第101話 契約解消

 頭の内側を撫でられた感覚に体中が怖気立つ。耳の奥で木霊するリーオンの言葉はいつの間にか意味を成さない不協和音へと代わり、その気持ちの悪い音色は鼓膜を震わせながらレフィスの中へと魔手を伸ばす。

 じわりと広がる毒のように。

 気付けばレフィスは、首飾りにした指輪のチェーンに手をかけていた。


「レフィス!!」


 止めようと手を伸ばしたユリシスよりも数秒早く、一歩前へ足を踏み出したレフィスの体がそこからふっと消失した。慌てて周囲を見回した視線の先、王座に座るリーオンの眼前に瞬間移動させられたレフィスの姿が見える。


「やだ……駄目っ!」


 口では抵抗するものの体は全く自由が利かず、レフィスは自分の意志とは反対に首から指輪の掛かったチェーンを外してしまった。


「いい子だね、レフィス」


 レフィスの腰に手をかけて無抵抗の体を引き寄せると、リーオンが天使のように清らかな笑顔を浮かべたまま開いた左手をレフィスに差し出した。その手のひらへ指輪を渡そうとしている自分を嫌と言うほど感じて、必死に拒絶したレフィスが小刻みに震える首を横に振った。

 視界の端に、駆け寄るユリシスたちが見える。

 確信に満ちた笑みを浮かべるリーオンが見える。

 右手に持った指輪の石が、鮮血の影と重なり合って鈍く光った。


「いや。駄目よ……っ、ブラッド。ブラッド!」


 助けを求めて呼んだはずのブラッドは、なぜか姿を現さなかった。


 希望が零れ落ちていくかのように、レフィスの手から指輪が滑り落ちる。手のひらに転がり落ちた赤い指輪を握りしめて、リーオンがレフィスの耳元に唇を寄せて先程と同じ言葉を囁いた。


「ブラッディ・ローズを、僕に頂戴」


 拒みたいのに、唇が動く。自分を呼ぶユリシスの声さえ遠のいて、レフィスの中にはリーオンの言葉しか響かない。


「わ……た、しは」


「レフィス、止めろ!」


 助けを求めて叫んだはずの言葉は、全く違う音を紡いで唇から零れ落ちてしまった。


「ブラッディ・ローズとの契約を、解消する」




 レフィスを中心にして、ごうっと激しい風が渦を巻いた。謁見の間を震わせるほどの激しい衝撃波に窓ガラスは割れ、柱に掛かっていた旗は煽られる間もなく引き裂かれて天井に舞う。

 リーオンに突き飛ばされ、レフィスの体が王座の僅かな段差を踏み外して真後ろに傾いた。床に落ちる寸前で走り寄ったユリシスに抱き留められ、その胸に縋り付いたレフィスが、そこで自分の体に自由が戻っていることに気が付いた。

 かすかに震えている手。その右手首に嵌まっていた腕輪が、太い罅割れを走らせて砕け散る。


「レフィス、大丈夫か?」


「ユリシス……私、指輪をっ」


 最悪の事態に体の震えが止まらない。見開いた瞳に映したユリシスは厳しい表情を浮かべたまま、それでもレフィスを安心させるように重ねた手にぎゅっと力を込めた。


「大丈夫だ。何とかする」


 ユリシスの視線の先で、リーオンがゆっくりと立ち上がった。室内を激しく揺らした風の渦は消失し、さっきとは打って変わって静まり返った謁見の間にリーオンの笑い声だけが響き渡る。


「やったぞ! ついに手に入れた! ブラッディ・ローズだ!!」


 指輪を握りしめた右手を掲げて、歓喜に打ち震えるリーオン。その足下に蹲ったままのアデイラなど既に眼中になく、指輪の赤い宝石を恍惚とした表情で見つめていた。


「リー……オン、さま。ついに手に、入れ……の、ですね」


 体の下半身をほぼ醜い肉塊へと変化させていたアデイラが、床を這うようにしてリーオンへ近寄った。念願叶ってブラッディ・ローズを手に入れたリーオンを称え、共に喜びを分かち合おうと伸ばした手が、リーオン本人の手によって振り払われた。


「いつまで醜く床を這うつもりだ?」


「リーオン、さ……ま?」


「さっさと立て。立てないのならば、お前にもう用はない」


 淡々と、何の感情も含まない声音に、アデイラの動きがぴたりと止まる。大きく見開かれた瞳に映るリーオンは、今まで一度も見たことのない冷酷な眼差しでアデイラを見下ろしていた。


「所詮はなり損ないの石か。肉体を与えても満足に働かない」


 指輪の掛かったチェーンをアデイラの目の前で揺らしながら、リーオンが僅かに身を屈めて顔を寄せる。アデイラが好きだった優しい笑顔を浮かべたまま、その顔からは想像も出来ないほど冷酷な言葉が弧を描く唇から零れ落ちた。


「もう消えていいよ、アデイラ」


 その言葉を聞いた瞬間、アデイラの意識が真っ暗な闇の底へと引きずり込まれた。

 薄れていく意識の合間に、優しく語りかけてくれたリーオンがよみがえる。ラカルの石を体内に埋め込んだアデイラを気遣い、体が辛い時には抱きしめて落ち着かせてくれた。婚約者であることを誇りに思い、溢れる愛しさを笑顔で受け止めてくれたリーオンも同じ気持ちでいてくれると、そう信じて疑わなかったのに。


 あの笑顔も。優しさも。愛を囁いた言葉も全て。


「……嘘、でしたの……?」


 もう何も映さない瞳から、ぽろりと涙が一粒こぼれ落ちる。それを合図に、意識の枷を失ったアデイラの体が、ぼこぼこと気味の悪い音を上げながら内側から大きく膨れ上がった。辛うじて残っていた美しい顔も膨張した肉に押されて変形し、そこにはもう面影を少しも残さない巨大な肉の塊があるだけだった。


「グァァァゥゥッ!!」


 獣の咆哮にも似つかない雄叫びを上げ、肉塊と成り果てたアデイラが自我を失い暴走を始めた。手当たり次第に腕のような肉を振り乱し、柱は薙ぎ倒され床は深く抉られる。見境のない攻撃は謁見の間を崩壊させるほどの衝撃で、飛び散る破片を避けながら壁際へ後退したユリシスが柱の陰にレフィスを隠して剣を握りしめた。


「お前はここにいろ」


 返事を待つ間もなく飛び出していったユリシスに、レフィスは何も言うことが出来なかった。ブラッディ・ローズを失った今、レフィスがやるべきは己の身を守ること以外に何もない。そう理解していても気持ちは追いつかず、歯がゆさを押し殺すように下唇をきつく噛み締めた。



「ライリ! イーヴィ!」


 名を呼ばれた二人は既にアデイラの肉塊と応戦中で、攻撃を躱したライリが手のひらに黒い光弾を集めながら視線だけをユリシスに向ける。


「二人はそのままアデイラを押さえ込んでくれ。あと……レフィスは壁際に避難させている」


 最後まで言わずともユリシスの意図を察し、ライリとイーヴィが目配せをして頷き合う。


「もしもの時はレフィスを連れて逃げてくれ」


「冗談。皆で帰るんだろ」


 即座に返された言葉に目を見開いたのは一瞬で、緊張に強張っていたユリシスの顔にほんの僅かな微笑が浮かんだ。


「……あぁ、そうだな」


 ブラッディ・ローズはリーオンの手の中にある。自我を失い暴走したアデイラの中には、ラカルの石もあるはずだ。

 最強と謳われた力、そのどちらもが敵側にある最悪の状況下。打開する術など何一つ見出せなかったが、ユリシスは逃げるわけにはいかなかった。


 ユリシスの背後にはルナティルスの民がいる。かけがえのない仲間たちがいる。

 レフィス。

 ライリ。

 イーヴィ。

 そして、ブラッド。


『お前たちと過ごす安穏な日々は――心地良い』


 僅かな感情の芽生えたブラッドを、リーオンの魔手によって黒に染め上げられたくない。


「リーオン」


 破壊の繰り返される雑音の中、ユリシスの声が強く響く。


「ブラッドを返して貰おう」

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