女神との出会い 03
仕事に就いてかれこれ既に半年が経過し、無遅刻無欠勤だったこともあってか遅刻したことはあまり怒られることもなかった。むしろ「あの一之瀬が遅刻?」みたいな反応だったらしく、人間関係が築けず、仕事も出来ないと自分では思っていたのだが、割と周囲からの評価は良かったらしかった。内心ものすごくホッとしたのだが、先日田上先輩と飲みに行っていたという情報を知る人からは、あまり良い印象ではなかったようではあった。
しかしながら、そこまで大事にならなかったのは不幸中の幸いである。
遅刻の原因はあくまでただの夜更かしだし、もっと言うなら、クリサリスとの会話で舞い上がった俺に責任があることは明白で、それがばれたらたまったものでは無い。先輩には申し訳ないが、このまま飲みの所為だということにしておけば良い。
「お前、田上さんと飲んでたらしいな」
話しかけてきたのは、同期の関口という男だった。ほんの少し明るい髪と、長身が特徴的な男で、イケメンだと言われる部類の人間である。友人も多い彼が、いつも一人でいる俺に話しかけてくることなど、今までなかった。もっと言うなら、確実に合わない人種であることは明白で、正直少し怖かった。
「そうだけど……」
「や、さ。まぁいいんだけどよ」
流れるようにとなりの席に座りスッとQRコードを差し出して、読み取るように促してきた彼の行動が何を意味するのかはまったく分からなかった。真剣な目つきに若干引き気味になりながら、それを読み取る。関口和也、その名前が画面に表示され、連絡先に追加された。それを確認するなり彼は席を立ち、そのまま歩き去っていく。たった今起こった一連の出来事が不可解過ぎて混乱していると彼からメッセージが届いた。
『田上に近づくな』
滞りなく就業時間が終わり、珍しく定時上がりになった。喫煙所に立ち寄り、鞄から煙草とライターを取り出して一本咥えたところで、ライターのオイルが切れていることに気が付いた。大人しく帰ろうとため息をつくといきなり目の前に手が伸びてきてギョッとする。思わず大きく仰け反った。
「お前、結構ビビリなのな」
伸ばされた手の主は関口だった。「ほれ」とライターを手渡され、きょとんとしていると不思議そうな顔で「吸わねぇの?」と聞いてきた。ハッとして渡されたライターで咥えたままだった煙草に火を点ける。立ち上る紫煙で関口の顔が霞んだ。
「ありがとう」
「いいよ、反応面白かったし」
「……さっきのラインなんだけどさ、あれってどういう事?」
「ああ? ああ、まぁ、言葉通りの意味よ」
面倒くさそうに頭をバリバリと掻きながら彼はそう言った。並んで煙草を吸っていると、妙に落ち着かない。見ている世界が違うような気がして、彼のように陽気な人間がどうにも苦手だった。気まずい沈黙が続く。煙草を吸いきり火を消す。帰ろうと関口にライターのお礼を言って喫煙所を出ようとしたところで背後から「おい」と声をかけられた。
「今はまだ、ちゃんと言えん。が、とにかく注意だけはしとけ。何かあれば頼ってくれ。同期だろ」
――そう言って歯を見せて笑った彼の顔は、ほんの少し苦しそうだった。
『田上に近づくな』この言葉が何を意味しているのか、俺にはまだ、この時は理解する由もなかった。
◆
『先日書かれていた短編、読み終わったので感想をお伝えしたいのですが、お時間ありますか?』
帰宅後、シャワーで汗を流してスマホを見るとクリサリスからそんなメッセージが届いていた。関口の事もあってすこし疲れ気味だったのだが、このメッセージを見た瞬間に全てが吹っ飛んだような気がして、単純ではあるが、ほんの数時間前の出来事がどうでも良く思えてしまった。
『もちろん大丈夫です。そちらのタイミングで掛けてください』
『あ、じゃあ早速ですけど掛けますね』
程なくして着信があり、応答。『こんばんは』と少し気弱そうな声が聞こえてきた。
「割と夜更かしなんですね」
『ぅえ、あ、迷惑でしたか……?』
「いや、全然。むしろ嬉しいですから」
通話越しに緊張が伝わってくるようで少しむず痒い感覚を覚えた。会話の切り出し方がどうにもお互い下手なようで、話したいことは分かっているのにどう伝えればいいのか分からない。直接こうやって話すのがまだ二回目というのもあるのだろうが。
『あの、先日の……とても良かったです』
「本当ですか、気に入っていただけたのなら良かった」
『もし、サリエリさんが良かったら、ちゃんとした批評……ちゃんとできるかはちょっと疑問ですけど、したいなって思ったんですけども……』
願っても無い申し出だった。今までは自分一人の独学でしか書いてこなかった事もあり、そうやってきちんと悪いところも言ってくれるなら、今まで以上の作品を生み出すきっかけになる。『割ときついことも言いますので、嫌だったら言ってくださいね』と付け加え、冒頭からラストまで、一つ一つ、問題点を出していく。
やはりというか、基礎が固まっていないのが一番の問題であったらしい。起承転結は取れているが細かい文法や言葉遣い、とりわけ方言を使ってしまう所など、挙げていけばキリが無いほど俺の作品は問題点が多かった。
注意はしていたつもりでもやはりまだまだ素人であることは、明白なようだ。ままならないものだ。
『あらましですが、一応メモもあるのでスクショも送ります。これを参考にすればほとんど問題ないかと思います』
「ありがとう、めちゃくちゃ助かります」
『あの、一つ伺っても?』
「はい?」
『もしかしてなんですけど、これ、今まで全部独学だけでやってきたんですか?』
「ええ、まぁ……学ぶところも分からなかったし、手探りで。一応は文法とかも調べてみたりしましたが……まだまだ。君には負けるよ流石に」
本心だった。どこまで行っても、独学では限界がある。ある程度は自分で学ぶことが出来ても、教えを乞える誰かがいなければ、何事も完成には至らない。今こうして彼女から学ぶことが出来るのは本当にありがたかった。
俺の知らない表現。俺の知らない言葉、様々な技術や見え方がクリサリスの作品には詰まっている。模倣でもいい、もっと俺は書けるようになりたいと思っていた。今まで読んだ本の冊数はもう数え切れないが、彼女ほどに痛烈に世界観を訴えかける作者に、俺は出会ったことがなかった。
「もっと色々、教えてもらっていいですか? 例えば、こことか……」
それから数時間、俺の知りたかったことを山ほど教わった。時計の針は午前三時を指している。流石に、喋り過ぎだった。
「丑三つ時ですね」
『今日は結構話しましたね』
「まだ、二回しか話したこと無いのにね」
『ホントですよ、こちらも、いい勉強になりました』
恐ろしく幸せな時間だった。出来ることなら、もっと話していたかったが、流石にこれ以上は迷惑だろう。明日は祝日で俺は休みではあるのだが、向こうの都合が分からない以上、束縛するのも良くない。
「流石にもう寝ますか」
『そう、ですね』
「その……ありがとう」
『いえ、こちらこそ、楽しかったです。おやすみなさい』
「おやすみなさい」
それを最後に通話が終わり、急激な疲労感がやってきた。仕事の疲れもあったと思うが何より頭に入れた情報量が多すぎた。冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みし、喉を潤す。喋り過ぎてカラカラに干からびた喉に冷たい麦茶が恐ろしく美味く感じた。机の上のスマホにメッセージの通知が届き、見てみればクリサリスからで『また、お誘いします』とのことだった。
あまりにもそれが嬉しくて、その日は心臓が鳴り止まず、まるでクリスマス前日の少年のような気持ちでしばらくの間、俺は寝付くことが出来なかった。結局俺が意識を失うように眠りについたのは、朝日が昇った後のことだった。
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