第13章 リュシオンの悲劇
第93話 はじまりの合図
ここ数日、太陽の光は重く垂れ込めた暗雲に遮られて地上に届くことはなかった。
やまない雨は豪雨の激しさでも霧雨の弱さでもなく、ただ静かに一定の雨量を絹糸のように地上へ垂らし続けている。
さぁさぁと、ただ静かに降り続く雨。いつもは人の往来と喧噪で賑わう冒険者の街ベルズも、続く雨天にどんよりとした空気を漂わせていた。それは冒険者ギルド「フレズヴェール」でも似たようなもので、多くの冒険者で溢れかえる室内に今は数人のまばらな人影があるだけだ。
そのうちの一組のパーティがカウンター席に陣取って、ギルドマスターである狼頭のフレズヴェールと暢気にお茶を飲んでいた。
「暇だね」
ぽつりと呟いてカロムティーに口を付けたライリの横で、隣に座っていたレフィスがギルド内に設置されている掲示板へと目を向けた。
簡単な依頼書が貼られている掲示板の前では、新米であろう冒険者が数人、依頼を見比べながら仲間たちと相談している姿が見える。少し前まで自分もあんな風に掲示板を眺めていたことを思い出して、感慨に耽ったレフィスが僅かに息を漏らして笑った。
「何ひとりでにやけてるのさ。気持ち悪い」
「私も少しは成長したなぁって……」
「リアファルの女王にパンを放り投げた人が言う言葉?」
「うぐっ……」
ライリにとってパン事件はよほど面白かったのか、時々こうして引き合いに出してはレフィスをからかうことが多くなっていた。リアファルから戻ってひと月ほど経つと言うのに、未だ彼の中では色褪せない貴重な思い出の一つとして刻まれている。
「リアファルと言えば、今日は最初の会合が開かれるんだったな。だからユリシスがいないのか」
「顔合わせも兼ねて王都へ登城しているわ。そのまま緊急時の対策についても話し合うみたいね」
「あ! ねぇねぇ、マスター。会合が終わった後ルクスディルはここに来ないの? 二人とも長く会ってないんじゃない?」
フレズヴェールがギルドマスターを継いでからは、そう簡単にベルズを離れることも出来ないため、必然的に里帰りする機会も少なくなる。最後に弟の顔を見たのはいつだったかと記憶を手繰り寄せたフレズヴェールの脳裏に、ルクスディルの顔ではなく彼から届いた手紙が思い浮かんだ。
「あぁ、そういや会合が終わった後に来るって手紙に書いてたな。忘れてた」
「忘れてたって……さすが筋肉の脳味噌」
「手紙の内容がほぼライリ……お前の話題ばっかりでな。元気でやってるかとか、リーフェルンの姿は神々しかったとか、こないだ夢に出てきてくれたとか。三枚ほどお前さんへの愛を語った後に、最後の一行で会いに来るって書かれてもなぁ。そりゃ、記憶に残らんだろう」
顎に手を当てながら手紙の内容を思い出すフレズヴェールの前では、ライリが体をかすかに震わせて必死に何かと戦っている。それでも抑えきれなかったどす黒いオーラに当てられて、カウンターに置かれた飲みかけのカロムティーが怯えるように波紋を広げた。
「ラ、ライリ。落ち着いて、ね? ルクスディルも悪気があったわけじゃ……」
レフィスの言葉を遮って、何かが割れる金属音が響いた。見ればカロムティーの入っていたティーカップが真っ二つに割れている。
「え?」
声を出したのはライリだった。首を傾げたレフィス同様に、割れたティーカップを呆然と見つめている。顔を見合わせた二人のどちらともが怪訝な表情を浮かべて、答えを求めるようにフレズヴェールへと視線を移した瞬間。
腹の底に響く太い地鳴りと共にぐらり――と世界が大きく傾いた。
前触れのない大地震。その余波の収まらない中、緩い空気が流れていたギルド内が一気に騒然となる。床に倒れ込んだ者たち。ギルド内に併設された酒場の奥からは、食器の悲鳴が絶えず鳴り響いている。レフィスたちは互いに身を寄せ合い、カウンターの下に身を隠して揺れが収まるのをじっと待っていた。
「お、収まった?」
揺れが収まったのを確認して恐る恐る立ち上がる。ギルド内は倒れた椅子や割れた食器が散乱し、カウンター奥に至っては棚から弾き出された大量の書類が床を埋め尽くしていた。フレズヴェールの
「おいおい、何だ今の馬鹿デカい地震は? 怪我してる奴はいないか?」
筋肉質な巨体で軽々とカウンターを飛び越えて、フレズヴェールが素早くギルド内の状態を把握する。見渡した限りでは重症な怪我人はいないようで、フレズヴェールは床に倒れ込んだままの冒険者を抱き起こしながら太い声を響かせた。
「動ける者は街へ出て住民の救助にあたれ! ウェインとアミリアは街の現状把握だ。必要な箇所に適材を送れ」
指示を受け、二人の男女が外へ駆け出していく。その素早い行動に触発され、ギルドに残っていた冒険者たちも次々と救助に向かう中、フレズヴェールが今までにないくらいの厳しい表情を浮かべてレフィスたちを振り返った。
「イーヴィとライリは独断で動いて貰って構わない。その方が助かる命が多いだろう。怪我人はギルドへ運んでくれ。レフィスはここで怪我人の治療だ」
「分かったわ。ライリ、行きましょう」
「了解」
「二人とも気をつけてね!」
見送るレフィスに軽く手を挙げて、二人がギルドから飛び出した瞬間。
今度は耳を劈く雷鳴に似た轟音と共に、世界が一瞬にして色をなくし真っ白に染め上げられた。
外に飛び出した二人が、空を見上げたまま硬直している。フレズヴェールと共に外に出たレフィスの瞳に映った空は、見たこともないほど禍々しい暗黒の渦を抱いて、遠く北の空を不気味な闇に染め上げていた。
「あの方角は……」
フレズヴェールが最後まで言葉にしなくとも、その先をレフィスたちは知っている。
強くもなく弱くもない雨が淡々と降り続く中、とぐろを巻く漆黒の大蛇のように空へ伸びた巨大な竜巻がそこだけ雨雲を吹き飛ばし、代わりにどろりとした粘着質の強い闇を呼び寄せる。
雨雲とは違う汚れた闇のヴェールに包まれた場所。
ただでさえ恐れられ忌み嫌われている国は、この日世界を襲った大地震と共に現れた不吉な竜巻によって人々の記憶に更なる恐怖を植え付けた。
「ユリシス……」
思わず名前を呟き落とすと、フレズヴェールの大きな手がレフィスの頭にぽんっと乗せられる。
「あいつなら大丈夫だ。その為に今、王都に集まってんだろ。俺たちは自分に出来ることをやるだけだ」
「マスター。……うん、わかった!」
「お前らもさっさと動け! 空なんて後からいくらでも見られる。今はベルズの街に集中しろ!」
強い声で叱咤され、その場に留まっていた冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように走り出す。不吉な空に魅入られていたイーヴィもその声にはっと目を覚まし、いつの間にか止めていた呼吸を深くゆっくりと繰り返した。
なぜだか分からないが、体がかすかに震えている。空を真っ直ぐに貫く暗黒の竜巻を見た瞬間からイーヴィの鼓動は早鐘を打ち、唇は意図せず痙攣する。震える脳は何ひとつ理解できていないのに、体だけが敏感に「それ」を感じ取って遡る血の記憶が悲鳴を上げていた。
「イーヴィ?」
動こうとしないイーヴィに、ライリが眉を顰めた。怪訝な表情を浮かべつつも、かすかに身を案じる気遣いが見え隠れしている。そのわかりやすいライリの心配に胸を温かくさせながら、イーヴィが震える唇を噛み締めて笑顔を作った。
「ごめんなさい……大丈夫よ。行きましょう、ライリ」
「本当に平気? 足手纏いになるならいらないよ」
「貴方に後れを取るにはまだ早いわ」
「それだけ言えるなら十分だね」
口角を上げて、挑戦的な笑みを浮かべるライリ。今はその毒舌が有り難い。
「じゃあ、行ってくるわ」
安心させるように微笑んで、イーヴィが背後のレフィスたちへと振り返る。その鳶色の瞳が、音もなく現れ出た黒い影を映して大きく見開かれた。
「レフィスっ!!」
鋭い悲鳴にぎくんと震えた体が、背後から覆い被さる何かによって光を遮られた。かと思うと隣にいたフレズヴェールに勢いよく手を引かれ、その大きな巨体に庇われるようにして抱きしめられる。
ぐらりと揺れ動く視界に、一瞬だけ映ったもの。それは漆黒の瞳に赤い瞳孔を伸ばした、爬虫類に似た醜悪な魔物の姿だった。
膨れ上がる魔法の気配に、イーヴィたちの逸る呪文が絡みつく。それよりも間近に濃く迫った魔物の殺気と耳障りな咆哮。神経を逆撫でする不快な声が、獲物を屠る喜びに一層高く響いた瞬間――ひゅっと風を切る音と共に魔物の上半身がゴトリと地面に転がり落ちた。
「勘が鈍ったな、エルバムス。簡単に背後を取られてんじゃねぇよ」
振り返った先、路地の向こうに白衣の男が立っていた。
魔物の体を切り裂いた大鎌を肩に担いだまま、無精に伸びた赤茶色の髪を掻き上げて不敵に笑う。口角を上げた唇には、紫煙を燻らせる煙草が一本咥えられていた。
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