第98話 イザルクという男

 場面が変わる。

 暗い地下室から陽光の眩しい外の景色に瞳を刺激され、レフィスが慌てて瞼を閉じた。


「君がイザルクか」


 聞こえた声に目を開けると、街外れに建つ小さな家の前に三人の男がいた。紺色のローブを羽織った二人の魔道士と向き合っているのは、長い黒髪を後ろに束ねた長身の男だ。深い藍色の瞳は眼光鋭く、黙っているだけでも息を詰まらせる程の威圧感を与えてくる。さながら警戒心の強い獣のように魔道士たちを一瞥するイザルクの手には、そんな冷酷な彼には不似合いなほどに可愛らしいピンク色の花が握られていた。


「墓前に供える花か?」


 不躾な言葉に眉を顰めるも、フードを外した魔道士の顔を見ると不機嫌な顔に僅かな困惑の色が合わさった。


「グウェンバーン神官長が直々にこんな場所まで何の用だ?」


「君が先月、妻を亡くしたと聞いてね。鎮魂の祈りを捧げに来たのだよ」


 訝しむイザルクの前で、グウェンバーンがゆっくりと両手を合わせる。鈴の付いた銀色の腕輪は右手首に、丸い金飾りの連なる腕輪は左手首に。グウェンバーンが緩く手を振る度に、左右の腕輪が重なり合わない不協和音を響かせた。


 異変を感じたイザルクが一歩退いて身構える。警戒心を剥き出しにして防御の為に振り上げた手から、ピンク色の花がするりと滑り落ちた。

 見開かれた藍色の瞳。強張ったまま動けない体。かすかに震える唇は、忘れてしまったように魔法の呪文だけが紡げない。


 瞬きするよりも早く、イザルクの自由を奪う魔法は完成されていた。


「抵抗は無意味だ。お前の自由は私の手の中にある」


 グウェンバーンの左手に嵌まった金色の腕輪が、しゃらんと澄んだ音を奏でて淡く光る。同じようにイザルクの首にも細い光が絡みつき、それは腕輪に似た金色の細い首輪となって彼から魔法と自由を完全に奪い去った。


「何、を……っ!」


「お前も誇り高きリュシオンの民ならば、自らその身を捧げるが良い。未来永劫続く我らの世界に、その軌跡を残せるほど光栄なことはあるまいよ」


 グウェンバーンが指を鳴らすと、強張った体から力が抜ける。それでも自分の意志で動くことの出来ない体が、神殿へ戻るグウェンバーンの後ろには従順についていく。己の体なのに相手のいいように動かされる屈辱に、ぎりっと噛み締めた唇から細い鮮血が糸を引いた。

 誰もいなくなった家の庭には、無残に踏み潰されたピンク色の花が取り残されていた。






「ぐああああああぁっ!!」


 鼻を突く濃い血臭と鼓膜を突き破るほどの絶叫に、レフィスの体がびくんっと震えた。

 先程見たはずの神殿の地下室は、目を疑うほど狂気の色に塗り替えられていた。


 澱んだ空気。絶え間なく続く不快な呪文。床に描かれた白い魔法陣は、その中央に蹲るイザルクの体から流れ出た血によって真紅に色を変えている。

 緻密に描かれた文字全てに行き渡る鮮血。それでも余りあるイザルクの血は止まる術を知らず溢れ続け、それを受け止める魔法陣の文字は一滴も無駄にすまいと輪郭をぷっくりと盛り上がらせていく。やがて立体化した魔法陣は、イザルクを捕らえる檻としての役割を視覚からでも嫌と言うほど認識させた。


 八人の魔道士が持つ性質の違う魔力をその身に流し込まれる度に、イザルクの体が鮮血を散らして拒絶を示す。鈍く光る魔法陣が零れる命を貪欲に求め、太く濃く鮮やかに己を主張する。絶え間ない呪文を呟く魔道士たちは、実験の成功を確信してゆるりと唇に弧を描いた。


「おお……やはり生きた体が核なのか。なんと鮮やかな……美しい」


 恍惚とした表情で見つめた先には、真っ白に色をなくした髪を振り乱して叫ぶイザルクの血塗れた姿。叫び、身を捩る度に、彼自身の鮮血によって白髪はくはつが赤く染め上げられていく。その光景すら尊いものとして狂信するグウェンバーンとは真逆に、ウィルシアスは度を過ぎた狂気の沙汰にひとり唇を戦慄かせた。


「グウェンバーン神官長……これは、あまりにも……」


「今更怖気付いたのか? 義弟を囲うお前の狂気とたいして変わらんだろう」


 向けられる下卑た笑いに、ウィルシアスが言葉を詰まらせて瞠目した。


「何、を……」


は、お前であったのかもしれんぞ? 妻を亡くした者同士、孤独かどうかの違いだった。義弟に感謝するがよい。歪んだ愛に狂ったおかげで、お前はこちら側にいるのだからな」


「……っ!」


「此奴が失敗に終われば、次の核にはお前の義弟を選んでやってもよいのだぞ?」


 実験から抜けることは許さないと暗に示され、逆らうことの出来なくなったウィルシアスが再びイザルクへと向き直る。耐え難い激痛と精神を破壊する呪文の詠唱に身を苛まれながら、それでも必死に己を保とうとするイザルクの強く鋭い眼差し。血走ったその藍色の瞳に射抜かれて、実験に疑念を持ち始めたウィルシアスの心が激しく揺さぶられた。


「外道がっ!」


 血反吐と共に吐き出されたイザルクの叫びは、ウィルシアスの耳に呪いの韻を纏っていつまでもこびり付いていた。





 それは予期せず始まった。


 地下室の魔法陣。組み込まれた文字の檻はウィルシアスの目線の高さにまで伸び上がっていた。その中央に蹲るイザルクの体は血を抜かれ痩せ細り、けれどこちらを睨む瞳だけは未だ生気を少しも失ってはいない。

 色の抜けた白髪を自身の鮮血で染め上げ、深い闇の深淵を思わせる藍色の瞳ですら今は憎悪に赤く色を変えている。その赤い瞳と視線がかち合うだけで、ウィルシアスの体は本能的に竦み上がった。


 イザルクの血によって立体化した魔法陣が、彼に変わって力強く脈打ち始めた。さながら太い血管のように規則正しく震える魔法文字の檻の向こうで、真紅に染まった双眸を獰猛にぎらつかせたイザルクがこちら側を見て――にやり、といびつに笑った。


「――呪われろ」


 怨嗟に満ちた声が響くと同時に、魔法陣の脈打つ文字の一端がイザルクによって力任せに引き千切られた。

 迸る鮮血と轟くイザルクの絶叫。地を揺るがす振動に空気が罅割れ、ついに崩落した地下室から魔力を孕む巨大な竜巻が鮮血の稲妻を走らせながら天空を突き上げた。


 もはや魔法陣としての体裁も役目も失ったイザルクの血液が、膨大な魔力を有したまま地下室の床一面に弾け飛んでいた。芋虫のように醜く蠢きながら絶命寸前のイザルクの体を覆い隠した血塊は、赤いヴェールの下で彼の体を捕食し始める。痙攣する度に血塊の大きさが縮小され、内包された魔力は凝縮されていく。

 その禍々しい光景と心臓を抉られるような力の波動に、ウィルシアスの鼓動が一瞬だけ完全に停止した。


 冷や汗が止まらない。悍ましい光景に、瞼が凍って動かない。


 ――呪われろ。


 耳のすぐ側で、イザルクの声がした。

 イザルクの自由を奪った首輪を指輪に変えて、手のひらに乗るほどまでに縮小された血塊が地下室の真ん中で赤い宝石へと姿を変えた。




 気が付いた時には、ウィルシアスは転移魔法で神殿の地下室から逃げ出していた。あそこにいてはいけない。に飲み込まれてはいけない。込み上げる嘔気を嚥下しようとして、自身の喉がカラカラに干上がっていることに気付く。張り付いた喉を僅かな唾液で潤したはずが、口内に満ちるのは噛み締めた唇から滲む血の鉄臭い匂いだけだった。


「イーヴァラス!!」


 妻の名ではなく、義弟自身の名を呼んでウィルシアスが地下室へ飛び込んできた。何事かと緩慢にベッドから起き上がったイーヴァラスの枷を外し、胸元に浮かび上がる赤い痣を手のひらで覆う。焦る呪文に合わせて白い肌から痣が消え失せ、はっと顔を上げたイーヴァラスの瞳に後悔と懺悔を滲ませたウィルシアスの顔が映った。


「……義兄、さん……?」


「体を戻す魔法をかけている暇はない」


 言ったそばから呪文を詠唱するウィルシアスに合わせて、彼の周囲にふわりと風が巻き起こる。今までとは違う、昔の――イーヴァラスが尊敬していた頃のウィルシアスが纏っていた、穏やかで柔軟な中にも強い芯を感じる高潔な魔法の匂い。そしてそれを覆うようにかすかに漂ってくる、血の臭いと禍々しい力の波動。


「一体何が……」


「イーヴァラス。――すまなかった」


 伸ばした指先が魔法壁に阻まれる。透明な結界内、イーヴァラスの周辺だけが薄い紫色の靄に包まれていた。靄は次第にイーヴァラスの意識を深く遠いところへ引き寄せはじめ、重くなる瞼を必死に留めて顔を上げた先で――かすかに見えていたウィルシアスの姿が分解されたように一瞬で霧散した。

 べちゃり、と結界を通り抜けて顔面に飛び散った血が、イーヴァラスの視界を真紅に塗り替える。かと思うと急速に意識を引っ張られ、イーヴァラスは血に濡れた瞳を閉じたまま再びベッドへ沈み込んだ。





 その日、リュシオンは大陸から消滅した。



 強大な力を誇る神族の生き残りはごく僅かで、そのほとんどが神殿から発生した竜巻に栄華の象徴である魔力を吸い取られてしまった。

 美しい街は跡形もなく消え失せ、荒れた更地に再び草木が芽を出したのは、惨劇から数百年が経った後のことだった。


 芽吹いたばかりの若葉を食む小動物。控えめに咲く野花の蜜を求めて羽を休める蝶の群れ。生い茂る草木は瑞々しく、けれど新緑の美しい木立はまだ森と呼ぶには若すぎる。

 その中にあって、唯一他よりも太く聳え立つ一本の木があった。白い花を咲かせる、大樹と言うにはまだ幼い木の根元に抱かれるようにして、薄紫の魔法壁に守られた美しい女が横たわっていた。


 ふわりと降り立つ蝶の震動に、効力を失いかけていた魔法壁がいとも簡単に砕け散った。

 鼻腔をくすぐる花の香りと頬を撫でる柔らかな風に、女の瞼がぴくりと動く。動いて――ゆっくりと開かれた瞳は、酸化した血を思わせる鳶色に揺れていた。

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