3 天才の落とす影
暗く冷たい部屋の中で、幾度となく彼女の描く世界を見た。鮮烈で、美しく、繊細に描かれた「本物」の様な「偽物」の世界。俺は、どう足掻いてもそこに至れない。もう何度目になるだろうか。上京し、作家になる為に、ただひたすらに書き続け、クリサリスと出会い、彼女の世界に触れ、紡いだ物語は、どれも最高の出来だった。
何かが足りない。俺の描くものでは、彼女には敵わない。彼女にあって俺に無いもの。才能。いや違う。それは断じて違う。努力に勝る才能はこの世界には存在しない。俺は、俺の今までの軌跡を否定することは許されない。
――俺は、負けられないのだ。
◆
やかましい目覚ましの音にゆっくりと目を開ける。布団を脱ぎ肌寒い冷気に体を晒し一気に目を覚ます。洗面所で顔を洗い、寝癖を解かして冷え切ったスーツに着替え、傷んだマフラーを巻く。鏡に映る俺の顔は、想像以上に険しかった。
とりあえず選考に出していた小説の落選通知が届いてから、少し気分の沈んだ俺は、そろそろ本腰入れてもいいんじゃないかと思い、推奨されない「持ち込み」の手段に出ることにした。
とはいえやはり不安は残る。そこで相談を持ちかけたのは、やはり彼女だった。
『持ち込み……ですか』
スピーカーから届くクリサリスの声が少し曇ったのが分かった。その反応は予測できていたことだった。
基本的に、俺やクリサリスのようなアマチュアがプロの作家としてデビューするにはいくつか方法があり、その中で最もメジャーなものは、選考に作品を応募することだろう。、昨今では電撃大賞などの有名どころだけでなく、投稿サイトでも時期に応じて様々なテーマの作品を募集しており、締め切りまでに作品を書き上げ、最終選考を突破した一部の作品が書籍化され、作者はプロとなる。現に俺やクリサリスも、この半年間同様に様々な作品を書き上げては応募していたが、お互いどれも落選。彼女は何度か最終選考まで行っていた様ではあったが、俺は毎回一時選考で落選を繰り返していた。
はっきり言ってしまえば、悔しかったのだ。彼女は俺よりもずっと先を歩いている。俺だって結果を残したい。そう考えての「持ち込み」だった。
『しかしながら、サリエリさん。持ち込みはあまり良い話を聞きませんし、今はまだ、止めた方がいいのではありませんか?』
「やるだけならタダだからさ、良い物書けたし、自信はあるんだ」
『……ちゃんと見てくれない可能性があるんですよ?』
もっともな意見だった。持ち込みは地雷だと、ネットを調べてみてもそういった意見が多く、確実に見てもらいたいならやはり選考に出すのが一番。今思えば、あのときの俺は、多分気が立っていたのだろうと思う。
今の仕事も、人間関係も、なんだかんだで上手くいっていたあの時の俺は小説すらも上手く行くとどこかでそう思っていた。
――俺は天才だ。
誰しもが一度はそう思う。それは至極当たり前の話だと思う。誰しも認められたい、褒められたい。そんな承認欲求があるからこそ、人は夢を見るしそれを目指す。目標があるから夢を見るのではなく、「認められたい」から夢を目指すものもいる。少なくとも俺はそうだった。早く天才だと認められたかったのだ。
「持ち込みやったこと無いって言ってただろ! やったことも無いのに偉そうに語るなよ!」
だからこそ、俺はこのとき声を荒げてしまったのだと思う。八つ当たりでしかない、人として最低の行為。俺を思ってくれているからこその言葉であることは確かなはずなのに、俺にはそれが受け入れられなかった。
予想以上の大声が出て、彼女からの反応が途端に途絶えた。しまったと、そう思う頃には遅かった。
『ごめんなさい』
そう言って彼女から通話を切ってしまい、俺は謝ることが出来ないまま、俺はベッドに横になり、煮え切らない気持ちを抱えたまま、一晩を過ごすことになった。
そして今、こうして俺は出版社の前に立っている。はっきり言ってしまえば引っ込みがつかなくなったに近い。顔が強張るのが自分でも分かる。
――俺は天才だ。
何度もそう言い聞かせてきた言葉を心の中で反芻し、自動扉を潜り抜け受付に向かう。座っている若い女性に声をかけ「先日電話を差し上げた、一之瀬と言うものですが」と伝える。
「少々お待ちください。担当の者をお呼び致します」
それからしばらく待っていると、階段を勢い良く駆け下りてくる足音がロビーに響いてきた。危なっかしい足音と共に若い男がロビーに顔を出す。冴えない顔をしたそいつはぼさぼさの頭を掻き、レンズの分厚い眼鏡のズレを治すと俺に向かって一直線に駆け寄ってきた。
「お待たせしました! 一之瀬さんですね? 大原です……あ、先日電話貰ったときに出た人ですって言って分かります? いやぁお待ちしてましたよ! あ、ここで話すのもなんですし、場所変えませんか? ええ、アレです。ちょっとさぼりに付き合ってもらいたいなァなんて思ってるんですけれども!」
凄まじい勢いでまくし立てる彼、大原という男との出会いはあまりにも衝撃的で、あまりにもインパクトが強かった。先ほどまでの緊張も、何もかもが吹き飛ばされ、さながら台風のように激しく慌しい男だった。
「え、えぇ……構いませんが」
「そうですか、それは良かった行きましょうでは行きましょう! ささ、急ぎましょ! ゆっくり見る時間が無くなってしまう。タイムイズマネーって言いますからね……あ、この場合は善は急げか! 失礼失礼」
彼に手を引かれるように出版社を後にし、早足で歩く彼の背中を必死に追った。喫茶店に向かう途中、なにやら色々と話しかけてきていたがほぼほぼ聞いていなかった。兎に角全ての行動が早いと、そう思った。初めて出会うタイプの人間に戸惑うことしか出来ず、息をつく間もないマシンガントークについていくのが精一杯だった。
現実は小説より奇なり、というが、この男はまごう事なき奇人だった。
目的地の喫茶店に尽く頃には俺はもう疲れ切っていた。正直、もう何がどうなってもとりあえず早く帰って寝よう。そう思うくらいには。そのとき飲んだアイスのブラックコーヒーがやたらと美味く感じたのを俺は今でも鮮明に覚えている。
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