2 女神との出会い


 真面目にも俺が煙草を吸うようになったのは俺が成人してからだった。なかなか覚えられない仕事で忙殺される日々。高校生の頃から書き始めた小説も筆が進まなくなってきていた。

 親の反対を押し切り、出版社のある東京の仕事に就いたはいいものの、土地勘は皆無。そもそも方向音痴な上バスも電車もほとんど走っていない田舎から出てきたもんで、恥ずかしい話、地元が恋しいと思っていた。ホームシックというやつだ。

 対人関係を築くのが苦手でろくな友人がいなかった事もあり、職場でも常に一人。我ながら、ありえないほど人間が向いていないと思う。

 そんな中、煙草だけが俺の救いだった。煙草を吸っている時だけは、何もかも忘れることが出来る。思考を正すことが出来る。たった一人の喫煙所で静かに煙草に火を点ける。立ち上る紫煙が黒々とした感情をかき消していく。大丈夫。俺は大丈夫だ。

 三時間の残業を終えて帰路につく。ドンヨリと重い体を引きずるように会社を出てスマホを取り出す。ツイッターの通知を眺めながら、楽しそうなネ友の会話を眺め、いつものようにそこに混ざる。

『楽しそうなお前ら』

『サリエリさんお疲れー、仕事終わったん?』

『おん、今終わったとこやで』

『大変なぁお前、そういやさ、お前好きそうな人見つけたんよ』

『へぇ、どういう意味で?』

『作家的な意味だよ』

 ほう、と興味が湧いた。普段から本は読んでいたが、俺はあまり、同じアマチュアの立場の人間の作品を目にしたことは無かった。最近あまり書けていなかった事もあり、文章に餓えてきていた頃でもあった。

 もしかしたら、自分の作品の幅が広がるかもしれない、そんな思いで、教えられた人物のアカウントにアクセス。ほとんどツイートこそ無かったが、ネットに投稿された短編小説を見つけた。帰り着いたら読もう。そう考えてスマホをポケットに入れる。揺れる電車の中で、そっと目を瞑り自分の価値観を精査する。


 ――俺の価値観は俺が決める。流されるな。目指すものを見据えろ。前だけを見ろ。


 ゆっくりと目を開き、揺れる風景を眺める。星空のように明るい街が俺には、酷く寂しく見えた。


 ――この街で俺は作家になる。


 認められた事など無かった。

 褒められた事など無かった。

 いつも、俺は一人だった。

 どんなに努力しても、どんなに血反吐を吐いても。俺より優れた人がいた。

 運動も勉強も性格も容姿も。何一つ、誇れるものなど無い。

 そんな俺に許されたたった一つの武器。才能の欠片も無い俺が、人生を賭けた武器。それが小説だった。


 ――俺がイラスト書くからよ、お前が本を書けよ。


 その言葉が発端だった。俺のトリガーを引いた。あの言葉に、俺は全てを賭けたのに。


 ――諦めも肝心なんだよ。


 置いていかれた。何も無いんだ俺には。もうこれしか、残ってないんだ。なぁ、信じてたんだよ、俺は、お前を心から信じてたんだよ。どうして俺を一人にするんだ。

 放たれた銃弾は、前にしか進めない。もう、軌道修正なんて、出来ない。これはきっと、一種の諦めだ。それでも、俺は走り続けるしかないんだ。

 車窓に映った俺の顔は、泣きそうな少年そのもので。

 情けなさに噛み締めた唇からほんのりと鉄の味がした。


 ◆


 最寄り駅で降りた俺は自販機で缶コーヒーを買い、血の味を打ち消した。悩んでも悔やんでも仕方が無いのだ。駅から自宅までは徒歩五分。そこまで広くない自宅に帰りついた頃には色々とこみ上げてきた感情もあってか尋常では無いほどに疲れ果てていた。

 堅苦しいスーツを脱ぎ捨てベッドに横たわる。汗臭いシーツだが、同時に安心感がこみ上げてきた。今日もお疲れ様と自分を労い、ブックマークしておいた短編小説を読もうとURLに飛んだ。

 作者の名は『クリサリス』というらしい。蛹とはまた、自重した名前だと思った。ペンネーム……とりわけハンドルネームなんてものは個人の自由ではあるが、蛹と名づけるのであれば、普通は蝶から取るはずである。自信の無さが名前から滲み出ているような、主観でこそあるがそそられない名前だと感じた。

 嘆息し、まぁ騙されたと思って読んでみるか、と。そんなたった一つの武器を携えた自尊心はものの見事に粉々に打ち砕かれることとなった。


 ――なんだ、これは。


 そこにあったのは、『世界』そのものだった。描かれた情景が、己の視覚情報を狂わせる。目の前に広がった世界を歩いているような、白昼夢の中を彷徨うような違和感。存在しえないはずの、嘘であるはずの、作りもであるはずの世界。それがあたかも現実であるかのように、俺を飲み込んでいく。


 ――なんだ、この感覚は。


 押し寄せる感情の荒波に流された俺は、夢中になってその小説を読み終え、煙草を数個とも忘れて当たり前のように別の作品も読み進めていく。

 クリサリスの描く作品はどれもこれも、そこに確かな世界があった。そのほとんどが悲恋を題材としたものであったが、その全てが美しくその全てが輝いている様でさえあった。

 気がつけば俺はデスクに向かい、背筋を伸ばしていた。抑えきれない創作意欲に突き動かされるようにキーボードに文字を打ち込んでいく。

 どうすれば、俺はこの人のように世界を描けるのか。

 どうすれば、俺はこの人に勝てるのか。

 きっとその先に、俺の求めていたものがある。そんな気がして、一つの作品を書き終える頃には、太陽が昇っていた。

 ハッと我に返り今日が週末であったことを思い出し、安堵すると同時に一つの感情が俺の中に芽生えていた。


 ――この人と、話してみたい。


 ツイッターをフォローし、リプライを飛ばす。

『貴方の作品を全て読みました。突然ではあるのですが、少しお話をしたいと思ったのですが、如何でしょうか? 自分も、小説を書いているので、もしよろしければ』

 程なくして帰ってきたフォローに心臓が跳ねる。

『是非! 感想をお伺いしてもよろしいですか? 気に入っていただけていたなら嬉しいのですけども……』

 その後のやり取りで、クリサリスが女性であることを知り、若干の気恥ずかしさこそあったものの、彼女の描いた作品について、俺自身の作品についても長く語り合った。生まれて初めて出来た作家仲間に、こみ上げる嬉しさを隠しきれなかった。


 彼女の描く物語は酷く重く、辛く、そして儚い。

 細い弦にも似たそれは、触れれば簡単にぷつりと切れてしまいそうで。

 

 俺はきっと、そんな彼女の描く世界に。

 そんな彼女そのものに、強く惹かれたのだろう。


 ――俺は、その日。女神と出会った。

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