第88話 ユリシスの婚約者
ルヴァルドの話を聞き終えるとアランは一息つき、クロエの入れてくれた紅茶に口を付けた。少し冷めてはいるが、喉を潤す分にはちょうどいい温度だ。
改めて、テーブルに置かれたキュアノスを見る。
根元から掘り起こされ、なおかつ乾燥しないように全体をルヴァルドの魔法によって薄い膜で守られていると言うのに、瑠璃色の神秘の花は既に弱っているのが目に見えて明らかだ。ルナティルスの空気が合わないのか、もとよりリアファルでしか咲くことの出来ない花は、細長い茎を僅かに傾かせて頭を垂れ始めている。
事は急を要する。そう瞬時に判断し、アランがすっとソファから立ち上がった。
「話は分かった。今から作業に取りかかろう」
壊れ物を扱うようにキュアノスを手に取り、間近で花の状態を確認する。
「蜜を多く取るにはそれなりの数が必要になるね。……花ではなく、種として渡した方がいいか。時間があまりないんだよね? 一時間ほど待てるかな?」
「う、うん。お願いします!」
リアファルの状況が分からない今、レフィスたちにも確実な時間の猶予は分からない。けれど一時間というのは、アランが最速で花を作れる限界なのだろう。ならばそれを待つしか、レフィスたちには手がないのだ。
「昼食遅くなるけど、ごめんね」
クロエに感謝と謝罪の笑みを向けて、アランはキュアノスを持って作業部屋へと姿を消した。
居間に残されたクロエが僅かに戸惑うような視線をルヴァルドへ向けると、まるで返事でもするかのように「くぅ……」とレフィスの腹の虫が鳴いた。
「ふぁっ! ち、違うのっ、これはその……」
場の雰囲気を一瞬で変えてしまった小さな音にクロエが目を丸くし、イーヴィが憐れむように微笑を浮かべ、ルヴァルドがユリシスに似た表情を浮かべて肩を落とす。
必死に弁解しようと口を開けばそれより先に二度目の虫が元気に鳴き、レフィスが顔を真っ赤にさせたまま短く喘いだ。
「……本当に空気を変える天才ですね」
褒めているのか貶しているのか、ルヴァルドが感情の読めない顔で呟く。
「だって……仕方ないじゃない。朝からバタバタで何にも食べてないんだもの。ルヴァルドもイーヴィも、お腹空いてないの?」
「空いてるわよ。でも私は鳴る前に魔法で音を消してるもの」
「何それ、ずるい!」
二人のやりとりの合間に、可憐な笑い声が滑り込む。口元を隠して上品に笑うクロエの姿は、やっぱり高貴な身分である事を醸し出す雰囲気があった。
「あの、パンを焼いたので良かったらいかがですか?」
そう言ってキッチンに立ったクロエが、籠いっぱいに小振りのパンを入れて戻ってくる。こんがりといい色に焼けたパンから漂う香ばしい匂いが唾液腺を刺激してしまい、レフィスの目が子供のようにきらきらと輝きだした。
「これクロエが作ったの? 凄い! 上手! 美味しそう! 頂きます!」
矢継ぎ早に言葉を連ねて、レフィスが有り難くパンを頂戴する。「温かぁい」だとか、「柔らかぁい」だとか幸せに満ちた声が零れる度にクロエが笑い、ルヴァルドとイーヴィが物言いたげに溜息をついた。
「イーヴィも、ルヴァルドも食べてみて。ふわふわしてて美味しいの」
そんな微妙な空気も何のその。パンのおいしさを共有しようと、レフィスが隣に座るルヴァルドへパン籠をずいっと差し出した。その強引な仕草にどう対処していいのか迷う間にも、レフィスの無言の圧力がルヴァルドに向けられる。
「わ、分かりました。分かりましたから、少し落ち着いて下さい!」
根負けしたように籠からひとつパンを取ると、なぜか嬉しそうにレフィスが笑う。その笑顔に毒気を抜かれてしまい、なぜだか無性に疲れたルヴァルドが脱力感を覚えながら手元のパンを小さく囓った。
「……本当ですね。美味しく焼けています」
感慨深く呟いて、ルヴァルドが少しだけ口元を緩めた。
「私もパンが焼けるようになったのよ。昔に比べると随分上達したでしょう?」
「色々と苦労されたでしょうに……立派になられましたね」
「アランが良くしてくれたから私はもう大丈夫よ、ルヴァルド」
花が綻ぶように笑ったクロエに、ルヴァルドが小さく頭を下げる。
何となく割り込めない雰囲気を醸し出す二人の様子が気になりつつも、レフィスはとりあえず持っていたパンを食べることに集中した。
「私、少しアランに持って行ってきますね」
そう言って皿にパンを二つ乗せて、クロエがアランの作業部屋へと入っていく。扉が閉まるのを確認してから、待っていましたと言わんばかりにレフィスがルヴァルドの袖を引いた。
「ねぇ、ルヴァルド。クロエとは昔からの知り合いなの?」
「え? えぇ、まぁ……そうですね」
ルヴァルドにしては珍しく歯切れが悪い。逡巡するアッシュグレイの瞳を彷徨わせれば、全ての見通すかのようなイーヴィの落ち着いた視線とぶつかり合った。
「それくらいにしときなさいな、レフィス。無理して聞かなくてもいいことだってあるでしょう?」
「あ、もしかしてルヴァルドの初恋の相手とか?」
「いえ、私では……」
イーヴィの穏やかな牽制も効かず、なおも食い下がったレフィスの言葉に返事をしたのは、いつの間にか作業部屋から出てきていたクロエだった。
「私の父は前国王に仕える側近の一人でした。反乱の際に両親は亡くなり、行く当てのない私を引き取ってくれたのが、当時父に仕えていたアランのお父様です。それ以来、私を本当の家族のように育ててくれました」
当時を思い出すように語りながら、クロエが再びソファへと腰を落とした。
「クロエ様……」
心配げに声を落としたルヴァルドを一瞥し、儚い外見に少しだけ強めに浮かんだ瞳の光を正面のレフィスへと真っ直ぐに向けた。凜とした青い瞳に見つめられ、無意識にレフィスが姿勢を正して息を呑む。
「私はクロエ=シェレストール。――ユリシスの元、婚約者です」
どくんっと、レフィスの胸がひとつ大きな鼓動を鳴らした。かと思うと指先までが激しい脈を打つように、全身がどくどくと内側から煩く騒ぎ始める。
なぜだか分からないがクロエを直視出来ずに俯くと、きゅっと引き結んだ唇の端が鼓動に合わせて小刻みに震えていた。
「え……っと」
気持ちを落ち着かせるために深く息を吸い込むと、ちょっとだけ咽せてしまった。
「そう、だよね。うん……ユリシスの立場だったら、婚約者の一人や二人いてもおかしくないもんね、うん」
「二人もいたらおかしいでしょ」
イーヴィの突っ込みに反応の出来ないレフィスの代わりに、クロエがくすくすと声を漏らして可憐に笑う。
「驚かせてしまってごめんなさいね。だからどう、と言うことじゃないの」
声は柔らかく、その表情はどこまでも優しい色を浮かべている。戸惑うレフィスを見つめるクロエからは、敵意や嫉妬などと言う浅ましい感情は一切感じられない。
「あなたがユリシスの大切な人だって言う事も分かっています。だからこそ、変に隠しておく方が余計な心配を生むと思ったの。確かに私はユリシスの婚約者だったけれど、幼少期の……親同士の決めた約束に、今は何の未練もありません」
そう言って、金色のバラ模様が施された小さな箱をテーブルに置いた。細い指が蓋を開けると、中にはローズピンクの宝石が美しく輝く華奢な指輪が入っていた。
「これは婚約の証に頂いた物です。この綺麗な指輪が大好きで、指に嵌めて遊んではよく落として父に叱られていました」
当時を思い出すように、クロエの視線が僅かに揺らぐ。青い瞳に切ない影がよみがえったのは一瞬で、視線はすぐにレフィスへと戻された。
「あなたにお願いがあります。この指輪を、ユリシスに返して頂けませんか?」
「えっ? ……でも、それは」
「私にはもう必要のないものです。……それに」
言葉を切って照れたように頬を染め、クロエが自身の左手を差し出した。
生活感の滲み出た、少し荒れたクロエの手。それでも元の美しさを損なわないほっそりとしたその薬指に、名もない小花を模した金色の指輪が嵌めてあった。
「今は、アランのくれたこの指輪が何より大切ですから」
そう言って質素な指輪を大事そうに撫でるクロエが、春の花園に降り注ぐ陽光にも似た柔らかな微笑を浮かべる。温もりさえ感じられそうなほどの優しい微笑みは、幸せと言う感情を纏ってクロエをより一層美しく輝かせていた。
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