第85話 水底に眠る遺物
リリアーナの許可を貰い、レフィスたちは再びメルストゥリア樹海へ足を踏み入れていた。向かう先はフェイデルを見つけた、あの泉だ。
先導して歩くのはルディオで、その後ろに続くレフィスたちは言葉少なに彼の後を早足でついていく。
「ここだ。この倒木の側にフェイデルは倒れていた」
苔生した倒木。泉の周りを縁取って咲く黄色の花。飛び交う蝶の群れもあの日と同じで、見回してみても特に気になるような場所は見当たらなかった。
黄色の花や蝶に原因があるのかもと淡い期待をするも、森に詳しいルディオがそれらに何の反応も示さないので、レフィスは自分の予想が的外れだったことを知りがっくりと肩を落とした。
「倒れてた事もあんまり覚えてなかったみたいだし……この泉に来る前に何かあったのかしら」
しゃがみ込んで泉を覗き込むと、青黒い水底からこぽこぽと小さな気泡が湧き上がってくるのが見えた。澄んだ泉と湧き上がる水の音に、レフィスが喉の渇きを思い出してルディオを振り返る。
「ねぇ、ルディオ。この泉の水って飲める?」
「あぁ、問題ない」
「良かった。喉渇いてたの。皆、足が速いんだもの」
うっすらと滲み出ていた額の汗を拭って、レフィスが泉へと両手を沈めた。火照った体に、水のひんやりとした感触が心地いい。
両手で掬った水に口を付けようと身を屈めた所で、ふいに視界に影が落ちた。かと思うと次の瞬間には背後から腰に腕を回され、レフィスの体がくんっと真後ろへ引き戻される。
「きゃっ!」
ばしゃんっと掬った水が泉へ零れ落ちる。揺らめく水面に歪んで映るレフィスの背後に、真紅の人影が佇んでいた。
「ブラッド?」
「飲むな」
簡潔に告げ、ブラッドが鋭い視線を泉へ向けた。
「どうした?」
足早に近付いてきたユリシスの姿を確認した赤い瞳が、その後ろで驚愕の表情を浮かべているルディオを見て僅かに身構えた。腕に抱えたレフィスを守るように身を捩り、冷静に観察するような眼差しでじっとルディオの様子を窺い見る。
「だ、誰だ、その男は! どこから現れた!」
突然現れ出た真紅の男。その風貌にも驚きはしたものの、本能の奥で感じる強大な未知の力にルディオの体がかすかに震える。血に染まったような真紅の瞳に見つめられた瞬間、ほとんど無意識にルディオが背中の矢筒へと手を伸ばした。
「大丈夫よ。彼はブラッド。私たちの仲間だと思ってくれていいわ」
矢を求めた指先が柔らかい手のひらに包まれて、攻撃をやんわりと制止させられる。思わず顔を向けた先ではイーヴィが優しい微笑を浮かべたまま、人差し指を唇に当ててルディオに無言を促していた。
イーヴィの視線の合図を受け、軽く頷いたユリシスがブラッドに向き直る。
「ブラッド、彼は大丈夫だ。訳あって行動を共にしている。レフィスを放してくれ」
差し出されたユリシスの右手とルディオを交互に見やってから、少しの沈黙の後、ブラッドが腕の力を緩めてレフィスを解放した。
「お前、何をしたんだ?」
ブラッドから引き戻した手を離さないまま、ユリシスが僅かに口調を強めて問うと、レフィスが否定するように首を横に緩く振る。
「何にもしてないわ! 喉が渇いたから水を飲もうとしてただけだもの」
「水は飲むな」
「そう! そう言ってブラッドが急に……飲むなってどうして?」
困惑顔のレフィスと不審げなユリシスの視線を受けてもなお無表情のまま、ブラッドが再び泉へと視線を落として静かに呟いた。
「泉の底に、ルナティルスの遺物がある」
その国の名を聞いた瞬間、そこにいた誰もがはっと顔を見合わせて息を呑んだ。束の間の沈黙が流れる中、泉から湧き出る水の音だけが空気を震わせる。
「どういうことだ?」
「リュシオンの失われた魔法を基盤として作られたレプリカだ。他者から奪った生命力を自身のものとする為の魔法」
「リュシオンって……神族の?」
かつて大陸を支配していたと言われる神族。大地をも作り替えるほどの魔力を有した彼らが残した遺物は、その国の名を取ってリュシオン文明と呼ばれ今でも研究がされている。
少し前にレフィスたちが離ればなれになってしまった事件を引き起こした原因も、リュシオン文明のひとつ、フィスラ遺跡に封印されていた遺物だ。
ほとんど無意識に、レフィスが胸元へ手を当てる。その様子を横目で見ながら、ユリシスが握ったままのレフィスの右手にぎゅっと力を込めた。
「どうしてこんな所にあるの? ブラッドは何か知ってるの?」
「泉にお前が落ちた時、リュシオンとルナティルスの匂いを感じた。泉の水は遺物の魔力に侵されている。飲めば生命力を奪われる」
そこまで聞いて、ルディオがはっとしたように泉を睨み付けた。
「フェイデル様はこの泉の水を飲んで病に……?」
「その可能性は高い。ルディオ、もしかしてリアファルの水源もこの泉と同じか?」
ユリシスに問われ、ルディオが苦々しい表情で頷く。
「メルストゥリア樹海の地底には樹海を潤すだけの水脈が流れている。樹海のあらゆる箇所に似たような泉は湧き出ているし、リアファルの水源であるラプタの木も同じ水脈から水を吸って蓄えているはずだ」
「水が原因なら、リアファルのエルフは全員感染してなくちゃおかしいんじゃない? 泉に落ちたときレフィスも飲んだかも知れないし、昨日は僕らもリアファルで水分摂ったよね」
ライリのもっともな発言に、レフィスが顔を青くして唇に触れた。泉に落ちた時、激しく咳き込むほどの水を飲んだ記憶はないが、少量ならば口に含んだ可能性もある。それにライリが言ったように、リアファル滞在中には誰もが水分を口にしたはずだ。
温室で飲んだハーブティを思い出して顔を上げると、目の合ったユリシスが大丈夫だと言うように繋いだ手を強く握った。
「発症する者としない者がいるのか? ブラッド、遺物について他に分かることは何かあるか?」
「……お前が、それを望むなら」
ユリシスの問いに、ブラッドがレフィスを見据えて静かに言った。
ブラッドが力を使うには、契約関係にあるレフィスの言葉が必要だ。赤い瞳に見つめられ、無言で命令を促されたレフィスが意志を示すように強く頷いてみせる。
「お願い、ブラッド。遺物が何なのかを私たちに教えて」
レフィスの言葉を受け取って、ブラッドの周りに緩やかな空気の流れが発生した。ふわりと柔らかく揺れる赤い髪の向こうで同色の瞳を静かに閉じ、深く吸い込んだ空気を細い糸のようにゆっくりと吐き出していく。
音のない呪文を絡めた吐息の糸に触れ、泉の水面が漣のように震え出す。薄い金色の波紋は、それを見つめていたレフィスたちの脳にも直接緩やかな振動を与え、次第に朦朧としてきた意識を導くようにブラッドの低い声が頭の中にしっかりとした音で響いた。
「目を閉じろ」
ブラッドの声と共に、瞼が落ちる。光を失った黒い視界に、こぽり……こぽりと気泡が揺らめきながら上がっていくのが見えた。泉の底を見ているのだと理解した途端、暗い世界に白い小さな粒がぼうっと浮かび上がる。砂粒ほどの大きさしかないそれは暗い水底を漂う塵のようで、光に晒されれば水と同化してその形を捉えることは難しいだろうと容易に想像がつく。
青黒い水底の端で、光が弾けた。同時に水中を漂う白い粒が数を増す。
光の弾けた方へ目を向けると、朽ちた巨木の一部が水底に横たわっていた。太い幹にびっしりと白い綿毛のようなものが生えており、震えて弾けるとそこから先程の小さな粒が飛び出していく。
浮遊する白い粒に囲まれて、巨木の根元に赤い色が見えた。
両手に包み込める大きさのそれは赤い宝石で、時々呼応するように点滅している。暗い水底を赤く染める光に照らされて、巨木の根元が一瞬だけその全貌を浮かび上がらせた。
「きゃっ!」
思わず声を漏らし、レフィスが体を震わせて目を開けた。レフィスの悲鳴に意識下の映像を遮断され、魔法の途切れたユリシスたちが今見たものを確認し合うように目配せする。
「何、あれ。……皆も見た?」
「めちゃくちゃ干からびた死体なら見たよ。水の中にあるのに、どうやってあそこまでカラッカラになったのかが不思議で仕方ないけどね」
「死体の胸に宝石が埋め込まれていたな。……あれがルナティルスの遺物か」
「白い粒は綿毛に似た花の種子だと思うわ。おそらく水を介して体内に入り、発芽すると考えて間違いなさそうね」
「そうだ……罹患した者から咲く花は、確かにあの綿毛とよく似ていた」
各々が感じたことを口にすると、原因の全貌が見え始めた。
水中に浮遊する小さな種。種をばらまく白い花。花を付ける巨木の根元に同化した乾涸らびた死体。死体の胸に埋め込まれた赤い宝石。
原因はあの赤い宝石で間違いはないだろう。僅かな光明が見えた気がして、自然とレフィスが安堵の息を漏らした。
「それじゃあ、あの赤い宝石を壊せばフェイデルは治るの?」
「石を破壊しても奪われた生命力は戻らぬ。既に昏睡状態であるならば、目覚める確率は低いだろう」
緩みかけた頬を強張らせて硬直したレフィスの心情などお構いなしに、ブラッドは相変わらず何の感情も読み取れない表情で淡々と事実だけを告げていく。
さながら断頭台へ導かれるように、見えていたはずの光明がブラッドの言葉に合わせて萎んでいくのを感じたレフィスが小さく体を震わせて下唇を強く噛んだ。
「そもそもあれは生命力を奪う為だけに活動しているようなものだ。石に蓄える力が満杯になれば活動を停止し、石の魔力が枯渇すれば再び花を咲かせて獲物を狩る。貪欲に生命力を求めるがゆえに、ルナティルスでは失敗作となり破棄された」
魔法の名残揺らめく、水面の波紋。細い金色の漣を見つめていたブラッドが、その赤い瞳を瞼の奥にそっと隠した。
「死体となった宿主を操ってまで石は力を求め、生命力の豊かなこのメルストゥリア樹海へ引き寄せられたのだろう」
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