながら、ゆっくりと歩を進めていく。
地下約三〇〇〇メートルに存在する巨大都市、と言っても過言ではない。いくつものスペースが繋がっており、その規模は計り知れない。
………しかし、だ。
これは本当に〝研究施設〟なのだろうか────そんな疑問が湧いてしまう程に、施設が充実し過ぎている。住居エリアは約二十万人が住めるスペースを持ち、とても研究者だけが利用するのでは無く、一般人も使えるように整備されたようである。
まるで、この事態を予測していたかのように───────
「………いや、まさか」
嫌な想像が頭を過るも、首を振って払拭する。
けれどその思考は粘性を持っているかのように、頭に残留した。
どうにか意識を逸らそうと目線をあらぬ方へと向ける。
地上の人が順に降りてきているようで、エレベーターが動いている………その目の先。
微光が愛彩を誘うかのように漏れていた。
「あれは……………?」
近づいて、その中へと入っていく。奥に行けば行くほど光は強さを増し、愛彩を包むような真っ白な部屋が待ち受けていたのだった。
その中心─────佇むのは、巨大なガラスドームに入る一本の木だった。
「これは……………」
木の周囲には霊光がふよふよと漂い、銀鈴のような澄み切った精霊の声でも聞こえてきそうな雰囲気を醸し出している。
「————これは《
その木を見上ぐ後ろからエレンの声が響く。
「ユグ……ドラシル?」
「ああ。細胞の永久保存実験で木を保存してあるだけだがな」
「だけって…………」
だとしても、エレンからすればそれは『だけ』に値するほどのものなのだろう———そう思ってしまってもおかしなことは何もない。
「それよりも行くぞ。あと少しで人が全員下に降ろせるとアスタリアが言っていた」
「………………待ってください」
愛彩は無意識に言葉を発していた。
今、この部屋は愛彩とエレンの二人しかいない。こんな機会はすぐにはないだろうと、愛彩は息を吐き出した。
やがてエレンの方へと向き直ると、エレンは怪訝そうな顔でこちらを伺っていた。
「少し…………時間をください」
そして愛彩は、自分の想像が間違っているのかどうかを確かめるべく、口を開いた。
***
その日の夜————研究エリアのとある一室にて。
「…………何の用だ、アデュー?」
「いい加減、業務以外でコードネーム使うのはやめろ」
やや薄暗がりの部屋の中、エレンはキーボードを操作し、アスタリアに背を向けながら言葉を交わした。
「いいだろ別に。アスタリア=デュフォードよりもこちらの方が呼びやすい」
「それは『アデュー』って言葉がフランス語で〝さよなら〟って知ってのことか?」
「愚問だな。ワシが十二カ国語話せると知っているだろう」
「だからやめろと言っているんだ」
しかしエレンは微笑するだけで、直そうとする気など更々ないように、アスタリアには見受けられた。このやりとりも幾度となく繰り返してきたため、もう慣れたものだったが。
「………それで?」
それからすぐにエレンの顔から笑みが失せ、そう切り返してきた。それに対し、アスタリアは一つのため息を吐き出して、応じる。
「……………なぁ、何故あのとき戦力が分散しなかったんだ?」
純粋な疑問。
「どうして……………俺たちの場所が明確に把握されたんだろうな?」
単純な疑問。
「………………なぁ、エレン=クリスタ。この施設、大き過ぎやしないか?」
そして、曖昧な疑問。
アスタリアは疑問を、投げかける。—————まるで詰問しているかのように。
「………………何が言いたい」
動かし続けていた手がピタリと止まった。
「単刀直入に聞くぞ——————《カイン》暴走からこの施設に移動してくるまで、その全てがお前によるものだったんだろ」
時刻は深夜………この施設に移動した人間が各々用意された部屋で寝息を立てている頃。
光の一切が入らず、閑散とした空間。
その部屋を一瞬で満たしたのは………………、
———————ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼︎
狂笑。
悪魔の嗤い声が、その部屋を充すように、反響する。
「あぁ、その通りだ」
ニタァと不気味な笑みを浮かべるエレンに、思わずアスタリアが絶句する。
「しかし…………どうしてそうだと分かった? 確かにこの研究所は広い、だがそれだけの理由でそう結論に至ったわけではないだろう?」
「………………色々と理由はあるが、大きく二つ————いや、三つか」
「ほう。それでその理由とは?」
興味深そうにエレンは耳を傾ける。
「一つは《カイン》の性能だ。どうしてあれほど硬質な金属を用いる必要があった?」
「二つ、AI共の行動の不自然さ。合衆国の時どうして彼らは戦力を分散させなかったのか………いや、それ以前にあいつらの目的が人類を滅亡させることであれば、核爆弾やその他諸々の兵器を用いることがより効率的だと言えるはずだ」
「そして三つ。お前がいくら天才でも、ここまで準備がいいと気持ちが悪い」
順に指を立て、言葉を連ねる。
エレンはアスタリアの様子を静かに眺め、終わるとただ静かに拍手を送った。
「なるほどな…………だが惜しい」
「惜しい?」
「ああ、そうだ。お前はこれを理由に含めなかっただろう」
と、エレンが持ち上げるのは腕。
正確には腕の形を模した鋼色の武具—————瞬間肉体強化装置。
「これは使用者が死んだら壊れる仕組みになっている。………それは何故だと思う?」
「何故って、それはAIの奴らにそのデータを奪われない為だろ」
「いや違う。そもそも奴らにとって、こんなデータに価値などない」
では一体どうしてか。
「なに、簡単な話————ちょっとしたギャンブルをしていたに過ぎない」
「ギャンブル?」
「ああ。時にアスタリア、瞬間肉体強化装置が今この世界に全部で何機あると思う?」
「それは——————————————」
と、ここでアスタリアはエレンの言葉の意味を理解した。
瞬間肉体強化装置はもともと世界には公表されていなかった非公式の研究、その成果である。……………いや、成果というのは些か不適正かもしれない。もともとは汎用AIの研究で、偶然完成してしまったものであるのだから。
そしてそれ故に、瞬間肉体強化装置の総数は世界で数えられるほどしか存在しないわけで。
だとすると、不思議に思わないだろうか——————何故ここにその瞬間肉体強化装置があるのか、と。
瞬間肉体強化装置がなければ、恐らく自分たちはあの過酷な状況から脱することはできなかっただろう。瞬間肉体強化装置がなければ、もしかしたら《カイン》も破壊できなかったのかもしれない。
偶然? 奇跡? 運命?
それらを信じないとは言わないが、そうである確率は非常に低い。そうそう在って良いものではないはずだ。
————————つまり、作為的である。
世界人口約八〇億人……………いや、現状はもっと少なくなっているだろうが、その中に投入したたった数機の対抗手段を用いて、一体どこまで人類がAIに足掻けるかという賭けのような実験。使用者が死ねば、唯一の対抗手段たる瞬間肉体強化装置が破壊する……………それはつまり、その地域全ての人間の死を宣告しているのと同義である。
曰く—————〝ギャンブル〟と。
「————そして作為的にそれを行った人間とはつまり、ワシしかおらんというわけだ」
それこそアスタリアが判らず、愛彩だけが自力で知った四つ目の理由だった。
「エレン、今すぐAIの進行を止めろ。さもなくば…………」
アスタリアは右腿のホルダーからピストルを引き抜くと、銃口をエレンに向けた。
セーフティレバーを解除し、スライドを一回引く。
「まぁ待て。ワシが奴等を操作しているとは言ったが、システムの全てを管理下に置いているわけではない。ワシが行った『操作』とは奴らを利用したに過ぎない。奴らにわざと情報を漏らし、拾ってもらうことで動きを誘導していただけだ」
銃を向けられているにも関わらず、エレンは冷静に弁明する。しかし顔は反省の色など一ミリとてないような、不快な笑みを浮かべて。
「………………そうか」
だからアスタリアは撃った。弾丸がエレンの足を貫通し倒れこむ。
「……………ワシが死ねば、それこそ人間に未来などないぞ」
「そんな分かり切ったことを聞くな。だから俺は死なない程度にお前を殺してやろうとしてるんだ」
「はっ………《カイン》を眼前にして何もできなかったお前の発言とは思えんな」
「黙れ」
もう一発、さらに一発。
エレンの足が捩り、醜く変形するまでに弾丸を撃ち込んだ。
血肉が抉れ、骨があらぬ方向へと曲折する。
流れ出る血はしかし致死量には至らず、エレンの意識はなお、そこにあった。
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