第103話 リーオンの誤算
少し離れた場所では、イーヴィとライリがアデイラの肉塊と未だ激しい戦いを繰り広げていた。一回りほど小さくなった肉塊。それでも威力は劣らず、振り回した腕に壁の一部が崩壊する。
その轟音すら届かぬように、ブラッドとリーオンの間には無音の沈黙が広がっていた。
対峙したまま微動だにしない。窺うように互いを凝視したのは一瞬で、沈黙を破ったのはリーオンの乾いた笑い声だった。
「解放されているだって? 国を滅ぼすほどの強大な力だぞ。わざわざ手放す馬鹿がどこにいるっ!」
「我を縛る枷はない。我は自由だとレフィスが言った」
確認するように、ブラッドが背後に庇うレフィスへと振り返る。重なり合った赤い瞳の奥、かすかな感情が芽吹いた気がした。
「だから我はここにいる。ブラッドとして、我の意思でここにいる」
『イザルクを縛っていた首輪の枷はもうないもの。イザルクは自由よ。自由になって、ブラッドとしてここにいるのよ』
過去のリュシオンから戻って来た時、ブラッドにそう言ったことを思い出して、レフィスが短く声を上げた。
契約解消という形ではなく、契約者としてブラッドを指輪の枷から自由にしたと言うことなのだろう。だとすれば、あの時ブラッドが見せた僅かな困惑も理解が出来る。
レフィスは知らぬ間に、誰もが恐れ欲する強大な秘宝を契約という鎖から解き放っていたのだ。
「……お前がやったのか」
あまりに低く冷たい声音に、レフィスの体がぎくんと震えた。その姿を背に隠して庇うブラッドの行為にも神経を逆撫でされ、リーオンが青い瞳をつり上げて美しい顔を怒りに醜く歪ませた。
「勝手にブラッディ・ローズと契約し、人型として顕現させ、あろうことかその力を解き放つとは愚かにもほどがある! どこまで僕を侮辱すれば気が済むんだっ。レフィス=ヴァレリア!!」
怒りにまかせて振り下ろされた剣から、細い稲妻を絡みつかせた黒い瘴気が溢れ出した。まるでリーオンの感情を具現化したように蛇の形へ姿を変えた瘴気が、床を削りながらレフィスへと一直線に伸びていく。
口を大きく開け、鋭い牙まで模った瘴気の蛇が、レフィスを庇うブラッドの正面で突然弾けたかと思うと数十匹に分裂した。レフィスを腕に抱いたままブラッドが素早く体を反転し、その衝撃で流れた空気に絡みついた炎の魔法が迫り来る蛇の群れを一網打尽に焼き尽くす。間を置かず再度放たれたもう一匹の蛇は、壁のように立ちはだかる紅蓮の炎の一点を突いて出たところで、間に入ったユリシスの剣に突き刺されて消滅した。
「ブラッド」
振り向かないまま名を呼ぶと、ユリシスの背後で僅かにブラッドが動く気配がした。
「レフィスを頼めるか?」
「承知した」
当たり前だと言わんばかりに即答し、ブラッドがレフィスを抱えて距離を取る。気配が充分に離れたのを感じてから、ユリシスが床に突き刺したままだった剣を引き抜いてリーオンへと向き直った。
「リーオン。もう終わりにしよう」
乱れた金髪の隙間から覗く青い瞳が、冷たい殺意を湛えたままユリシスを睨み付けた。演技じみた優雅な振る舞いも、品のある美しい笑顔もなくし、内に秘めた邪悪な思想と激しい怒りを隠すことなく剥き出しにする。
「終わるのはお前の方だ。ユリシス!」
空間が軋むほどの衝撃に、立ち並ぶ柱の幾つかが亀裂を走らせて崩れ落ちた。既に壁や床など至る所に戦闘の傷跡が残り、荘厳だった謁見の間は見るも無惨に荒れ果てている。
ラカルの石を取り込んだアデイラの肉塊と対峙するイーヴィとライリ。そして桁外れの魔力を有するユリシスとリーオンの剣戟によって、謁見の間が崩落するのは時間の問題だろう。
避難した壁際にさえ罅が入り、かすかに体を震わせたレフィスが縋るようにブラッドの腕にしがみ付いた。
「昔も今も、お前の存在自体が目障りだ! 国を逃げ出したのなら、そのまま永久に消え去ってくれればいいものを……どうあっても僕の前に立ちはだかるのかっ!」
頭上に召喚された幾つもの光の槍が、振り下ろされたリーオンの剣に合わせて一斉にユリシスへと襲いかかった。その刃先が届く前に真横へ薙いだ剣の衝撃波によって、全ての槍が軌道を変えて天井へと突き刺さる。がらがらと崩れ落ちた天井の一部は、床に落ちる前に二人の闘気に触れて粉々に砕け散っていった。
「無駄な争いだ、リーオン。本当はもう、お前にも分かっているんだろう?」
「憐れみのつもりか? ふざけるな!」
絶叫に近い声で叫んだリーオンが、ずっと握りしめていた指輪をユリシスに向かって投げつけた。リーオンの血に濡れた指輪が、赤い染みを点々と残しながら床を転がっていく。
「意志を持った力など不要だ」
ユリシスの背後、壁際に佇むブラッドを見た視線が、アデイラの肉塊へと移る。
「なり損ないの石を、僕が新たなブラッディ・ローズとしてよみがえらせてやろう」
そう言った次の瞬間リーオンの姿がユリシスの前から消え、同時にアデイラの肉塊が縦真っ二つに切り裂かれた。
鼓膜を突き破るほどの絶叫。かすかに混じる女性の声音は、声とも悲鳴とも呼べない轟音に埋もれあっという間にかき消されてしまった。
どさりと重い音をたてて、肉塊の半分が崩れ落ちる。戦う相手を瞬時に失い、呆然と立ち尽くすイーヴィとライリの眼前で、リーオンが辛うじて自立していた肉塊の半分に自身の手を食い込ませた。
「リーオン!」
叫び駆け寄るユリシスをみてにやりと笑ったリーオンが、食い込ませた左手を無造作に引き抜いた。血に染まる左手に握られたのはラカルの石ではなく――ほっそりとした白い女の右腕だった。
「……なっ!」
「リー……ン、さ……ま」
くぐもった声と共に、肉塊からアデイラの上半身がずるりと這い出した。体のほぼ全てが肉塊と同化した中で、顔の右半分だけが唯一原形を留めている。けれども開いた右目は色をなくし、白い眼球だけがリーオンの姿を求めてぎょろりと動くだけだった。
「アデイラっ?」
「あ、ぁ……リーオ、ンさま……。そこに、いらっしゃるのですね」
掴んだ手を放そうにも、リーオンの手はいつの間にかアデイラの肉塊に侵食され、それはそのまま彼の体を拘束する鎖となる。じわりじわりと腕から這い上がってくる肉塊は女の執念にも似ていて、狂喜じみた執着に背筋を震わせたリーオンが右手に握りしめた剣を躊躇いもなくアデイラの顔面へと突き刺した。
「こ……っの、死に損ないが! ラカルの石を渡して、さっさと消え失せろっ!」
頬を伝う鮮血が紫に変色した唇を朱に染める。顔面に剣を突き刺されてもなお、アデイラが恍惚の表情を浮かべて不気味に笑った。
「リーオンさ、ま。……わたくしは、ずっとそばにいますわ。だから……リーオン様も……離れないで下さいませ」
ぐうっと伸び上がった肉塊が、リーオンを取り込もうとゆっくり覆い被さってくる。
「……やめろ」
「ずっと一緒ですわ。リーオン様」
「やめろ。やめろっ! やめろおおぉぉっ!!」
絶叫し、逃れようと魔法を放つリーオンのすぐ目の前で、アデイラの白目が嬉しそうに笑った気がした。
「ユリシス!! あれを取り込ませるなっ!!」
背後から聞こえたブラッドの声に、ユリシスが急かされるように走り出す。緊迫したブラッドの声音。その言葉が意味するものを無意識に悟ったユリシスが、瞬時に剣身を氷に変えてリーオンへと振りかぶった。
ラカルの石は、核に使用された少年が既に死んでいたから失敗作だったのだ。適合に失敗し、石そのものと同化したアデイラがリーオンを生きたまま取り込めば何が起こるか分からない。予想は出来ないが、良くない事態である事は容易に想像出来た。
「リーオン」
唇の先で零れた聞こえるはずのない小さな声に、リーオンがはっと振り向いた。
覆い被さる肉塊を裂いた、氷の白い軌跡。きらりと光る美しい軌跡に目を奪われたその一瞬、ユリシスの氷の剣がリーオンの心臓を突き刺した。
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