第91話 蜜薬

 リアファルに聳え立つ王城を兼ねた大樹。その裏側に建てられたフェイデルの温室がある場所はちょっとした広場になっており、王族に仕える者たちが自由に寛げる憩いの場でもあった。

 とは言っても、温室の他にはラプタの木から水を引いた小さな噴水がひとつあるだけで、他は何もない緑の絨毯が広がっている。自然を愛するエルフは、この草の上に寝転ぶだけでも癒やされるのだろう。寝転びはしないが、想像した彼らに倣ってレフィスが上を向いてみると、大樹からランプ代わりの光る花びらが舞い降りてきた。


 夜にはまだ早い時間だが、木々の天蓋は徐々に暗く色を落とし始めている。夜の灯りとして大樹が光の花を散らしたのならば、先程まで晴れていた空はおそらく翳り、もうすぐ雨が降り始めるのだろう。


 雨粒が落ちてくる前にと、レフィスがアランから預かってきた種を両手に掬い上げた。その手のひらに向かって、イーヴィが呪文を絡ませた吐息をふぅっと静かに吹きかける。

 小指の爪先ほどの種は質量を感じさせないほど柔らかく舞い上がり、何もない緑の絨毯の上へきらきらと小さな光を瞬かせながら落ちていく。


 落ちて、沈み、芽吹いて、伸び、その全てが一斉に花開く。


 緑の絨毯は瞬く間に瑠璃色に覆い尽くされ、辺りは清涼感を滲ませた甘いキュアノスの香りで満たされた。



 瑠璃色に咲くキュアノスの間を縫って歩いて行くイーヴィが、花畑の真ん中で立ち止まった。緩やかに挙げた両腕は空気を撫でるように柔らかく動き、その動作に合わせてキュアノスが揃ってさざめき出す。

 両腕は横にしたまま、上体を少しだけ反らしたイーヴィがしなやかに体を回転させた。くるりと舞った腕に掬い上げられるようにして、キュアノスの花から琥珀色の蜜が宙に弾き出される。端から順に舞い上がる蜜の粒は、まるで星屑の輝きとも見紛うほどにきらきらと輝きながら、イーヴィの動きに合わせて琥珀色の光の川が出来上がった。


 宙を漂う蜜の川。イーヴィに合わせてくるくると螺旋を描き、弾き出された蜜を絡め取りながら更に光を増していく。そのあまりの美しさに、レフィスの唇から恍惚とした溜息が零れ落ちた。


 この世の者ではない雰囲気を纏い、イーヴィがあでやかに舞う。

 まるで蜜の方が蝶に引き寄せられるように、舞い踊るイーヴィの動きに合わせて琥珀色の光が尾を描く。

 やがて光はイーヴィの手に握られた瓶の中へ吸い込まれ、最後の一粒が収まりきると同時に、それまでさざめき合っていたキュアノスも僅かな余韻だけを残して静寂の中へと戻っていった。




「イーヴィ、お疲れ様。あんまり綺麗だから、女神様かと思っちゃった」


「うふふ。ありがとう」


 キュアノスの花畑から戻ったイーヴィの手には、琥珀色の蜜で満たされた華奢な細工のガラス瓶が握られていた。これだけの量があればフェイデルをはじめ、いま病に罹っているエルフたち全員を救う事ができるだろう。そう思うと、レフィスの頬が自然と緩んだ。


「急いで戻ろう、イーヴィ。早く皆に飲ませてあげなくちゃ」




 リアファルに戻ってすぐ、ユリシスとライリはルディオに連れられてリリアーナの元へ向かった。その間にキュアノスを咲かせようと別行動を取ったレフィスたちが再び城へ戻ると、廊下の奥から走ってきたライリが二人の姿を確認するなり大声を上げてレフィスの名前を呼んだ。


「いた! レフィス、早くこっち!」


「ライリ? どうし……」


「ユリシスが倒れた!」


 レフィスの言葉を最後まで聞かないまま、ライリが焦りをあらわに声を被せてくる。


「リリアーナに報告してる途中で急に倒れて……今ルディオが客間に運んでくれてる」


「魔力を使いすぎて極端に疲弊している、というわけではないの?」


 呆然と立ち尽くすレフィスに代わってイーヴィが努めて冷静に訊ねると、否定の意を込めてライリが緩く首を横に振った。


「最後に一度だけ、瘴気の影がユリシスに触れた。おそらくあの時に生命力を奪われたんだと思う」


「私……ユリシスの所に行ってくる!」


「ちょっと待って、レフィス」


 駆け出した拍子に呼び止められ、レフィスははやる気持ちを抑えきれずに眉根を寄せてイーヴィを振り返った。イーヴィの意図が分からず、見つめるレフィスの瞳が焦りと不安に揺れている。


「行くならこれを持って行きなさい」


 レフィスの手を取ったイーヴィが、キュアノスの蜜が入った瓶をゆっくりと傾けた。イーヴィの短い呪文を絡め取った蜜は落ちると同時に凝固し、飴玉ほどの大きさになってレフィスの手のひらにころんと受け止められた。


「フェイデルのように継続して力を奪われたわけじゃないから、多分これくらいで足りると思うわ。不安なら少し治癒魔法を重ねてご覧なさい」


「イーヴィ……ありがとう。やってみる」


 丸く固まったキュアノスの蜜は完全に固形というわけでもなく、手のひらに伝わる感触は柔らかく、そしてほんの少しだけひんやりとしている。蜜の周りだけを薄い膜で覆ったような感じで、指で簡単に押し潰せてしまいそうなほどに脆い蜜の珠を、レフィスは壊さないように両手を丸めて包み込んだ。


「僕はリリアーナへ報告に戻るよ。イーヴィはフェイデルたちに蜜を配らなきゃだし……ユリシスのことは頼んだよ」


「うん。任せて!」


 視線を合わせて頷き合い、レフィスが先に走り出した。その後に続いたライリは廊下の奥を左へ、イーヴィは右へ曲がり、それぞれが目的の場所を目指して足早に姿を消した。





 部屋に入るとサイドテーブルに置かれたランプの炎が揺れて、壁に浮き出た影をかすかに揺らした。窓の外は暗く、先程から降り出した雨が窓ガラスを控えめに叩いている。

 足早にベッドへ駆け寄っても、ユリシスは身じろぎ一つしない。顔を近付けて漸く息をしているのだと確認できた。


「ユリシス」


 そっと頬に触れても睫毛をほんの少し揺らすだけで、その奥に隠れた紫紺の瞳を見せることはない。薄く開いた唇に蜜の珠を押し当ててみるが、意識のないユリシスがそれを飲み込めるはずもなく、分かっていたとは言えレフィスの顔には落胆の色が浮かび上がる。


 無理をすれば、柔らかい蜜の珠は破れてしまうだろう。

 束の間逡巡して室内に誰もいないことを再確認したレフィスが、蜜の珠に唇を寄せて囁くように回復魔法の呪文を唱えた。魔法を受け取って、蜜の珠が淡く発光する。それを見つめながら深呼吸を二度ほど繰り返したレフィスが、ふいに蜜の珠を自身の口に含んだかと思うとそのままユリシスへゆっくりと顔を寄せた。


 ふわり、と。

 遠慮がちに触れた唇を、たどたどしい舌の動きでこじ開ける。緊張して無理矢理ねじ込もうとした拍子に蜜の珠が破れ、粘度の高いとろりとした感触が口内に充満した。


 甘い蜜の余韻を残して唇を離すと、眠っていたはずのユリシスが意味深な笑みを浮かべてレフィスを見上げていた。


「ふひゃっ……」


 驚くあまり謎の悲鳴を上げて、レフィスがユリシスから飛び退いた。かと思うと下から伸びた手に引き寄せられ、逃げようとした体が再びユリシスの方へと引き寄せられる。ぽふんと胸元に覆い被さる形で倒れ込み、反射的に逃げようとするもユリシスの強い腕がそれを許さなかった。


「ユっ……ユリシスっ? やだ、ちょっと……っ」


 少し冷たいユリシスの体温は、異常に紅潮したレフィスの頬を冷ますにはちょうどいい。けれどその感触を満喫する余裕もなく、レフィスは自分を抱く腕から逃れようと必死になって身を捩った。


「大人しくしろ。俺は病人だぞ」


「なっ……にが、病人よ! いつから起きてたのよっ。意地悪! 馬鹿! 変態!」


「お前の白魔法は治癒系向きだからな。キュアノスの蜜を口に含んだだけで意識が戻った」


「そんな言葉で騙されないんだから! ユリシスなんか嫌い!」


 儚い力でユリシスの肩を小突き、ぐいっと上体を反らして腕の拘束を抜け出そうとしたレフィスの耳に、少しだけ低く落とした声が届いた。


「そうか、残念だ」


 はっとして、レフィスが一瞬動きを止める。ユリシスの蜜に濡れた唇が緩やかな弧を描いて、その顔に艶めいた微笑を浮かび上がらせた。


「俺はお前が好きなんだがな」


「……っ!」


 突然の告白に息を詰まらせたレフィスの腕を掴んで、今度は優しくいざなうようにゆっくりと引き寄せる。逃げだそうともがいていたレフィスの体はいとも簡単に傾いて、再び二人の距離が縮まっていく。その間も視線を彷徨わせて顔を真っ赤に染めたレフィスが、若干の理性と戸惑いに揺れながら喘ぐようにユリシスの名を呼んだ。


「ユリシス。えっと……あの、恥ずかしいから……その」


「何を恥ずかしがる必要がある。お前は俺を治療しに来たんだろう?」


 言葉の意味を図りかねて首を傾げると、ユリシスが右腕をすっと伸ばしてレフィスの頬を包み込んだ。そのまま親指で唇を撫でられ、レフィスの体がぞくりと震える。


「だったら最後までちゃんと治してくれ」


 甘い吐息と共に囁かれ、その吐息ごと覆い隠すように唇を塞がれる。口内に残った蜜の全てを絡め取る激しい口付けは思考をあっという間に奪い去り、レフィスはただユリシスの動きについていくだけで精一杯だった。


 高鳴る胸の鼓動が煩いくらいになっている。

 さっきよりも強く窓ガラスを叩く雨音をぼんやりと聞きながら、レフィスはキュアノスの蜜よりも甘い口付けにゆっくりと溺れていった。

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