第96話 悲しき双子

 辺り一面が闇に包まれていた。

 視線を落としても自分の手すら見えず、体が消滅してしまったのではないかと不安になる。頬に手を当ててみると僅かな感覚が残っており、レフィスはほっと安堵の溜息をついた。


 扉から流れ出た瘴気の波に飲み込まれたことは覚えている。時間はそう経っていないはずだが、気が付けばレフィスは前も後ろも全く見えない完全なる闇の中にたった一人で立ち尽くしていた。

 仲間の名を呼んだそばから、声音は闇に浸食されて枯れていく。恐怖に震える心臓の音も、闇にかき消されているのか微弱にしか響かない。このままでは存在自体が闇に解けて消滅してしまう。そう焦燥したレフィスの視界に、ふっと光が瞬いた。


 儚い光は誘うように点滅し、闇に現れた唯一の光源にレフィスの足が自然と動く。近付く度に明滅を強くする光に照らされてレフィスの指先が形を成し、体に張り付いていた闇の粒子がはらはらと崩れ落ちていく。

 どこからか春を思わせる若葉の匂いが流れ込んできたかと思った次の瞬間、レフィスの体は大きく膨張した光の中へ吸い込まれるようにして消えていった。





 頬を撫でる心地良いそよ風に、レフィスはそっと瞳を開けた。

 小高い丘の上から見下ろす新緑の絨毯。風に揺れ、囁き合う白い花々。戯れに舞い上がった花びらが流れ着いた先に、白い城壁に囲まれた巨大な都市が見える。周囲に広がる森と共存するかのような石造りの都市は、まるで森の中に作られた巨大な遺跡のようだ。

 街の中央にひときわ高く聳える塔がある。てっぺんに吊された金色の鐘に陽光が当たり、目を突く反射光にレフィスが思わず目を閉じた。


「ちょうど良かったわ。イーヴァラス、留守番お願いね?」


 突然聞こえた女の声に顔を上げると、レフィスを取り巻く視界ががらりと変わっていた。

 綺麗に整備された石畳の街。その一角にある小さな家の前にレフィスは立っていた。扉を開けて出てきた女性は長い金髪を揺らしながら振り返ると、僅かに膨らんだ下腹部を撫でながら花が綻ぶように微笑んだ。


「夕方になる前には戻るから、もし彼が戻ってきたらそう伝えて頂戴」


「身重なんだからわざわざ散歩に行かなくてもいいじゃないか。やっぱり僕も付いていくよ」


 後に続いて出てきた長身の男性を見た瞬間、レフィスは奇妙な既視感を覚えた。

 女性と同じ長い金髪に緑と蒼を溶かしたような不思議な色をした瞳。その顔つきまでもがそっくりで、二人は双子だと一目で分かる。


「あら、妊婦だからこそ少しは身体を動かさないと行けないのよ。それに貴方にはやって欲しいことがあるの」


「地下室の修繕だろ。わかってるよ」


「急に呼び出しちゃってごめんね。お礼にクウィンの実を幾つか取ってきてあげる」


「森に行くつもり? 妊娠期間中は魔力が下がるんだろ? もし何かあったら……」


 心配して声を荒げた男――イーヴァラスが、見るからに不機嫌な表情を浮かべて女を見つめた。


「奥まで行かないわ。約束する」


 ふわりと微笑んだ彼女の背中から、光が弾けるように二枚の白い翼が具現化する。かと思うと翼はすぐに色をなくして消滅し、何事かと見開いたイーヴァラスの目に羞恥に頬を染めた女の姿が映った。


「散歩に行くのに飛んでいっちゃ意味ないわね」


「……まったく。本当に姉さんらしいと言うか」


「ふふ。それじゃあ、今度こそ行ってくるわ」


 照れ笑いを浮かべる口元を手で覆い隠しながら、女性がイーヴァラスに手を振ってレフィスの方へ歩いてくる。美しい微笑みを浮かべた女性はレフィスにぶつかることなく、まるでレフィスがそこにいないかのようにすうっと体を通り過ぎていった。

 弾かれたように振り返ったレフィスの鼓動が、痛いくらいに鳴っていた。

 女性が体をすり抜けたことについてではない。改めて間近で目にした女性の顔に、見覚えがあったのだ。


「……イーヴィ?」


 零れ落ちたレフィスの声に反応したように、街を囲む森の中から黒い鳥の群れが飛び去っていく。不穏な響きを孕むけたたましい鳴き声に顔を向けたレフィスの視界が、今度は日の差さない薄暗い森の中を映し出していた。




 踏み潰されたクウィンの赤い果実。

 力任せに引き千切られ、むしり取られた純白の翼。

 曝け出した白い肌を隠すには、乱れた衣服では不十分だった。




 ――ダンッと、何かを強く叩きつける音で、再びレフィスの視界が変わった。


 テーブルに置かれたランプの炎が怯えたように揺れている。仄暗い室内には二人の男がいた。

 一人は先程見た金髪の青年イーヴァラス。もう一人はテーブルに拳を叩き付け、怒りと悲しみに体を震わせている黒髪の男。


「おのれ……フレーソンの蛮族め。魔力も持たぬ下賤の民が、よくもフィリーゼを……っ!」


「ウィルシアス義兄さん。……今は姉さんを静かに弔ってあげよう」


「お前は悔しくないのかっ! フィリーゼが殺されたんだぞ! あいつらに……あんな奴らに……」


 激高しながら涙を流すウィルシアスの瞳が、復讐の炎に昏く揺れていた。


 視界が変わる。

 その度に切り取られる光景が四度目を迎えた頃には、レフィスはもう「ここ」がどこなのか理解していた。


 見たことのない街の風景。そこに住む、翼を持つ種族。

 ここはかつて大陸を支配していた神族が暮らす国、リュシオンだ。どう言うわけかレフィスはこの過去の狭間に迷い込み、イーヴィに似た双子の人生を垣間見ている。そう実感すると同時に、首飾りにしたブラッディ・ローズが妖しく煌めいた気がした。


「義兄さんっ? その血は一体……っ、まさか!」


 切り替わった視界の端に、血まみれのウィルシアスが立っていた。イーヴァラスを見ているようで、その瞳は未だ昏く狂気の色に濁っている。


「あぁ、これか。……穢れた蛮族の血など、フィリーゼに触らせる訳にもいかないからな。フィリーゼが帰ってくる前に衣服は捨てなければ……そうしないとあいつが帰って来られない」


 焦点の合わない瞳を彷徨わせながら、ウィルシアスが不気味に笑う。醜く歪んだその顔に、イーヴァラスの知る義兄の姿はもうどこにもなかった。


「地下室の修繕がまだだったな。だからいつまで経ってもあいつが帰って来なかったんだ。フィリーゼは綺麗好きだから念入りにしないと……」


 フィリーゼが死んでから季節がひとつ変わろうとする頃、ウィルシアスを静かに蝕んでいた狂気がついに矛先を変えてイーヴァラスへと向いてしまった。


「なぜだ? なぜ、いつまで経っても帰って来ない? フィリーゼが嫌うフレーソンの蛮族はもういない。地下室の修繕も終わった。あいつが好きな花も欠かさず飾っている。なのになぜ……」


「義兄さん。少し休んだ方がいい」


 毎日様子を見に来るイーヴァラスの目から見ても、ここ数日のウィルシアスの変貌は目を覆いたくなるものがあった。

 家の中は常に綺麗に保たれており、テーブルにはフィリーゼが好きだったアーセラの白い花が飾られている。その清潔感漂う室内の一角にウィルシアスが座り込んでから、どれくらいの日数が過ぎたのだろう。細切れに過去を見ているレフィスがそれを知るのは難しい。ただ無精に伸びた髭と痩せこけた頬、そしてウィルシアスの眼前に積まれた夥しい量の白い手足が時間の経過を無言で告げていた。


「どれだけ待っても帰って来ない。何をしても、戻ってこない」


 ぶつぶつと呟きながら、ウィルシアスが腕に抱えていた野良猫の死体を愛しげに撫で回した。その手のひらから淡い光が零れ落ち、ウィルシアスの魔法に包まれた死体が光の中でぐにゃりと形を変えていく。光が収まる頃には死体は元の姿を一切なくし、ウィルシアスの腕には無機質な細い女性の右腕が抱えられていた。


「違う。これじゃない。フィリーゼはもっと柔らかくて……温かい」


 放り投げられた片腕が、カシャンと冷たい音を立てて積み重なった右足や胴体の間に消えていく。


「どこにいるんだ。フィリーゼ……わたしの、いとしい」


「ウィルシアス義兄さん! もう止めてくれ! 姉さんは……」


 悲痛な叫びと共に肩に手を置かれ、ウィルシアスが一瞬だけ意識を眼前の四肢の山から背後に向ける。心配して覗き込んだイーヴァラスの瞳に、悍ましく歪んだウィルシアスの狂気に満ちた笑みがこびり付いた。


「あぁ……そんなところにいたのか」


 離れる間もなく、イーヴァラスの体にウィルシアスの歪な魔法が絡みつく。彼が何をしようとしているのかを悟ったときには既に遅く、体に纏わり付く不快な魔法の残留が完全に消える頃には、イーヴァラスの体は魔法によって女性のそれに変化させられていた。


「やっと戻ってきてくれたんだね。いとしい、わたしの……フィリーゼ」

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