天才の落とす影 05
幸いだったのは、冬期休暇が近かった事だった。連休に入り、実家に帰らずアパートで過ごすことを決めた俺は、死人のようにベッドに横たわり、無気力な日々を過ごしていた。
田上さんは関口の死後、やたらと俺に付きまとうようになり、理不尽な指導を繰り返すようになった。優しい人格者と信じて疑わなかった俺の目は間違っていたのかという、自分すら信じれない孤独感。たったの十数日程度ではあったものの、俺の周りから上司や同僚が離れていくのが目に見えて分かる日々。何に対してなのか、焦燥にも似た気持ちの悪い感情が渦を巻き、想像を絶する速度で俺の心を蝕んでいく。
その程度の事で、と人はいうかも知れない。それでも俺はこの時確かな絶望を感じていた。持ち込みの失敗と、大切な友人の死。その二つが重なって、職場では逃げるように退社する日々。負けるわけにはいかないと縋りついた夢を叶えられず、それでもどうにか踏ん張っていた俺の心は崩壊寸前だった。
ベッドに寝そべった状態で、ふと机に置いたスマホに目をやる。しばらくログインすらしていなかったツイッター。クリサリスは、今どうしているだろうか。
起き上がり、重い身体を引きずるように机に座り、スマホのロックを解除する。最後に話した日から、一度も連絡を取っていなかったが、小説はまた更新されているのだろうか。回らない頭に飛び込んできた情報は、俺の心をどん底に落とすには十分すぎた。
『ツイートを読み込めません』
彼女は、アカウントを消していた。
今までの小説も、跡形もなく全てが消えていた。ラインに連絡を送ってみたが既読はつかず、何時間待っても未読のまま、時間だけが過ぎていく。時計の針が一周した頃には、俺は完全に壊れてしまっていた。
今思えば俺は彼女に惚れていたのだと思う。それは、作家ではなく、一人の人間として、俺は彼女が好きだった。どうしようもなく、惹かれていた。憧れもあったと思う。自分が描けない世界を彼女は持っていた。努力を努力と考えない、純粋に描きたいものを描く、天才。羨ましかった。そんな彼女を、多分俺はずっと傍で見たかったのだと思う。
最後の希望に手を伸ばした先で落とされてしまった影は、あまりにも大きすぎた。
縋りつきたかったのだ。優しい言葉が欲しかった。一緒に泣いてくれる誰か。この感情を落ち着かせてくれると、どこかで期待した俺の心は、ものの見事に裏切られた。
嗚呼、終わった。
ただ、その言葉だけが俺の頭をよぎり、形容しがたい感情で満たされた俺は、もう何も考えられなくなってしまっていた。ただ呆然と、電源の入っていないパソコンの画面を見つめ、座ったまま、なんとなく視界に入った煙草に手を伸ばし、火を点ける。立ち上る煙が目に入り、視界が滲む。
気がつけば、締め切ったカーテンから陽光が差し込み始めていた。食事もとらず、ただ眠ったまま過ぎ去った一日を無駄に思うほどの思考すらも巡らすことが出来ないまま、俺は静かにネクタイを天井に結び付けようとしていた。
一本では短すぎたので、もう一本、これでも少し短い。もう一本。丁度いい長さだろう。天井からぶらりと垂れ下がった大きな口。これにこの頭を食わせれば全て終わる。もう、苦しい思いなど沢山だ。自分に課した夢と言う忌々しい誓いも、ここで終わる。もう、疲れてしまった。
一つだけ心残りがあるとするなら。
一度でいい、彼女と会ってみたかった。
輪を首にかけ、立っていた椅子を蹴り倒す。頚動脈を締め付けられ、そのまま、苦しむことなく俺は意識を失った。僅かな後悔と、安堵を抱いて。
◆
天才の天才たる所以は、結局のところ、努力を努力としていないところである。己の好きなものを一生懸命に好きだと発信し続けた結果、いつの間にか天才だと言われるようになった。そういった話が大半である、と俺は思う。
とりわけ俺は天才ではなかった。なぜなら俺は、一度諦めてしまっているのだから。自分の無力を、他人の所為にしながら、これしかないのだという固定概念に囚われ、小説を書いていた。これしかない、これ以外に俺には何も無いと、そう自分に言い聞かせてしまった。
目向ける余裕がなかったのかもしれない、今だから分かる事だが、俺はきっと、色々な事を考えて生きているようでその実、何も考えていなかった。いや、考えようとしていなかったのだろう。大事な友人の変化に気がつかず、立場が変わったと分かった途端に逃げ出し、恋心を抱いていた人にさえ、思いを告げぬまま、俺は俺の未来を断つ。たった一つの縋りついた夢すら捨てて。
こんな男が、何かを為せる筈もない。これはきっと、当然の結果なのだ。
そして、一之瀬優という作家を目指した一人の男は死んだ。
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