天才の落とす影 03
十二月の街は見事にクリスマスムードであった。あらゆる場所でイルミネーションがちらつき、目がくらむ。仕事で疲れた体を引きずって家に帰り、冷蔵庫から一缶のチューハイを取り出し机に向かう。椅子に座ったところで缶を開け、煽るように喉を鳴らした。
パソコンの電源を入れ、おおよそ一週間ぶりになるツイッターにログインするとクリサリスがちょうど短編小説を書き上げたというツイートをしたところだった。リンクのアドレスをクリックし、ぼんやりとその文字列を眺めた。アルコールの所為なのか、彼女の描く世界から、俺は何も感じることが出来なかった。
普段なら、興奮が収まらず、そのまま感想を送り、そこから自分の執筆に時間を当てるところなのだが、何故だかまるで思考がまとまらず、ろくな感想すら浮かびもしない。自分の文章に自信が持てない。もう誰にも見せたくない。唯一俺が、他人よりも大きく上を行くはずの武器。それでも俺は、もう文章を書くことが怖くなっていた。
胡乱な瞳に写る偽物の世界を眺め、空になった缶をゴミ箱に放り込んだところでスマホに通知が届いた。
『こんばんは。先日はごめんなさい。気に障るようなことを言ってしまったのではないかと思って、少し不安になって連絡させていただきました。選考は、どうでしたか? いい結果でなくとも、何か成果が得られたのではないかと思うのです。私も一緒に考えます。一度、お話できませんか』
クリサリスからだった。ため息を一つこぼし、煙草の箱に手を伸ばす。箱から一本取り出して、口に咥え、火を点けようとした所でライターのオイルが切れていることに気づき、軽く舌打ちした。
煙草の起源は、どこかの原住民族にあるらしい。彼らは煙草を神聖なものとし、吐き出した煙に願いを乗せ天に昇ってゆく様を眺める習わしがあったそうだ。俺もその原住民族のように、願えばそれは天に届くのだろうか。
アルコールが程よく回ってきたらしく、顔がほんのり熱い。まだ未読の通知に返信をするためにスマホを手に取ったところで着信。振動に驚いて危うく取り落とすところだった。
「はい」
『あ……ごめん、なさい』
「なにがよ」
『いや……どうしても、お話がしたくて。出てくれるかなって思って。そしたら、電話掛けちゃってました』
「いや、俺も、こないだ怒鳴ったし……あ、さっき読んだよ」
『え?』
「小説、すごく良かった」
息を呑む音が聞こえた。消え入るような声で『そうですか』と呟いた彼女は一体何を思ったのか。
水を打ったような静寂が、酷く刺さる。何を語ればいいのか。酔った頭でその回答が出るはずも無い。ただただ時計の音だけが部屋の中に響く。クリサリスとの会話の中でこんなにも息苦しいと感じたのはこれが初めてだった。
『あ、持ち込み、どうでしたか』
その冷たい静寂に堪えかねたのか、絞り出したかのような声でクリサリスはそう言った。内心ホッとしたような気持ちで、俺は胸を撫で下ろし「だめだったよ」と言った。
「土俵に立っていないって言われた。まだ基礎がなってないって。言われたとおりだったよ」
『そう……ですか』
「まぁ、また書くよ、その時は」
『その時は、私も一緒に、書きます。一緒に、考えます』
普段の彼女からは想像もつかないような、決意に満ちたその言葉は恐ろしく、今の俺には極端に重いものでしかなかった。有体に言ってしまえば、もう書きたくなかった。たった一度の失敗、それだけで折れてしまうほどの事かと人は言うかもしれない。ただ、その一回が俺には大きすぎたのだ。
見捨てて欲しかった。俺はもう無理なんだ。どんなに綺麗な言葉でさえも、俺にはもう響かない。そこにある世界を見る事ができない。漏れそうになる本音を押し殺し、下唇を強く噛んだ。どうしようもない感情の波が俺の頭を支配していく。
俺は、天才なんかじゃない。
その後何を語り、通話を切ったのか。それすらも俺は覚えていなかった。気がつけばベッドに横たわり、嗚咽を漏らしていた。苦しくてどうにかなりそうだった。その苦しさが、何処から来るものなのかさえ分からず、暗い部屋で唯独り、溢れ出る涙を止めることも出来ないまま、気を失うように俺は深い眠りに落ちていった。
◆
目覚まし時計で目を覚まし重い瞼を擦って枕元のスマホで時間を確認するといつも家を出る時間だった。慌てて顔を洗い、スーツに袖を通し、鞄を手に家を出ようとしたところではたと気がついた。休日だ。
がっくりと肩を落とし、スーツを脱ぎ捨ててベッドに横たわる。まだ、寝ていたかった。布団を被り、寝返りを打ったところで、通知を知らせる振動。確認すると、関口からだった。
『今日、時間あるか? 暇ならちょっと付き合えよ』
珍しい人物からの珍しい申し出に若干面食らいながらも、一度完全に起きてしまった頭がもう一度簡単に眠りにつけるはずも無く、俺はなんとなくその誘いに乗っておく事にした。
「いいけど、どこ行けばいいの?」
『秋葉まで来てくれると助かる』
「わかった。今から向かうわ」
簡単にやり取りを済ませ、服を着替え、家を後にする。肌寒い風に身震いしながら最寄り駅に向かう。関口が秋葉原という、なんともいえないアンバランスさに笑いがこみ上げてきた。
電車を待つ間、俺はいつものように喫煙所に立ち寄り、そして煙草に火を点けた。立ち上る紫煙を眺め、ぼんやりとした思考を纏める。目に入った煙が染みて、涙を零し、軽く舌打ち。
「煙草にまで見捨てられたんじゃ、世話無いわな」
独り言をポツリと零し、火を消した煙草を灰皿に放り込んだ。
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