chrysalis.
希望ヶ丘 希鳳
1 記憶
――俺は多分、死に場所が欲しかったんだと思うよ。
けたたましい目覚まし時計の音。少し汗臭いベッドの匂い。腐りかけの弁当のゴミからする饐えた香り。今日も、また朝がやってきた。
ため息を一つこぼし、頭をかきながらカーテンを開けて陽光を取り込み、窓を開ける。吹き抜けた風がほんのり冷たく身震いした。変わらない日常と変わらないルーティーン。俺の朝はこうやって始まる。枕元のスマホのロックを解除し予定を確認、仕事は休み。何の予定も、無し。いそいそと顔を洗い、寝癖を直し、パンを焼いて、食べる。
パソコンの電源を入れ、書きかけた小説の続きをキーボードに打ち込んでいく。不規則なタイプ音だけが響く部屋で、俺は一人、ため息を一つこぼした。
一之瀬優、俺は今年で二十二歳になる。前の仕事を辞め、実家に戻り、適当な仕事を見つけて一人暮らしを初めて今年で一年。夢を追いかける日々にも、いい加減嫌気が指してきた。
「クソの役にもたたねぇって分かってて、よくもまぁ続くもんだよほんとに」
自嘲気味にそう呟いて、手元の煙草に火を点けた。立ち上る紫煙が思考を正していく。何のために、誰の為に書いているのか、もう忘れてしまった。音楽を聴こうと思い立って、乱雑に投げ置かれたイヤホンに手を伸ばしたところで、スマホが小さく震える。メッセージを確認し、軽く舌打ち。
「めんどくせぇな」
服を着替え、玄関を開けると後輩が立っていた。
「や、久しぶりッスね」
「安東お前さ、インターホンって知ってる?」
「鳴らしても出てくれないって分かってたもんで」
「……あがれよ」
頭を掻き毟りながら背を向ける。後ろから安藤が安堵したように息を吐いたのが聞こえた。
安東明俊は専門学生だった頃の後輩だ。特にこれといって接点こそ少なかったが、抜け殻だった頃の俺を良く知る数少ない友人の一人でもある。今の仕事に就けたのも彼の協力があってこそだった。
「それにしても良かったですよ」
「何がだよ」
「生きててくれたのでね」
「勝手に殺すなよ」
「……まだ、死のうとか思ってますか」
「……」
二十歳の頃、俺の自殺を食い止めたのは安東だった。小説家になりたい。そんな夢を抱いて上京した俺は、絶望し、どうにか生きていこうともがいた結果、職場で凄惨な扱いを受け、自殺を試みた。我ながら、とんでもない行動だったと思っているが、それと同時に仕方が無かったとも、考えている。
「あの日の先輩は本当に、見てられなかった。今も、ですけど。そんなに大事だったんですね。 まぁ先輩にとって相当に大きな存在でしたしね」
「何の話だ」
「あの人がいなくなってから、先輩は壊れてしまいましたから。分かりますよ、傍目でも」
「……クリサリスは、別に、そんなんじゃない」
「いや、でも」
言い終わる前に俺は机に拳を叩きつけていた。激しい手の痛みと、後輩の息を呑んだ視線に我に帰る。
「……すまん」
クリサリス、本名不詳、年齢不詳。性別が女で、写真でしかないが綺麗な人だったのは覚えている。ネットの情報だ、不確かだし、何より、会った事は無く、ただ電話で話していただけの友人。それでも確かに大事な友人だった。
……いや違う。俺は彼女が好きだった。どうしようもなく、惹かれていた。彼女の書く物語に、俺は、どうしようもなく恋をしていたんだ。
意を決して、会おうと、そう告げるより先に彼女は消えた。跡形も無く、彼女が書いた小説も、全て無かったことになった。今思えば、あれがトリガーだったのかもしれない。
俺はあの日を境に、完全に抜け殻になった。今もまだ、彼女の面影を探している自分がいる。
「いうて俺も繋がりはあったし、その手の話なら調べられますから、少し調べてみたんですけど、どうにも……そんなに大事なら、少し手を貸してはくれませんか」
「何をしろってんだ。俺はもう、諦めて……」
「そんな顔で言われても納得できないからこうしてここまで来てんでしょうが!」
安東の拳が机を叩く。二人の間に流れる静寂が、痛く、冷たかった。
「すみません」
「いや、俺も、悪かった」
「聞かせてくれませんか、二人の事。俺だって、また読みたいんですよ先輩の小説。それに先輩は、終わった話だって言いますけど、俺だって会ってみたいんですよ、クリサリスさんに」
「……あいつと知り合ったのは、俺が上京して、すぐの話だよ」
俺は硬く目を瞑り、深い谷底に堕ちていくように、記憶の底へ堕ちていった。
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