天才の落とす影 02
「ささ、早速で申し訳ないんですけれども原稿のほうを拝見させていただいても? ぶっちゃけ早く読みたいんです、いや、ほら今どきこうやって持ち込みとかしてくる人なかなかいないじゃないですか。そうなってくるとやっぱり興味が湧くといいますかね、どんなもの書くのかなーとかって考えるとどうしても仕事も手につかなくなっちゃって。期待してるんですよォもちろん」
原稿を手渡すと彼は口を動かし、手を動かしながら読み進めていく。恐ろしく器用な人だと思った。それと同時に、ちゃんと頭に入っているのかと不安にもなる挙動であることは言うまでも無い。疲れと緊張からか、彼の言葉にほとんど曖昧な返事しか出来ず、もしかすると大事な話をしていたのかもしれないが、それすら耳に届いてはいなかった。
ただただ不安なだけの時間が流れていく。大丈夫だと何度も膝を叩き、震えそうになる足を押さえつけ、彼の確信にいたる言葉を待つ。大原の口数が徐々に減っていく
――腕時計の針が静かに回り、審判を下す男がそっと手にしたペンを置き、俺は視界に捕られた。
「はっきりと申し上げたほうがよろしいですかね」
口数の多いはずの男の、あまりにも淡々とした口調。背中に寒気が走るのが分かった。俺は声を出そうと必死にもがくが、喉に何かがつっかえたように発したはずの言葉は消え入るように虚空に溶けていく。そんな俺を眺めながら、大原は「まぁボツです」とそう言った。
何が起こったのか理解が出来なかった。不思議なことに「悔しい」とか「悲しい」とかそういった感情は無く、ただその「ボツ」という言葉を飲み込むのが精一杯で、視界に写る大量の赤線が引かれた原稿を眺め、呆然と彼の言葉を聞くことしか出来なかった。
「ボツ、とは言いましたが、まぁ基礎がなってないってだけで発想とか表現は素晴らしいです。見事です。正直期待以上ではありました。ただ、その「基礎」って奴が問題なんですよ。例えばの話ですけど数学ってあるでしょ? 方程式が解けないのに応用の連立方程式なんて解けないですよね。基本が出来ていない応用は響かないし、意味を持たないのですよ」
彼の言葉は正論でしかなく、俺は何も言い返すことが出来なかった。クリサリスの言っていた「今はまだ」の意味をここで初めて理解した。敢えて彼女は言わなかったのだ。俺の心を折らないように。
「今はまだ、君は土俵にすら入っていないわけですよ。」
それから、彼はひたすらに何かを訴えかけるように色々と話してくれていたようだが、その時の俺にはそれを聞くだけの力は残されていなかった。
赤い文字で埋め尽くされた原稿を見つめ、ただ今の状況を飲み下すことしかできない。俺は、負けたのだ。
逃げるように原稿を受け取り、大原に頭を下げ喫茶店を後にする。最後に手渡された名刺を見もせずに財布に突っ込み急いで駅に向かう。
道中すれ違った幸せそうに笑う人を見る度になんとも言い難い苦痛が胸に走った。お門違いだとわかっていても、それを抑えることが出来ず、ギッチリと噛んだ下唇から鈍い鉄の味が舌に広がった。
力不足……なんて言葉で片付けられるほど、俺は大人じゃない。喉元まで迫る違和感を必死に飲み下し、電車に乗った頃には日は落ちきり、いつもの寂しい風景を眺めていた。
ここには、何も無い。
なんのために俺は今まで書いてきたのか。なんのために、俺は必死だったのか。頭ではわかっていた。一度や二度失敗したくらいで落ち込むことは無い。次がある。そう頭ではわかっていた。
それでも。天才だと、誰かに言われたかったのだ。俺は天才なんだと知らしめたかったのだ。信じた者から裏切られたあの日から、俺にとって物語を紡ぐことは、呪いでしかない。自分が自分であるための足枷。外すことの出来ないソレを煩わしいと思った事は今の今までなかったのに。ソレが今、初めて俺に重しとなってのしかかった。
理想を抱く事の苦しさを、俺はこの時初めて知った。
◆
家に帰りシャワーを浴び、カップ麺を啜っていると通知が届いた。クリサリスからだった。
『お疲れ様です。今日は、どうでしたか?』
単純な優しさからの言葉だとわかっていた。それでも俺にはそれに返答する心の余裕は残されておらず、見なかった事にして床に着いた。
暗闇が酷く心を蝕んでいく感覚。孤独とも似た奇妙な寂しさに一人体を抱いた俺はそのまま目覚ましを掛けることも忘れ、ただ夜の闇に溶けるように眠りに落ちた。
朝になれば夢は覚めるとそう信じて。
◆
目覚まし時計をセットし忘れたにも関わらずいつもの時間に目を覚ました俺は、スーツに袖を通しいつものようにカバンを持って職場へ向かった。冬も本番に差し掛かりはじめ、風の冷たさに身震いしマフラーを巻き直す。
駅の喫煙所に立ち寄り、煙草に火を点ける。吐き出した白い吐息が僅かに目に入り顔をしかめた。 霞んだ視界が煩わしくて、俺はまだ半分以上も残った煙草を八つ当たり気味に灰皿に投げ込んだ。
街ゆく人々の笑顔だけが妙に目立って、聞こえてくるラブソングが無駄に刺さる。そんな季節が俺の元にやって来ようとしていた。
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