第97話 呪われた地下室
薄暗い地下室にいた。
広くもない室内にはベッドがひとつ。光源は階段を降りてすぐの柱にかけられたカンテラだけで、その淡い光は部屋の隅に佇んでいたレフィスの足下までは届かない。
じゃらり、と金属の擦れる重い音が響く。
薄闇の中に浮かび上がったイーヴァラスの姿は生気がなく、虚ろな瞳をぼんやりと開けたまま天井を見上げていた。
魔法で変化させられた女性の体。その細く柔らかな肌には幾つもの傷が浮き出ている。そのほとんどは自傷行為で出来た引っ掻き傷で、一番酷い傷跡が残っているのは足枷を嵌められた足首だった。
足枷はベッドの足に鎖で固定され、部屋のどこにも届かない厭らしい長さでイーヴァラスをベッドの側に拘束している。
細い足首に嵌まる鈍色の足枷は、ひどく異色な雰囲気を纏ってレフィスの脳裏に焼き付いた。
ぎぃ、と軋む音がする。途端、イーヴァラスが怯えたようにベッド脇に身を屈めて縮こまった。
ゆっくりと階段を降りてきたウィルシアスの手には、アーセラの白い花を一輪挿した花瓶が握られている。
「待たせたね、フィリーゼ。実は今、仕事が立て込んでいてちょっと忙しいんだ」
ベッドしかない殺風景な地下室に、甘いアーセラの香りがほのかに漂う。花瓶を床に置いたウィルシアスがベッドの向こう側、ちょうどここから隠れるようにして床に蹲っているイーヴァラスのそばへゆっくりと距離を縮めた。
「例の計画が始まったんだよ。グウェンバーン神官長が指揮を執ってるんだけど、少し前から僕もそのチームに加わることになってね。僕ら神族の力を世界に示す、素晴らしい計画だ。成功すればフレーソンのような野蛮な種族を一掃できる」
ウィルシアスがベッドに腰掛ける。乾いた室内に響く、ベッドの軋む音。怯えて震えるイーヴァラスの髪を一房手に取って、ウィルシアスが金糸をなぞるように口づけした。
「君を何ものからも守ろう。もう二度と奪わせない。離さない。いとしい……僕だけの、フィリーゼ」
蹲るイーヴァラスの体を優しく抱き上げて、慣れた手つきでベッドに押し倒す。鎖骨まではだけた白い胸元に、アーセラの花に似た模様が浮かび上がっていた。
身を屈め、触れるぎりぎりの位置まで唇を寄せたウィルシアスが、吐息に呪文を絡ませてふぅっと優しく吹きかけた。赤黒くくすんでいた模様が、息を吹きかけられた箇所から鮮やかな赤に変色し、同時にそれはイーヴァラスの魔力を意図的に封じ込めるもうひとつの枷となる。
魔法は封じられ、体は鈍色の鎖に繋がれる。
薄暗い地下室。揺れる灯りに浮かぶ情欲の影。一縷の望みを胸に見上げたウィルシアスの瞳は、今日も変わることなく昏い狂気を孕んだ劣情に歪んでいた。
「こんな穢れたものまで見なくていいのよ」
不意に背後から伸びた手のひらが、レフィスの視界から地下室の情事を覆い隠した。目隠しをされたことで、自然と瞼が閉じられる。その拍子に頬を滑り落ちた熱い雫に、レフィスは自分が泣いていることを知った。
「貴女には、出来れば知られたくなかったんだけど……嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさいね」
「……イーヴィ」
目隠しをしたまま、イーヴィが背中を抱くようにレフィスに体を寄せた。背中に触れる胸元に、目を隠す手のひらに、それはかすかな振動を伴ってイーヴィの思いを伝えてくる。耳に届く声音は変わらず優しい韻を含んで温かいのに、レフィスを抱きしめる体は怯えた子猫のように悲哀を纏って弱々しい。
振り返ろうとした体を強く抱きしめることで拒絶され、代わりに目を覆う手のひらにそっと触れると、小さく震えたイーヴィが背後で息を呑むのが分かった。
かける言葉が見つからない。
姉を殺され、狂った義兄によって監禁、陵辱される日々。精神を蝕むほどの現実にありながら、それでも必死に耐え抜いたイーヴィの絶望を、レフィスが完全に理解することは出来ないだろう。
慰めもでもない。共感でもない。気の利いた言葉一つ出てこなかったが、レフィスがいま、イーヴィに伝えたいと思うのは……。
「イーヴィ」
ぴくりと、イーヴィの体が震えた。
「わたし、イーヴィが大好きだよ」
穢れてなんかいない。そう伝わるように、重ねた手のひらに力を込める。
閉ざされた視界。レフィスの暗闇に響くのは、耳元で静かに噎び泣くイーヴィの声なき哀哭――ただそれだけだった。
街の中央に鐘塔を備えた立派な神殿が建っていた。塔のてっぺんに吊り下げられた金色の鐘は時告げの為ではなく、街を覆う結界を維持する用途で鳴るのだとイーヴィが教えてくれた。
レフィスは今、イーヴィに連れられてその神殿の前にいる。過去の時代に迷い込んでから初めて歩いて場所を移動したが、イーヴィに手を引かれなければレフィスは一歩も動くことが出来なかった。
その理由をレフィスは何となくだが理解する。
ここは過去のリュシオンで、その時代を生きていたイーヴィだけがこの「夢」に僅かに触れることが出来るのだろう。
繋いだ手は少し冷たく、前を歩くイーヴィの表情をレフィスが窺い見ることは出来ない。それでも思いを込めるように力を込めると、数秒遅れて躊躇いがちに強く握り返してくれた。今は、それだけで充分だった。
神殿の地下。巧みに隠された扉の奥には床一面に描かれた白い魔法陣と、その中央に横たわる少年の遺体が淡い光に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。
紺色のローブを纏いフードで顔を隠した魔道士が七人、魔法陣を囲んで等間隔に並んでいる。異様な空気に包まれた部屋の奥、暗闇に紛れて佇むユリシスとライリの姿を見つけたレフィスが声を上げる前に、背後からウィルシアスが体を通り抜けて魔法陣へと進み出た。
「遅かったな、ウィルシアス。我らの準備はとうに済んでおるぞ」
「グウェンバーン神官長……すみません。すぐに」
等間隔に並ぶ魔道士たちの一角、自分の為に空けられた場所へ立つウィルシアスを確認して、グウェンバーンと呼ばれた高齢の男が羽織ったローブを大げさに揺らして両手を頭上に掲げた。他の魔道士も次々に手を掲げ、地下室には耳慣れない呪文の詠唱が木霊する。それはさながら不協和音に似た不快さで、鼓膜を震わせ体の内側を濡れた手で撫で上げられるような感覚に心までもが怖気立つ。
呪文に合わせて赤く光る魔法陣。その中央に安置された少年の遺体が赤い光に包まれる。少年だった形はくるくると光に解け、伸びて広がり、その内に呪文を絡め取りながら小さく小さく凝縮されていく。
魔法陣をなぞる赤い光が消える頃、少年の遺体の代わりに床に転がっていたのは手のひらに乗るほどの小さな真紅の宝石だった。
「あれは……」
思わず口を突いて出た言葉に合わせて、魔法陣の上で石が赤く煌めいた。かと思うと内包した力を溜めきれず、今度は迸る鮮血のように溢れ出した赤が魔法陣の色を一気に染め上げていく。
白い魔法文字を流れていく赤が一人の魔道士の足下にまで到達した瞬間、誰も予想だにしなかった爆発が地下室の空間を大きく揺り動かした。
頑丈な作りなのか、あるいは部屋を覆う結界のおかげなのか。建物の被害は思ったよりも少なく、爆発によって齎された変化と言えば壁に飛び散った鮮血と魔道士の数が一人減ったことくらいだ。
「失敗か」
魔道士の死を悼むにはあまりにも無機質な声が響く。哀悼よりも落胆の色を強く滲ませたグウェンバーンが、魔法陣の中央に転がった小さな石を拾い上げる。皺だらけの手のひらに乗った石は鮮やかな色を失い、かすかな魔力の残滓を残すだけのがらくたと成り果てていた。
「この少年の名は?」
「セルヴィダの息子、ラカルです。先日病で亡くなりました」
返事をした魔道士を振り返って、グウェンバーンが手にした石をゆるりと差し出す。
「ならば、フィスラ。この石はお前が厳重に保管しろ。失敗作とは言え、まだ利用価値はあるだろう」
フィスラと呼ばれた魔道士が、石を受け取って元いた場所――レフィスの眼前に戻ってくる。その後ろ姿を見ていると胸の傷が鈍く疼いて、レフィスは無意識に下唇を強く噛んで呼吸を浅く繰り返した。
「やはり生きた体でないと無理か」
魔法の残留と濃い血臭に満たされた地下室に、グウェンバーンの不吉な言葉が零れ落ちる。
レフィスの胸で揺れるブラッディ・ローズが、怯えるように鈍い光を揺らめかせていた。
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