第102話 ブラッドの意思

 荘厳な雰囲気漂う謁見の間は、いつの間にか魔法と咆哮の飛び交う激闘の場へと変化していた。


 適合に失敗したとは言えラカルの石を埋め込んだアデイラの攻撃は凄まじく、ライリの黒魔法とイーヴィの神族の力を以てしても容易に倒すことは出来なかった。深閑の森で対峙した魔物のように、負傷した箇所を瞬時に回復する。膨れ上がった両腕を振り回すだけの攻撃は時に意図せず魔法を放ち、全く予測できない攻撃にライリたちは苦戦を強いられていた。

 あの肉塊にアデイラの意思はない。アデイラの命と魔力が尽きるまでラカルの石は何の策略もない攻撃を繰り返し、傷付いた体を回復させていく。赤子の癇癪のような攻撃と驚異的な回復力は厄介だったが、それもアデイラの生命力が尽きるまでの根比べだ。そう判断し、二人はアデイラとの消耗戦に戦略を切り替えた。




 ――どうして。


 イーヴィとライリが、アデイラの肉塊と戦っている。左を向けば対峙したまま微動だにしないユリシスとリーオンが、間合いに張り詰めた緊張の糸を緩めることなく闘志を剥き出しにしていた。

 ユリシスは腰に差した剣の柄に手を置いて、リーオンはブラッディ・ローズを掛けたネックレスのチェーンを持って揺らしている。その挑発じみた行為に、柱の陰から様子を窺っていたレフィスの心は困惑と焦燥に揺れていた。


 ――どうして? ブラッド。


 心の内で疑問を呟けば、脳裏に鮮血の影が浮かび上がる。

 指輪を渡すまいと呼んだはずなのに、ブラッドは現れなかった。あの時既にリーオンの術は完成していたのだろうか。

 ブラッディ・ローズをレフィスから奪う為だけに作られた即席の腕輪。砕け散った腕輪が未だ体に残す悍ましい拘束の名残に、レフィスは無意識のうちに自分の右手首を手のひらで覆い隠した。




「君も見ただろう? 僕らの祖先、リュシオンの民が振るう圧倒的な力を」


 戦いの音が満ちる中、リーオンの澄んだ声音が静かに響く。


「全てをひれ伏す、強大な力。欲にまみれ、血にまみれてもなお、人を惹きつけて止まない美しい力だ」


「あれを美しいと言うのか」


 少年の死体を弄び、男の自由と命を奪い、その血の一滴さえも零すまいと貪欲に絞り尽くした狂気の実験。思い出そうとすればするほど凄惨な光景は、けれどもリーオンが求めるルナティルスの姿にもっとも近かった。

 嫌悪感をあらわにするユリシスとは真逆に、血塗られた地下室を思い出してリーオンが陶酔する。


「あの力こそ、僕が求めたものだ。神族の末裔である僕たちこそが、使うことを許された力。僕たちは選ばれた者なんだよ」


「ルナティルスを第二のリュシオンにでもするつもりか!」


「それがルナティルスの、真にあるべき姿さ」


 どこまでも相容れない。平行線のまま交わることのない道が、互いの姿を見失うまでに遠く離れて消えていく。


「他国を頼り、同盟を結んだ愚かな王族は、僕のルナティルスにはいらない」


 腰に差した剣を引き抜いて、リーオンが妖しく笑う。


「ルーグヴィルドの亡霊はご退場願おう」


 そう告げると同時に、リーオンの左手が鮮血に染まった。自身の剣によって切り裂かれた左手、そこに握られたブラッディ・ローズが血を求めて赤く煌めく。

 ネックレスのチェーンを伝って零れ落ちる血が到達する前に、リーオンがその先にぶら下がった指輪を血に染まった左手で強く握りしめた。


「さぁ、ブラッディ・ローズ! 僕と契約を結ぼうじゃないか!」


 歓喜に満ちた声で叫ぶリーオンに、ユリシスが剣を振りかざして飛びかかった。その攻撃を難なく避けて、今度はリーオンが剣を真横に薙ぎ払う。刃に纏う風の魔法が、白い尾を引いて空気を切り裂いた。

 振り向きざまに剣を下から上へ弧を描いて大きく振り上げ、迫り来る風刃の軌道を逸らしたユリシスが開いた左手に魔炎を召喚する。天井にまで届くほどの火柱を上げ、渦を巻きながら放たれた炎は、リーオンに衝突する一歩手前で薄い氷の壁に阻まれて弾け飛んだ。


 ばらばらに飛散した炎の屑が、二人の間に雪のように降り注ぐ。剣を構えたまま再び対峙した二人の顔には、明らかに種類の違う困惑の色が滲み出していた。


 今までも何度か剣を交えたことはある。そのおかげでユリシスはリーオンの力量や攻撃の癖など、完璧とは言えないまでもそれなりに把握していたつもりだった。

 それが今、リーオンの魔法攻撃を躱して感じたものはであるという違和感だ。


 ブラッディ・ローズを手に入れたリーオンが振るうにしては、あまりにも変わらなさすぎる「彼の魔法」だった。


「……何だ、これは」


 ユリシスの感じた違和感を肯定するように、リーオンが自身の手を見つめて戦慄わなないた。


「なぜ力が出ない? ブラッディ・ローズだぞ! リュシオンが求めた至高の宝だ。こんな魔法で終わるはずがないっ!」


 想定外の事態に我を忘れて叫び狂ったリーオンが、指輪を握りしめた左手に更に剣を突き刺した。飛び散る鮮血に、彼の白い服が赤い斑模様に染め上げられる。


「血が足りないのか? それとも契約には血の他に何かあるのか? 特別な何かが……」


 ぶつぶつと呟きながら何度も左手に剣を突き刺すリーオンが、そこでふと言葉を止めてゆるりと背後を振り返った。対峙しているユリシスではなく、柱の陰に隠れてこちらを窺っているレフィスを見て不気味に笑う。


「あぁ……レフィス。もしかして、君の生死が鍵なのかな?」


 契約に必要な血は与えた。それでも契約が成立しないのは、前契約者レフィスが生きているからか。それとも前契約者レフィスが特異的に大量の血を与えた為に、より強固な繋がりが出来てしまったからなのか。

 どちらも憶測に過ぎないが、レフィスを殺してみればはっきりするだろう。そう極論に至ったリーオンが、剣に氷の魔法を絡ませて瞬時にレフィスへと飛びかかった。


「レフィスっ!!」


 大きく振りかぶった剣の軌跡。空気すら凍り付かせたそれは、幾重にもなった鋭い氷刃と化してレフィスの視界から色を奪う。叫び駆け寄るユリシスの姿も、異変に気付いたライリとイーヴィの姿も、視界に映る全てを飲み込んで冷酷な氷刃の白に染め上げる。


「試しに死んでみてくれる?」


 美しい笑みを浮かべたまま、リーオンが氷刃の尾を引く剣を一気に振り下ろした。




 ――我を求めるか。小さき者よ。




 命を刈り取る、凍った白。熱を持たないその色に、一筋の赤い光が滑り込む。

 何かがぶつかり合う音に目を開くと、レフィスを庇うように立ちはだかる赤い影があった。

 赤い髪。赤い瞳。全てが鮮血に染まったその色は、レフィスの中で絶望から希望へと意味を変える。


「……ブラッド」


 掠れた声で名を呼ぶと、ブラッドが僅かに動いて肩越しにレフィスを一瞥した。


「我はお前が死ぬことを望まない」


 変わらず感情の読めない声で簡潔に告げ、ブラッドが再び視線を前方へと戻した。砕け散った氷の破片が光を反射しながら舞い散る中、攻撃を阻止され後方へ弾き飛ばされていたリーオンが鋭い眼光を宿してブラッドを睨み付けていた。


「なぜお前がそこにいる」


 呪詛を含むような声を落とし、リーオンが剣の切っ先をブラッドへと向ける。魔法の名残に薄く剣身を覆っていた氷の膜が、リーオンの怒気に当てられてパキンと割れた。


「お前の契約者はこの僕だ! 指輪はここにある。血も与えた! なのになぜお前が僕の邪魔をするっ!」


 操られていたとは言え、レフィスは確かにブラッディ・ローズとの契約を解消した。新たな契約者は血を与えたリーオンで、それは誰もが目にした変わらない現実だ。ブラッドがレフィスを庇ったその意味を図りかねて、リーオンはおろかユリシスでさえも強い戸惑いを滲ませてブラッドを凝視した。


「その女を殺せ!」


「拒否する」


「道具のお前が僕に逆らうのか! 僕はお前の主だぞ!!」


 激しい怒りに膨れ上がったリーオンの魔力が、彼の足下を中心にして床をべこりと押し潰した。空気すら怒りに震え、かすかな悲鳴を上げて軋み始めた柱の振動に赤い旗が妖しく揺れる。

 肌を刺す強い殺意と憤怒に対し、それを正面から受け止めたブラッドは凪いだ海のように少しの感情も揺らがない。赤い瞳で、ただ静かにリーオンを見つめている。


「我の主は、もういない」


 ブラッド本人ですら、その言葉を噛み締めるようにゆっくりと音を紡いでいく。


「我はとうに、指輪の枷から解き放たれている」


 凪いだ海。その水面を揺らす言葉が、大きな波紋となって響いていった。

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