第104話 呪いからの解放
『この魔法、解読に成功したのか? リーオンって本当頭いいよな』
『そんなことないよ。ちゃんと勉強すれば、君にだって解けるはずだ』
『お前が頭脳なら俺は魔法だ。そうしたら将来、俺たちの国は怖いものなしだろ』
見開いた青い瞳に、忘れていた幼い頃の光景が走馬灯のように流れていく。
未来の国王を、頭脳で支えるその役目を嬉しく思っていたのはいつだっただろう。
力に溺れ、幼馴染みを蔑むようになったのはいつだったのだろう。
尊敬と信頼の眼差しを向けてくれていた、紫紺の瞳を持つ少年の顔が――リーオンにはもう思い出せなかった。
貫かれた心臓は驚くほど熱いのに、小刻みに震える指先は急速に熱を奪われ麻痺していた。
息すらかかる距離に、悲しげに揺れる紫紺の瞳がある。遠い日の記憶と重なり合った少年の顔を思い出すより先に、痙攣する唇を割って大量の血が吐き出された。
「……ユリ……」
「もう眠れ。リーオン」
哀切の滲む声音で囁いて、ユリシスが更に剣を沈ませる。貫いた箇所から徐々に広がる氷はやがてリーオンの熱い心臓にまで手を伸ばし、彼の時間を永遠に凍らせようと冷気を放出させた。
「お前の罪は俺が引き継ごう」
間近に重なり合った青と紫紺の、道を違えた二つの輝き。曇天のように濁った青を静かに包み込んでいく紫紺の空に、リーオンの意識がゆっくりと飲み込まれていく。
最後に目にしたのは頬に飛び散った鮮血を涙のように流し、昔と変わらぬ強く真っ直ぐな瞳を向ける幼馴染みの顔だった。
「リーオン様。……リー、オンさま……ずっと一緒。一緒、いっ、しょ……う、う……れ、しぃ……」
胸を貫く剣の枷を失い、ぐらりと傾いだリーオンの体をアデイラの肉塊が抱きしめる。そのまま誰の目にも触れないようにリーオンを自身の中へ埋め込んで、最後に残った頭部を胸に抱いたアデイラが嬉しそうに彼の金髪を撫でながら上体を丸めた。
さながら巨石のように床に蹲る肉塊から、何のものかも分からないくぐもった音が響き始めた。内側からぼこぼこと膨れ上がる突起はやがて人の拳ほどの大きさになり、見えない力に押し潰され引き延ばされた肉塊が、次第にその形を小さく小さく凝縮していく。
イザルクがブラッディ・ローズとなった経緯を思い出させる光景に、その場にいた誰もが一瞬だけ呼吸を止めてその場に立ち尽くした。
「願え、レフィス」
指輪の枷から解き放たれたブラッドに、命令はもう意味を成さない。それでも指示を請う赤い瞳は、ただ真っ直ぐにレフィスを見つめていた。
「ラカルの石は、お前の血によって目覚めたものだ。我と同様に、お前ならば制御することが出来るかもしれぬ」
「私が?」
「そうだ。お前の願いは血に宿る。お前はあの石をどうしたい?」
視線を向けた先に蹲る肉塊は、もう子供の背丈くらいの大きさにまで縮んでいた。
過去のリュシオンで見た、安らかな眠りさえ妨げられた少年ラカル。
愛する者の願いを叶えたいと、妄信的にリーオンに仕えたアデイラ。
絶対的な力を求め、不要なものを無慈悲に切り捨てる冷酷さを持つリーオン。
手のひらに乗るくらいの大きさしかないちっぽけな石に、一体どれだけの人が翻弄され、散っていったのだろう。全てを覆すほどの強大な力がありながら、決して幸せを生み出さない狂気の石。血に濡れ、涙に濡れたその石を、ブラッディ・ローズと同じように苦しみの連鎖から解き放ってやりたい。
そう思ったレフィスの心を読んだように、目の合ったブラッドが小さく頷いた。
「……手を」
誘うように、ブラッドが手を差し伸べる。重ねた手を上向きにされると、ブラッドの指先がレフィスの手のひらを軽く弾いた。
一瞬の痛みの後、レフィスの手のひらにじわりと血が滲み出した。温かい鮮血を指先で掬い、その手で大きく弧を描けば、ブラッドの動きに合わせて彼の手にレフィスの血で出来た一本の長剣が現れた。
「ユリシス。これを使え」
手渡された赤い剣を握りしめると、かすかに温もりが感じられた。狂った運命に翻弄された命を憐れみ、リュシオンの呪いから解き放ってやりたいと願うレフィスの思い。その心を赤い剣から感じ取り、ユリシスが握った柄にぎゅっと力を込めた。
リュシオンの悲劇は、もう二度と繰り返さない。狂気の血を引く末裔であるからこそ、ユリシス自身が決着を付けなければならないのだ。
ルナティルスの王子として。そしてリーオンの幼馴染みとして。
一度閉じた瞼をゆっくり開くと、夜闇を思わせる紫紺の瞳に王族としての強い光が静かに宿る。
「リュシオンの呪いから解放しよう」
その言葉を葬送に振り下ろされた赤い剣が肉塊を貫いた瞬間、目も開けられないほどの眩い閃光が謁見の間を埋め尽くした。
『至高の力を使わぬとは、宝の持ち腐れではないか。ルーグヴィルドの一族は腑抜けばかりで話にならぬ』
金髪の少年が父親の視線の先を目で追うと、中庭の奥に国王と黒髪の少年の姿が見えた。
『契約を義務化して、王族の地位を守っているに過ぎん。何のための力だ! あれは神魔族にのみ与えられた神秘の力だぞ』
『ユリシスは僕の頭脳を必要としてくれたよ』
そう答えると、痛いくらいに肩を掴まれた。
『
『そんなこと……』
『力こそ全てだ。我ら神魔族が多種族と肩を並べていることが間違いだと、なぜ気付かない? 神族の末裔たる我らが統治するのが道理であろう』
見開かれた青い瞳に映る父親の顔は、なぜか知らない男のように脳裏に刻み込まれていく。その歪んだ思想。狂気に満ちた不気味な笑顔。呪いのように繰り返される言葉は、次第に少年の心を黒く塗り潰していく。
そして気付いた時には、少年の周りには誰もいなくなってしまった。
広い、広い王城の中、たった一人で立ち尽くしている。誰かを呼ぼうと口を開いても、少年はもう誰の名前も思い出せなくなっていた。
視界が歪む。色をなくして霞んでく。急速に冷えていく体に心細さを感じて、思わず前に手を伸ばした。
『リーオン様』
柔らかな声音と共に、伸ばした手が誰かに触れる。
霞む視界、かすかに藍色の髪が揺れた気がした。
謁見の間を埋め尽くした閃光がゆっくりと消滅し、薄く開いたレフィスの視界に色が戻り始めた。
さっきまで聞こえていた肉塊の発する音は完全に消え失せ、ずっと感じていた大きな力の流れも綺麗さっぱりなくなっている。
床の上に蹲る肉塊。真っ直ぐに突き立てられた血の剣が吸い込まれるように肉塊の中へ消えると、それは端からほろほろと風化するように粉々になって崩れ落ちていった。
ぱしゃんっと、音を立てて、バケツから水が零れ落ちた。
転びそうになった体は何とか踏み止まったが、なぜだか手に力が入らず、アランは持っていたバケツを落としてしまった。地面に落ちた花を拾おうと身を屈めると、強烈な目眩がアランを襲う。
「アラン! 大丈夫?」
心配して駆け寄ったクロエの顔も、どことなく青白い。
地震の揺れを感じたはずなのに、今のルナティルスは恐ろしく静かだ。奇妙な違和感に、異様な倦怠感。意識がはっきりするにつれ、それはより鮮明になっていく。
「一体何が……」
クロエに支えられながら立ち上がったアランが、状況を確認しようと周囲を見回した瞬間。
ぱきんっと小さな音が間近で響いた。
「アラン! ……石が」
驚くクロエの視線を追って自分の右腕へ目をやると、そこに埋め込まれていたはずの黒い石が真っ二つに割れて剥がれ落ちていった。
リーオンが作った、魔力を奪う黒い石。アランに続いてクロエの石も割れ、それが意味するものを悟った二人が同時に城へと目を向けた。
「ユリシス。……リーオン」
アランの唇から零れた名は、少し肌寒い風に乗って、遠く空の向こうへと流されていった。
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