第89話 共同戦線
巨大な獣が地中で唸り声を上げているような、低く太い地響きがメルストゥリア樹海を不気味に振動させた。
ざわざわと激しく揺さぶられる樹木の影から鳥が飛び去り、岩陰に隠れていた小動物は地面を転がるように駆けていく。静謐に包まれていた樹海の空気は脈動し、鼓動音に似たさざめきに泉の水面が飛沫を上げて飛び散った。
その水面に、浮かぶ影がひとつ。
水底の澱のように汚れた色に乾涸らびた、男とも女とも判別の付かない死体。その体に埋め込まれていた赤い宝石は粉々に砕けてもなお、死体の胸元にへばり付いたまま妖しい煌めきを失うことはなかった。
色はないのに、辺りの空気が水面に浮く死体の方へ流れているのが目に見える。景色を歪曲させて流れる空気はさながら濁流に似た激しさで、泉の側にいたユリシスは体の重心を強い力で引っ張られ、たたらを踏んだかと思うとがくんとその場に膝を付いた。
「ちょっ……何やってんのさ! 平気っ?」
慌てたように駆け寄ったライリが腕を掴んで引き起こすと、ユリシスが一瞬固く目を瞑って頭を強く横に振った。
「石を破壊した瞬間、思った以上に持って行かれた。……すまない、大丈夫だ」
「初っ端で倒れられちゃ困るんだけど。さすがに僕ひとりでカタを付けるのは難しいからね……あれ」
視線を向けた先で、水面に浮く死体がゆらりと動く。力を吸収する空気の振動とは明らかに違う、目的を持って震える死体の腕がばしゃんっと水面を強く弾いた。
両腕を不自然な方向へ曲げたまま手のひらを水面につき、かくかくと小刻みに震えながら上体を起こし始めた死体にライリが嫌悪の滲んだ舌打ちをする。
ルナティルスの魔力を感知した石が矛先をリアファルから眼前の二人へ変え、その周囲の森の生命力ごと奪い取ろうと貪欲に鈍く煌めいた。
泉の周辺だけが激しい空気のうねりに飲み込まれていく。
ざわめく木々の嘆き。逃げ惑い飛び散る泉の飛沫。歪んだことで可視化した力の流れが物凄い勢いで砕けた石へと吸い込まれていく。
ユリシスが砕いた赤い宝石。
その粉々に砕けた石のかけらが、吸い取った生命力を糧として一部分を完全に修復した。
「来るぞ!」
ユリシスが身構えると同時に、泉に浮いていた死体が――ぐるんっと首を回して顔を上げた。
地鳴りに似た爆音がメルストゥリア樹海全域に響き渡った。
その中心である泉の水面に、乾涸らびた死体が意志を持って立ち上がる。ゆっくりと、しかし重く踏み出した一歩が水面を踏み抜いた瞬間――まるで巨大な岩が落下したのかと思うほど激しく泉の水が周囲に弾け飛んだ。
樹海の一部分にだけ降り注いだ豪雨は大地を削る勢いで、小さな飛沫の粒ですら太い木々の幹に鋭い爪痕を残していく。足下を穿つ水飛沫を完全に防ぐことが出来ず、結界の隙間から弾け飛んだ小さな粒にユリシスの頬が鮮血の尾を引いた。
水の刃と化した豪雨は一瞬で、木々の天蓋をなくした樹海に控えめな陽光が降り注ぐ。泉は水を全て吹き飛ばされ、その上に浮かんだままの死体が陽光を浴びて少しだけ笑ったような気がした。
「ライリ!」
「分かってるよ!」
ほぼ同時に、死体を上下から挟み込むように二つの魔法陣が形成された。
頭上に金。足下に黒で現れた魔法陣が、組み込まれた魔法文字をひとつ輝かせるたびに、死体へ向かって属性魔法が放たれる。
魔力を与える手段について皆目見当の付かないユリシスたちは、苦肉の策として死体に向けて攻撃魔法を仕掛けてみることにした。剣ではなく魔法での攻撃ならば吸収するのではないか。万が一攻撃が当たっても、元凶の石を破壊できるのならそれはそれで構わない。そう予め計画して放った二人の攻撃は、功を奏して死体の胸にへばり付いた宝石へと吸収されていった。
上下を魔法陣に挟まれ、止むことなく攻撃を受け続ける死体には傷一つついていない。それもそのはずで、魔法攻撃は死体に直撃する前に全て石へと吸い込まれていくのだ。その度に鈍く光る石は溶け合うように形を戻し、今では端の一部を残すだけとなっている。
その砕けた一欠片が熱を持ち、金の魔法陣から放たれた炎の竜を吸い込んだかと思うとどろりと溶けて、大部分を修復していた石に引き寄せられるようにして融合した。
『オ、オ……オォォォッ!』
声ともつかぬ音が木霊すると同時に、死体が一歩踏み出した。骨と皮だけしかない体から吹き出された瘴気は辛うじて人の姿を留め、不自然に歪んだ両腕を伸ばしながら魔力を求めてユリシスの方へ襲いかかる。
予想だにしなかった瘴気の影という援軍に、ユリシスが死体へ向けていた魔法陣を解除して標的を迫り来る影の群れへと転じた。
「ユリシス!」
後に続こうとしたライリを視線で制し、ユリシスが眼前に迫っていた第一陣の群れを風の刃で薙ぎ払う。細切れに舞った影は弾けるように霧散し、攻撃の魔力を絡め取りながら死体の中へと吸い込まれていく。
「お前は死体へ攻撃を続けてくれ。こいつらは俺にしか向かってこない」
「気をつけなよ!」
「お前こそ気を抜くな。持って行かれるぞ!」
ユリシスの言葉通り、次から次へと溢れ出る瘴気の影はたった一体もライリの方へは近付いてこない。純血の神魔の力を求めて群がる影に魔法を繰り出すユリシスを一瞥し、ライリは意識を瘴気の影から宙に浮く死体へと戻した。
その死体が、明らかに丸みを帯びていた。
石に溜め込めるだけの魔力は、とうに限界を迎えたのだろう。いっぱいになった魔力を更に蓄えようと、今度は死体をその器に選んだ石の貪欲さにライリが不快感をあらわにする。
「欲張りすぎだろ……」
長丁場ではこちらの体力が持たないだろうと判断し、ライリが己の内にある魔力の源へ意識を集中させた。ふわりと揺れた服の裾、その足下からライリを包むように魔力の風が舞い上がる。
ユリシスには劣るが、ライリの中に流れる魔族の血はその半分がユリシスと同じ神魔のものだ。意識を高め、限界まで引き上げたライリの魔力に反応して、ユリシスに群がっていた瘴気の影が一体ライリに向かって飛びかかった。
「ライリっ!」
ユリシスの声ではっと目を開いたライリの視界が、瘴気の黒い影に覆われる。かと思うと、その黒を突き破って瘴気の体に一直線の白い線が走った。矢尻を震わせて地面に突き刺さった一本の矢によって胴体部分を切り離され、瘴気の体が原型を保てずに崩れ落ちていく。
思わず振り返った森の奥から更に放たれた幾つもの矢は目標を的確に捕らえ、ユリシスとライリに当たることなく瘴気の影のみを攻撃する。降り注ぐ矢の雨が第一波の攻撃を終えると、森の中から見知ったエルフがひとり足早に二人の方へと駆けてきた。
「二人とも無事かっ?」
「ルディオ。それに今の矢は……」
「リリアーナ様の命により、我々エルフも参戦する。瘴気の影は我々に任せて、二人は石を破壊してくれ」
頷き合うことで互いの意志を確認する。ユリシスとライリは再び動く死体へと向き直り、森へ戻ったルディオは待機していたエルフたちへ攻撃の合図を出す。思わぬ増援に憤怒なのか歓喜なのか分からない雄叫びを上げた死体が、不完全に膨らんだその体からさっきとは比べものにならない程の瘴気を噴出させた。
「一気にカタを付けるぞ、ライリ!」
自身の魔力を強引に引き上げ、ユリシスが右手に抜いた剣を媒体にその刃へ魔力を一気に注ぎ込む。銀色の剣身が薄い水色の光を纏い、小さな氷の粒を含んだ冷気が白い帯を棚引かせて剣に絡みついていく。
ライリの黒い魔法陣が赤い色を滲ませて不気味に輝く。
襲いかかる瘴気の群れを、エルフの鋭い矢が射抜く。
氷刃を絡ませたユリシスの剣が、美しい水色の軌跡を描いて勢いよく振り下ろされた。
激しい爆風と舞い上がる粉塵に紛れて、壮年の男の姿が垣間見えた。
生前の姿を取り戻した時は一瞬で、完全に飽和状態となった赤い宝石が男の胸で悲鳴を上げる。
それはまるで石に操られた哀しい男の無念の叫びにも似ていた。
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