第90話 親子の再会
「オォ……オ……オオオォォォォッ!」
死体がとうに涸れたはずの喉を震わせて絶叫した。
貪欲に神魔の魔力を奪い続けた宝石は完全に飽和し、内に留まりきれなかった魔力が死体の眼窩からどす黒い涙となって零れ落ちていく。その胸に煌めいていた宝石も漆黒に色を変え、辛うじて残った赤は石の表面に幾つもの鋭い亀裂を残すばかりだった。
ルナティルスの
『お父様。見て見て!』
ごうっと大気が轟いた。
宝石と死体に蓄積されていた魔力は器を失って暴走し、石から死体から、迸る鮮血を思わせる勢いで噴出し、周囲は濃い魔力が描く螺旋によって大地を深く削り取られていく。
舞い上がる粉塵と荒れ狂う風壁に邪魔をされ、ユリシスの視界から死体の姿が完全に覆い隠される。結界を張ってもなお激しい風圧に目を細め、状況を確認しようとしたユリシスのすぐ目の前に瘴気の人影が飛び込んできた。
暴走し風刃となった魔力に切り刻まれながら、それでもぼろぼろになった腕を必死に伸ばしたその指先が、剣を握るユリシスの右手にかすかに触れたその瞬間――。
『頼むっ! 娘には手を出さないでくれ!』
悲痛な男の叫びが耳のすぐ側で聞こえたかと思うと、ユリシスの体から体温が一気に奪われる。まるで命ごと引きずり出されたかのように、一歩前へ足を踏み出したユリシスの体がそのままがくんと地面に倒れ込んだ。
自分を呼ぶライリの声を聞きながら辛うじて目を開けたユリシスの瞳は、ここではないどこか別の場所を映し出していた。
薄暗い部屋。両手足に枷を嵌められ、蹲る男が一人。身に纏う上等な衣服は血で汚れ、乱れた髪が頬にべっとりと張り付いている。
金色の髪をした少年が、男の前に立っていた。天使かと見紛うほどの容姿とは裏腹に、その顔に浮かべる笑みはひどく禍々しい。
『それは君次第だと思うよ?』
少年の白い手のひらには、鮮血を固めたような赤い宝石が握られていた。
『ちょっと実験台になってくれないかい? 大丈夫。失敗しても、君の娘には手を出さないと約束しよう』
少年が歪んだ微笑を浮かべながら、男の胸元へ赤い宝石をねじ込んでいく。その度に響く男の絶叫が、部屋を照らす蝋燭の炎を揺らめかせた。壁に浮き上がる男の影が見る間に萎んで乾涸らびると、それは最後に一度だけ小さく震えて虚しく床の上へと倒れ込んだ。
『あーぁ、失敗かぁ。上手くいくと思ったんだけど……思った以上に難しいな、リュシオンの古代魔法』
崩れ落ちた男の乾涸らびた体を一瞥し、もうそれに興味はないと少年が背を向ける。「リーオン様」と名前を呼んだ配下の男を見もせずに、
『それは失敗作だ。外の森へ棄ててこい』
精気を奪われ輝きをなくした青い瞳の代わりに、男の胸に埋め込まれた石がリーオンの姿を映したままいつまでも妖しく煌めいていた。
「ユリシスっ!」
間近で名を呼ばれ、はっと目を見開いた先に、浮力を失い地面に降り立った死体が見えた。その体は溢れ出した魔力と共に再び涸れ果て、骨張った足では支えることも出来ずに力を失い膝を付く。
胸の宝石は更にその色を灰色に変え、端から風化してほろほろと崩れ落ちていった。
木々は薙ぎ倒され、隆起した地面に細く痩せ細った茶色い死体が
「ユリシス……体は?」
ライリに支えられながら立ち上がり、ユリシスが緩く首を振る。
「大丈夫だ。何ともない」
「ならいいけど。……最後の最後まで意地汚い石だったね」
爆風の煽りを受けて、泉だった場所の周囲は見るも無惨に荒れ果てていた。
隆起した剥き出しの大地に、多くの樹木が薙ぎ倒されている。未だ辺りに濃く漂う魔力の残留は、暫くの間この場所を不毛の地へと変えてしまうだろう。
けれど冥花の呪いを振りまいていた元凶は断たれた。フェイデルの生命力はこれ以上奪われることはないし、後はルナティルスへ赴いたレフィスたちがキュアノスを持って戻ってくるのを待つだけだ。そう考えていた矢先に、二人を呼ぶレフィスの声が聞こえた。
顔を向けると、ちょうどブラッドの腕から離れて駆け寄ってくるレフィスが見える。後に続くイーヴィが強く頷いたのを確認して、ユリシスは目的が無事に達成したことを知り深く息を吐いた。
「よく戻った。無事か?」
「うん。ユリシスは大丈夫? 凄い音がリアファルまで響いてきたから、びっくりしてブラッドに連れてきてもらったんだけど……終わったの?」
「あぁ」
頷いたユリシスの視線を追うと、少し先に空を見上げた姿勢で跪く乾涸らびた死体があった。胸元にあった宝石は窪みだけを残して消失し、動力源をなくした死体は完全に動きを止めて岩のように固まっている。
「ほんっと大食らいの石で、もうヘトヘトだよ。大体僕らもお腹空いてるって言うのに、何で石なんかに食わせてやらないといけないのさ」
同意を求められたユリシスが、どう答えていいか分からずに苦笑した。
「キュアノスは出来たのか?」
「アランが種で作ってくれたの。戻ってきてすぐ爆発音がしたから慌てちゃって……種の袋だけ女王様に預けて来ちゃった」
「大地に撒くとすぐに花が咲くからお願いしますって言って、すっ飛んできたのよ、この子」
イーヴィがそう付け加えると、ユリシスが珍しく素っ頓狂な声を上げてレフィスを凝視した。見開かれた紫紺の瞳が、あり得ないくらいに動揺している。
「お前、女王を使ったのか?」
「え? 使うって……」
「女王を顎で使ったのかってこと。さすが、石女はやることが大胆だね」
呆れるユリシスとは反対に、疲れを一瞬で吹き飛ばしたライリが生き生きとした表情でレフィスに笑いかけた。
「えっ? ……えっ! そ、そんなつもりで渡したんじゃないもん!」
「とにかく一旦リアファルへ戻るぞ。種だけ渡されても困惑する……」
と、そこでユリシスが不自然に言葉を切ってレフィスを見下ろした。種を渡してきたと言うレフィスの右手には、小振りの麻袋が握りしめられている。
「レフィス。お前、その袋は?」
「あ、そうだ! 二人ともお腹空いてるんでしょ? パン貰ってきたの。クロエの手作りでとっても美味しかったの!」
パンの味を思い出したレフィスが、頬を緩めて麻袋の口を開いた。香ばしい焼きたてのパンの香りが漂うはずの袋には、何故かリリアーナに渡してきたキュアノスの種が入っていた。
「……」
「……」
束の間の沈黙。次いで響き渡るレフィスの悲鳴とライリの失笑。
「たっ、種ぇぇぇっ!」
「レフィス、最高! ダメだ……お腹痛い」
腹を抱えて笑うライリを見る余裕もないレフィスが、慌てて自分のバッグを漁り始めた。
「どうしよう。クロエのパン……女王様に渡しちゃった? パン……パンどこ? クロエのパン」
そんなに大きくもないバッグの中にパンの入った袋があるはずもなく、探せど探せどレフィスの手が掴むものは見慣れた私物ばかりだ。それでも諦めきれずにバッグの底を探った指先が、覚えのない硬い感触を拾い上げた。
「……ぁ」
金色のバラ模様が施された小さな箱を取り出した瞬間、レフィスの背後でそれまで微動だにしなかった死体がかすかに動いた。
「ユリシス。これ、クロエが……」
言いかけたレフィスの声に隠れて、地を這う掠れた声がユリシスの耳に届く。気配をいち早く感じて顔を上げたユリシスの瞳と、いつの間にかこちらを凝視していた死体の窪んだ眼窩が近い距離で重なり合った。
「レフィスっ!」
怒号にも似た声で名を呼ばれ、レフィスの体が力任せに引き寄せられる。ほぼ同時にレフィスの立っていた場所に覆い被さるようにして、死体が両腕を広げながら倒れ込んできた。
「きゃっ!」
驚いて身を竦めた拍子に、レフィスの手から小箱が滑り落ちる。数回転がって止まった箱は落ちた衝撃で蓋が開き、中から上品な輝きを放つローズピンクの指輪が弾き出された。
「……ォォォ…………ォゥ」
覇気のない、小さな音を漏らしながら、死体が目の前に転がり落ちた指輪にゆぅっくりと顔を近付けた。小刻みに体を震わせ、眼窩の窪みに掬えるほどの近い距離まで顔を寄せながら、けれど決して指輪に触れようとはしない。
輝きを失わないローズピンクの宝石に、死体の涸れ果てた顔だけが歪んで映る。
「……ロエ。……ォォ、ゥエ……」
音しか漏らさなかった喉が、言葉を紡ぐ。
地面を擦りながら動かした腕で指輪を抱きしめるように囲い、ほんの少しだけ顔の距離を近付ける。
表情のない涸れ果てた顔が、愛しさに満ちた微笑を浮かべた気がした。
「……エ……。ク、ゥ……ロ……エ」
最後にそれだけを呟いて、「彼」は完全に動きを止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます