第100話 禁忌の魔法

 大陸全土に異変をもたらした竜巻の脅威は去ったものの、城の内部には未だ禍々しい魔力が濃く充満していた。それはリュシオンの神殿で感じた魔力と似た肌触りで、目視できる程にまで凝縮された黒い靄が扉の周辺を澱のように覆っている。

 注意深く扉を開くと、また廊下が続いていた。進路をせき止めていた扉が開いたことで、そこに澱んでいた黒い魔力の靄が続く廊下を滑るように流れていく。そしてまたひとつの扉の前で留まると、まるで扉を開けと言わんばかりに絨毯の上で悶えるように蠢いた。


「うわー。明らかに誘ってるよね」


「おそらくこの先にはリーオンがいるはずだ」


「さっきみたいに離ればなれになったらどうする?」


 ライリの問いに振り向いて、ユリシスがフードの縁に施された銀色の刺繍をなぞった。


「この刺繍に、互いの位置が分かる魔法を織り込んでいる。効果はリュシオンに飛ばされたときに実証済みだ。そうだろう、イーヴィ?」


「レフィスを探しに行くとき、やけに正確な場所が分かったのはそのせいだったのね」


「王立魔術研究所に無理を言って作って貰った。……うちの白魔術師はよくはぐれるからな」


 自分の事を言われているのだと気付いたときにはもう視線を逸らされ、行き場を失った羞恥の熱がレフィスの頬に集中する。文句のひとつも言えないままユリシスの背中を不満げに見つめたレフィスは、せめてここから先は絶対にはぐれないようにしようと固く心に誓うのだった。



 扉を開けた先は客間だったり中庭だったりと、まるで迷路のように入り乱れてユリシスの記憶と何も一致しない。通り過ぎた場所にいた時を止めた者たちの姿は、城下町で見たアランたちと同じように時空の歪みに取り残されているのだろう。

 城の中にはユリシスたちと、リーオンしかいない。先へ進む度に濃く色を変える靄に、ユリシスは目的の場所が近いことを感じた。


 厨房の扉を開けるとその先は応接室で、大きなソファの上には膝を抱えた一人の少女が顔をうずめてすすり泣いていた。

 気配を感じて顔を上げた少女が、涙を溜めた大きな瞳を更に見開いて立ち上がる。反射的に身構えたユリシスにびくりと体を震わせた少女が、駆け寄ろうとした足を止めて不安げに瞳を揺らめかせた。


「お前は誰だ? どうしてここにいる?」


 ユリシスの冷たい物言いに、案の定少女が怯えて肩を震わせる。


「お父さん……動かないの」


 指差した先、少女向かい側のソファに男の姿があった。今まで目にした者たちと同様に、少女の手をすり抜けた男の体が漣のように揺れ動く。


「何で動かないの? 何でお城に誰もいないの?」


 嗚咽を堪えきれずに、少女が声を上げて泣き出した。大粒の涙をぽろぽろと零して蹲る少女の姿は、見ているだけで痛々しい。

 けれどもここは何が起こるか分からない、不穏な魔力に包まれた城の中だ。最低限の警戒心を持ったまま、レフィスとイーヴィの二人が少女の側へ近寄った。


「大丈夫?」


 少女の前に身を屈めて目線を合わせると、涙に濡れた瞳にレフィスの姿が揺らめいた。


「私たち、皆を戻しに来たのよ。でもこの先は危ないから、もう少しだけここで待っていてくれる? 貴女のお父さんも戻してあげるから、ね?」


「……ほんと?」


 泣くのを止めて、少女がおずおずと右手を差し出した。握りしめた小さな拳、その小指だけが真っ直ぐにレフィスの方を向いている。


「約束してくれる?」


「勿論よ。私はレフィス。貴女は?」


 小指を絡めた瞬間、くんっと前に引き寄せられる。バランスを崩して前のめりになったレフィスの耳に口を寄せて、少女がひどく大人びた声音で艶っぽく囁いた。


「アデイラよ。これで会うのは二度目ね」


 肩を掴まれ、後ろに引き戻されたときには、レフィスの右手首に金色の細い腕輪が嵌まっていた。

 少女の姿に似つかわしくない妖艶な笑みを浮かべ、軽やかな足取りで踊るように後退する。ふわりと揺れる藍色の髪に、レフィスの記憶がカチリと音を立てた。


 フィスラ遺跡でラカルの石を目覚めさせたあの場所に、リーオンと共に訪れていたひとりの女。藍色の髪をした美しい女の顔を思い出した瞬間、レフィスの胸の傷がずきりと鈍く疼いた気がした。


「貴女一体何を……」


 引き戻したレフィスの体を背後に庇いながら、イーヴィが鋭い視線を向けてアデイラを睨み付ける。その横をすり抜けて素早く剣を薙いだユリシスの一撃を軽やかに避けて、アデイラが不吉な笑みを浮かべたまま背後の扉に手をかけた。


「まぁ! 乱暴な殿方ですこと」


 仰々しく驚く様子を演じながら、アデイラが開いた扉にするりと体を滑り込ませる。


「リーオン様はこちらですわ。わたくしの後を付いていらして」


 誘うように手招きし、アデイラはそのまま扉の向こうへ姿を消した。ぱたん、と静かに閉じられた扉が一度だけ赤く光ると、その形をより重厚な別の扉へと変化させた。

 金色の装飾に縁取られた、見るからに荘厳な一枚の扉。それを目にしたユリシスが、はっと息を呑んで僅かに身を固くした。


「……謁見の間だ」


「リーオンの待つ場所が王座だなんて、露骨すぎて嫌なんだけど」


 肩を竦めて毒を吐くライリに苦笑しながら、ユリシスが目の前の扉にそっと触れる。

 かつて父が座っていた王座。信頼を寄せる臣下たちに囲まれ、民を幸せに導くために奮闘していたその姿に憧れた幼い自分。強すぎる力を扱うための心得を何度も説いてくれた父に恥じぬよう、立派な王になることを目標として進んでいたことを思い出し、ユリシスの胸がかすかな哀愁の色に染まった。


「ユリシス。大丈夫?」


 心配して声をかけたレフィスに、短く返事をしたユリシスが振り返る。かと思うと眉間に皺を寄せたままレフィスの右手首を少し強引に掴み寄せた。


「俺よりもお前だ。何ともないのか?」


「う、うん。特に何も感じないわ」


 何の飾り気もない金色の腕輪は手首から抜け落ちない大きさで、ユリシスが魔力を篭めて破壊を試みても傷一つ付けられない。アデイラが正体を偽ってまでレフィスに嵌めた腕輪だ。ただの装飾品であるはずはないのだが、腕輪から感じる魔力は辿るのが難しいほど僅かにしか残っていない。


「大丈夫よ」


 心配そうに腕輪を見るユリシスの手を握って、レフィスが笑う。


「何かあったらすぐにブラッドを呼ぶから」


「しかし……」


「ここでずっと立ち往生してるわけにもいかないじゃない。歪みを戻さないとアランたちはずっと時空に取り残されたままよ。……ルナティルスの人々は、ユリシスの大事な民でしょう?」


 レフィスの言葉に、ユリシスは頭をガツンと殴られたような気がして、はっと目を開いた。

 国を追われたとはいえ、ユリシスは王族としての矜恃を捨ててはいない。自国の民が危機に瀕しているのならば、それを救うために全力を尽くそうとあの日心に誓ったのだ。その誓いをレフィスに告げられた気がして、ユリシスが見開いていた目をかすかに細めて苦笑した。


「……レフィス」


 名を呼ぶと同時に、掴んでいた手首を引き寄せる。マントが揺れる衣擦れの音がしたかと思った瞬間、レフィスはユリシスに抱きしめられていた。


「ありがとう」


 囁くように呟いた唇が、かすかに耳朶を掠めた。抱きしめられたのは一瞬で、体が熱を持つ前にユリシスの腕が離れて行く。

 扉に手をかけたまま振り返ったユリシスが、レフィスたちを見つめる紫紺の瞳に強い意志を宿して頷いた。


「全てを終わらせに行こう」




 神殿に似た造りの荘厳な雰囲気漂う謁見の間は、肌を刺すようなピリピリとした緊張感に包まれていた。

 王座まで一直線に伸びた赤い絨毯。その両脇に等間隔に並ぶ柱の上からは、細長い旗が垂れ下がっている。赤地に金色の糸で刺繍されているのは、薔薇の模様だ。


 ゆっくりと進むレフィスたちの足音は、絨毯に吸い込まれて響かない。代わりに絨毯の先、空席であるはずの王座から手を叩く音が響いていた。充分すぎるほどに間を開けて響く拍手の音は神経を逆撫でし、当然の如く真っ先に反応したライリが忌々しげに舌打ちした。


「漸くだね、ユリシス。王の帰還、おめでとう」


「リーオン」


「でも従者の数が足りないんじゃないのかい?」


「こいつらは従者なんかじゃない。仲間だ」


 王座の肘掛けに立てた腕に頬杖をついたまま、リーオンがユリシスの後ろに立つ三人を興味深く見つめる。その舐めるような視線を感じて、レフィスが無意識にユリシスの背後へと姿を隠す。


「魔族の血を引くエルフと、僕らの祖先である神族の生き残り。そしてブラッディ・ローズと契約を交わした女。なかなかに面白い組み合わせだね」


「お前も過去を見たのか?」


 イーヴィが神族だと断言したリーオンも、おそらくあの時空の歪みに生じた過去のリュシオンを体験したのだろう。

 ブラッディ・ローズの悍ましい成り立ち。血に濡れたあの地下室のどこかにリーオンもいたのだと思うと、ユリシスの胸が理由の分からない不安に駆られて早鐘を打ち出した。


「元々あの竜巻と時空の歪みは、アデイラがラカルの石と完全に融合した衝撃で発生したものだ。おいで、アデイラ」


 そう言って後ろを見やると、王座の後ろから藍色の髪をした女が現れた。

 先程見た少女ではなく、成人した美しい女性。けれどその顔は青ざめ、体は小刻みに揺れている。よく見るとアデイラの足下はぶくぶくに膨れ上がり、青いドレスの裾を巻き込んで醜い肉塊と成り果てていた。


「……ひっ」


 思わず悲鳴を喉に詰まらせて、レフィスがユリシスのマントを掴む。


「上手くいったかと思ったんだけどね。残念ながら、適合しなかったみたいだ」


「……リー……オン、さ……ま」


 前に進むことも出来ず、アデイラがリーオンの足下に倒れ込んだ。それでも必死に手を伸ばせばリーオンがそれを優しく掴み、苦悶に満ちたアデイラの表情にかすかな幸せが滲み出る。


「力を使えたのは一度だけだったけど、それでも役目はちゃんと果たしたから褒めてあげるべきかな?」


 アデイラの手を優しく撫でながら、視線は不穏な思惑を秘めたままユリシスへと向ける。形の良い唇がかすかに弧を描き、美しい顔に邪な笑みが浮かび上がった。


「君が過去へ繋げてくれたおかげで、解読の難しかった魔法の仕組みが理解できた」


 その言葉すら呪文であるかのように、ユリシスの記憶が地下牢に捕らわれていたあの血塗られた時間へと逆行する。ユリシスを傷付け、ブラッディ・ローズの在処を必死に聞き出そうとしていたリーオン。あの時、彼が口にした言葉を思い出すと同時に、過去のリュシオンで見た一つの魔法が脳裏によみがえった。


『相手を意のままに操る呪文を見つけたんだ。解読が難しくて、思ったより理解しづらい呪文なんだけど……いつか君で試してあげるよ』


『抵抗は無意味だ。お前の自由は私の手の中にある』


 地下牢で聞いたリーオンの言葉と、リュシオンで見たグウェンバーンがイザルクブラッドにかけた魔法。イザルクの自由を奪った細い金色の首輪と、アデイラがレフィスに嵌めた金色の腕輪。


「レフィスっ! 逃げろ!!」


 唐突に響いた怒号にも近いユリシスの声に重なって、リーオンの澄んだ声音がやけにはっきりと謁見の間に響き渡った。


「レフィス。ブラッディ・ローズを僕に頂戴」

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