番外編
第107話 小さな恋の物語
「あ、ライリ! ちょうど良かったわ」
廊下の向こうから歩いてくるのはイーヴィだ。ルナティルスの宮廷魔道士の長は、ホルターネックのイブニングドレスを優雅に着こなしている。体に沿う真紅のドレスは彼女のボディラインを惜しげもなく披露し、通りすがった若い魔道士が無駄に漏れる色気に当てられて鼻を押さえながら去って行くのが見えた。
「その服の趣味、いい加減どうにかしたら?」
「ヘタな女の色仕掛けに惑わされないよう、耐性を付けてあげてるの。これも部下の教育の一環よ」
「ものは言い様だね」
「それはそうと、あなたに預かり物よ」
そう言ってイーヴィが差し出したのは、青紫色の包み紙に光沢のあるエメラルドグリーンのリボンが結ばれた小箱だ。嫌な記憶を呼び起こすその色に、ライリの眉間に深い皺が寄る。
渋々ながら箱を受け取ったライリが、リボンの間に挟まれていたカードを開く。瞬間、ぶちっと血管の切れた音がした。
『愛しのライリ殿へ、わが愛を捧ぐ。by・ルクスディル=ファウベスク』
カードを見ていないイーヴィが訳知り顔でにやついていることから、この箱の送り主が誰なのかは予め聞いていたのだろう。
手にしているだけでも悍ましいと言わんばかりに、ライリが小箱を指先で摘まみ上げた。と、それは瞬く間に黒く変色していく。ぶすぶすと燻った音を立てて炭化した哀れな小箱は、中身ごと燃え尽きてぼろぼろに崩れ落ちてしまった。
「こう言うの、持って来ないでくれる?」
「あら、でもせっかくの愛の日の贈り物なんだし、一応は受け取ってあげないと可哀想じゃない。仮にも相手は獣王様なんだから」
「あんな王様で、よく国が回るよ。今度ユリシスに、あの色ボケ王の国を侵略してもらわないと」
「さすがにそれは言い過ぎでしょ」
絨毯の上に残る燃えカスを足で踏み潰していると、今度はライリの背後で小さな足音が軽快に近付いてきた。振り返るよりも早く足にしがみ付かれ、思わぬ突進にライリの体が僅かに揺らぐ。一歩踏み出しただけで転ぶのを免れたライリが、眉間に皺を寄せたまま盛大な溜息をついて、右足にへばり付いている「それ」の首根っこを掴み上げた。
「リュティス……。君は何でこう、落ち着きがないかな」
そう言いつつも、掴み上げた少女を見る目は優しい。先程の小箱を見る目とは大違いだ。
「ライリ! ライリ、やっと見つけた!」
宙吊りになっているにもかかわらず、リュティスと呼ばれた少女は手足を大きく動かして喜びを全身で表している。まだ短い手を伸ばしてライリに触れようとする必死さに、イーヴィの頬が自然と緩んだ。
「あのねっ、リュティスねっ、今日はどうしてもライリに会いたくてねっ。お母様に手伝って貰ったんだけど、大体はリュティスが作ったんだよ! 偉いでしょ。だからね……」
「分かった! 分かったから、ちょっと落ち着いて。あと煩い」
「それでね、リュティスいまから重大発表するから、ライリ、耳の穴かっぽじってよく聞くといい!」
「人の話ぜんっぜん聞いてないし、どこで覚えたのさ、その言い方」
げんなりした表情のライリと、大きな若草色の瞳をキラキラさせて満面の笑みを浮かべる少女リュティス。眉間に深い皺を寄せたままのライリだったが、彼が少女を嫌っていないことは見ていれば分かることだ。それは長い付き合いのイーヴィだから分かる、僅かな変化なのだが。
夢をいっぱいに詰め込んで輝く若草色の瞳と、綿菓子のようにふわふわと癖のある栗色の髪。リュティスがいるだけで場の空気がぱぁっと明るくなる。時には煩いくらいのお喋り好きで、後先考えずに行動しては周りを巻き込んでしまうトラブルメーカーだが、城にいる者たちはみな明るく元気な彼女が大好きだ。
リュティスは良くも悪くも、母親によく似ていた。
床に戻され、リュティスが乱れた衣服を整える。ついでに髪の毛も手ぐしでささっと直してリボンの位置を頭のてっぺんに戻すと、わざとらしく「こほん」とひとつ咳払いをしてライリを見上げた。
「愛の日の今日! リュティスが直々にチョコを作りましたぁ!」
叫んで、リュティスが首元からブラウスの中に手を突っ込んだ。かと思うと、そこからひとつの箱を取り出す。
「待って待って! 何でそこから?!」
「ライリを驚かせようと思って隠してたの! びっくりした?」
「色んな意味でびっくりしてるよ……」
「ドッキリ成功ー! ねっ、ねっ、見てみて。形はね、ちょっと不揃いなんだけど……。いつもリュティスたちを守ってくれるお礼だよ」
さすがに元気印のリュティスも恥ずかしいのか、ピンク色の小箱をライリの膝にぎゅうぎゅうに押し付けてくる。身長差があるのでどうしても足にしか手が届かないリュティスを見かねて、ライリが腰を落として彼女と目線を同じにした。
母親によく似たリュティスが頬を染めて自分を見つめている状況に、ライリは何だかとても居たたまれない気分になる。嬉しいのか恥ずかしいのか感情の名前はよく分からないが、そこに嫌悪感のような不快な気持ちは微塵もない。ただただ、胸の奥がこそばゆい。
リュティスから受け取ったピンク色の小箱。愛情を凝縮したような赤いリボンを解いて蓋を開けると、そこには半分溶けかかったトリュフの残骸が入っていた。
「……」
「……」
何とも言えない、気まずい空気が場を満たす。服の中、しかもブラウスの中に仕舞われていたチョコが、子供の高い体温で溶けてしまうのは当たり前の事だ。それに気付けなかったリュティスが、物凄い勢いでライリの手からチョコの入った箱をひったくった。ぎゅうっときつく箱を握りしめて俯く体が、小刻みに震え始める。
「……リュティス」
ライリが声をかけると、びくんと小さな体が跳ねた。けれど俯いたままで視線を合わせない。あれほど元気いっぱいで突進してきたと言うのに、今は一気に曇り空のようにどんよりとした空気がリュティスの周りを覆っている。仕舞いには微かに鼻をすする音さえ聞こえてきて、さすがのライリも困ったように自身の頬をポリッと掻いた。
「こ、これ……私、間違って失敗作持って来ちゃった……えへ、へ」
「それじゃぁ、リュティス。一緒に取りに戻りましょうか」
見かねたイーヴィがそっとリュティスの背に手を添えて、ライリに軽く目配せする。自然な形でリュティスを連れていこうとするイーヴィにライリがホッとしたのは一瞬で、立ち去る小さな背中を見ていると沸々と言葉に出来ない思いが胸の奥で熱を持ち始めた。
たかがチョコ。
溶けてしまったチョコも、このあと用意されるであろう綺麗なチョコも、ライリにとっては同じものだ。
けれどリュティスが自分に渡したいと強く願ってくれたあのチョコを思い出すと、ライリの胸は温かく、そしてほんの少しだけ切なく軋むのだった。
「どこに行くの?」
投げられた言葉に、リュティスの足が止まる。振り返るよりも先に体がふわりと浮き、リュティスはライリの右腕に座る形で抱き上げられていた。
「それ、僕のチョコなんだけど」
「え……、でもこれ」
「一度受け取ったから、それはもう僕のものだよ」
困惑する若草色の瞳が涙で濡れているのを見ないふりして、ライリがリュティスの手に握られたままの箱を顎で指す。
「ほら、いいから蓋開けて」
「ライリ、でも……」
「はーやーくー! 僕、手が塞がってるんだけど?」
ライリの剣幕に、リュティスが恐る恐る蓋を開く。中にはやっぱり、惨めに溶けかかったトリュフが四つ入っていた。
そのうちのひとつを摘まんだかと思うと、ライリがパクリとチョコの付いた指ごと口に放り込んだ。腕に抱いたリュティスの体が僅かに震えたのを感じながら、ライリが更にもう一個トリュフを摘まみ上げる。
「味は……まぁ、チョコだね。不味くないし、充分食べられるよ。……ほら」
そう言って、摘まんだチョコをリュティスの口元に近付ける。有無を言わさぬ視線におずおずと小さな唇が開けば、ライリがそこに遠慮なくずいっとチョコを押し込んだ。
「ふぉがっ」
「溶けてもチョコはチョコだよ。僕にはこれで充分だ」
意図せず、ライリの頬が微かに緩む。安心させるように微笑んだことにも気付かないまま、ライリがチョコに汚れた指先をぺろりと舐めた。
その瞬間。
「……っ、ぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁ!!」
頬を真っ赤に染めたリュティスが、上体を仰け反らせながら絶叫した。
「何っ?! うるさっ!!」
「あぁーん、もうライリのばかばか! 好きーー!!」
ジタバタと暴れるリュティスを落とさないように力を強めれば、抱きしめられたと勘違いしたのかリュティスが更に目を瞠る。若草色の瞳の奥に、ハートマークが見えたような気がした。
「リュティスはライリのお嫁さんになるー!!」
そう高らかに宣言すると、小さな腕をライリの首に回して遠慮なくガシィッとしがみ付いた。その拍子にライリの首が僅かに絞まったが、そんなものはお構いなしだ。密かに憧れていたライリを前に、もうリュティスの思いは止まらない。
「リュティスが大きくなるまで、ライリ絶対に待っててね!」
「あら、まぁ……素敵なカップル誕生ね」
「……完全に面白がってるだろ」
盛大に溜息を吐くも、ライリの心は穏やかだ。リュティスに曇り顔は似合わない。笑顔の戻ったリュティスの言動に困りはするものの、目くじらを立てて否定するほどのことでもないと、僅かに眉根を下げて瑠璃色の瞳に映る少女を愛しげに見つめた。
「リュティス、誰もが羨むような美女になるから、楽しみに待っててね」
「あー、はいはい」
「獣王様に迫られても、浮気はしないでね!」
「そんなネタ、どこから仕入れるのさ!!」
ルナティルスの小さな姫君と、エルフの護衛官の小さな恋?は、まだ始まったばかり――。
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バレンタイン仕様の短編です。
本編終了後、5年後くらいの設定。
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