4 ミステイク 

 まず第一の失敗は、部屋の鍵を閉め忘れていた事だった。その日、安東が家に来るという話があったのを完全に忘れていたのもあったが、そんな日に死のうとした時点で、それもまた一つの失敗であった。

 第二の失敗は天井に結びつけたネクタイ。天井と言っても、蛍光灯に結び付けただけで、その蛍光灯が外れる可能性を考えていなかった。

 そして運悪く……いや、不幸中の幸いと言うべきか、意識を失った直後に蛍光灯が外れ、俺は床に意識の無いまま転がり、その直後に到着した安東がインターホンに反応が無い事を不審に思って扉を開けたらバカな先輩が横たわっていた、と言うのが今こうして俺が生きている理由である。

 真っ白な病室で目を覚ました俺は、何がなんだかさっぱり分からぬまま、安東の小言を二、三時間聞かされた。そんな中で俺はずっと、どうしてまだ生きているのかとそんな事ばかり考えていた。


 そこから先の事はもうほとんど覚えていない。休暇明けに辞表を提出し、逃げるように実家に帰り、両親の糾弾を受け仕事をぼんやり探した結果、安東の伝で適当な会社に就職し、気がつけば一人暮らしをはじめていた。

 あまりにも怒涛の展開過ぎて俺が一番、ここまでの経緯が曖昧なのだ。


 一つ言える事があるとすれば、俺はまだ小説を書く事を辞める事が出来ていない、という事だけ。あの日、あの瞬間に、俺の中にあった「何か」が壊れた。作家を目指した一之瀬優は死に、サリエリを名乗っていた男も、同時に死んだ。書いている物語はどれもこれも、俺の目には抜け殻にしか見えないものばかり、そんなものを俺は何故か、惰性で吸う煙草のように書き続けている。

 「夢」という惰性。何のために書いていたのか、誰の為に書いていたのか、二年前の俺をどんなに思い起こしても、もうそれを思い出す事は出来ず、綺麗なものも、汚いものも、ただ目に映るものをなんとなく書き起こすだけの機械のような存在が、今の俺だ。無機質で冷たい、そんな物しか生み出せない。どんなに物語を書き起こしても、それが過去の自分に、否、あの憧れた天才の生み出すものに近づく事は無い。焦燥に駆られ、ただひたすらに、がむしゃらに走っていた頃の方が良かったとさえ思う。

 もしあの時、俺が死ぬ事ができていたなら、この言いようの無い無力感を味わう事は無かったのかと、そう思ってしまうほどに、今の俺にはなにも無い。

 ただ漠然と、天井を見上げながら暗い部屋の中で煙草を吸う。風に攫われて消えてゆく紫煙。煙草と同じだと思った。俺は、惰性で出来ている。生きている事すら、俺には惰性でしかない。吐き出した紫煙がまた、虚空に消えていく。

「生きる意味とか、もう知らんよ」

 ポツリと漏らしたその声を聞くものは、ここにはいない。

 暗い部屋の中で一人、つけっぱなしのパソコンのディスプレイを眺め、今一度、あの頃に戻れるのなら、俺はきっと間違えることは無いのにと。そんなどうしようもないイフを思い描くのだ。


     ◆


 鳴り響く目覚ましの音、片付けずに放置したカップ麺の容器から漂う饐えた匂い。今日も億劫な朝がやってきた。

 いそいそと布団を脱ぎ、寝ぼけ眼を擦りながら洗面台へ向かう。鏡の前に立ち、自分の姿を見やると、猛烈な吐き気に襲われた。二十二歳、独身。彼女なし、夢なし、希望なし。職だけはある。どこにでもいる、ただの一般市民は自分の過去を捨てきれない。

「どうでもいい」

 そう、心にも無い言葉を吐き捨て、吐き気をかき消すように水を被り、顔を洗った。


 パソコンの電源を入れ、デスクトップにある一つのファイルにカーソルを合わせる。「小説」と書かれたそのフォルダをゴミ箱に移そうとし、止めた。毎朝繰り返し、何度捨てようとしても、俺はそれを捨てる事ができないまま、ずるずると過去に縋り、気がつけば、文章を綴る。そこに、何の意味も無いと知りながら。


 そっと、煙草に手を伸ばす。箱を持ち上げると妙に軽く、案の定、空箱だった。深く溜息を吐き、身支度を整え、フラフラとコンビニへ向かった。ニコチンの入っていない体は妙に重く、焼けるような日光に目を細め、このまま死ぬんじゃなかろうかと思いながら、身体を引きずるように歩いた。

 八月。天気は快晴。最も嫌いな天気である。どうせテレビでは「今年で最も暑い」だとか、そんな大体いつも言っているんじゃないかというようなお決まりの台詞をニュースキャスターが言っていることだろう。

「外出るんじゃなかった……」

 そう呟いて、また一つ溜息を零し、目線を上げると同時に、俺は目を見開いて立ち止まった。すれ違った人影を振り返り、何故か今すれ違った人影を目で追っていた。それが何故なのか、それはまるで分からなかったが、何かとても意味があることのように思えたのだ。

 すれ違った女性をひたすら目で追っている青年の画など、道往く人が見れば滑稽なだけだろう。頭では分かっていても、何故か止められなかった。

「あの」

 気がつけば、俺はその女性に声を掛けてしまっていた。驚いた顔で振り返る彼女の顔。話す内容など、何一つ考えてすらいなかった。どうにか話題を繋げないとと必死に言葉を搾り出沿うとする。ぐるぐると世界そのものが回転するかのような、そんな違和感の中、ハッと閃いた言葉。

「それ、何を読んでらっしゃるので?」


 今になって考えれば、もう少しまともなナンパぐらい出来るだろうと思う。クスリと笑った顔が綺麗で、途端に恥ずかしくなって俺は彼女から目を逸らした。

「本、好きなんでしたらですけれど。もし良かったら、お茶でもどうですか」


 その声はどこか儚げで。

 今にも消えてしまいそうな、そんなガラスのような繊細な響きを、俺はどこかで聞いた事があるような。そんな気がしていた。

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chrysalis. 希望ヶ丘 希鳳 @kihou777

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