第11章 冥花の呪い

第81話 メルストゥリア樹海

 ラスレイア大陸の南西に広がるメルストゥリア樹海。大陸の大部分を占めるほどの広大な樹海の中に、エルフの国リアファルがある。

 樹海のどこに存在しているのかはっきりした場所は定かではなく、そこに至るまでの道も樹海の入り口に設置された移動魔法陣が最後だ。リアファルまで樹海を当てもなく徒歩で進まなければならないため、エルフ以外の種族の出入りは全くと言っていいほどない。

 もとより排他的な種族のエルフがそれに困ることはないのだが、今回のように『例外』もたまに起こるため、ごく稀に樹海で迷子になる者が現れる。


「どこ見ても同じにしか見えないんだけど……辿り着けそう?」


 どこか怯えた色を纏った声音が、深緑の濃い森に響くことなく吸収されていく。

 木々の天蓋から降り注ぐ陽光はごく僅かで、けれど樹海全体は自らが発光しているかのようにほのかな青緑色の灯りに満たされていた。

 樹木や地面に転がる岩をびっしりと覆う苔。そこに生える名も知らぬ小さな植物。岩陰からこちらを窺う気配を感じて目をやれば、何か小さな生き物が慌てて森の奥へと逃げていく。

 外界から隔離された場所。迷い込めば二度と外には出られない、深く静かなメルストゥリア樹海。押し潰されそうな威圧感を与えてくるものの、樹海を覆う空気は限りなく清らかで、立ち止まり深呼吸したイーヴィは体の奥から魔力が漲ってくるのを感じて僅かに体を震わせた。


「魔力の生まれ出る場所というのは、あながち間違いじゃないのかもしれないわね」


 見上げた先に、光の綿毛が不規則に揺れながら漂っている。そのひとつに手を伸ばしていたレフィスが、同意するようにイーヴィへと振り返った。


「やっぱりイーヴィもそう思う? 私もここに入ってから凄いの! 何かこう、魔力が底上げされてる感じ。今ならすっごい魔法使えそうな気がする」


「元がたいしたことないから、今でちょうど普通くらいなんじゃないの?」


「そんなことないもん。ちょっと待ってて、究極の治癒魔法かけてあげるから」


「実験台にするのやめてくれる?」


 眉間に皺を寄せて嫌な顔をしたライリの前では、既にレフィスが杖を掲げて呪文を唱え始めている。辺りに漂う光の綿毛が杖に付いた小さな水晶球に吸い寄せられ、それと同時にレフィスの髪がふわりと風に舞う。

 魔法を発動させようとしているレフィスにいつもの悪戯心が芽を出したのか、治癒魔法が完成する前にライリが自身のどす黒い魔力を一気に放出した。肌にびりびりと突き刺さる攻撃的な黒魔法の気配を全身に纏いながら、ライリが意地悪な笑みを浮かべたままレフィスへ一歩足を踏み出した瞬間。


「止まれ」


 先頭を歩いていたユリシスが、軽く右手を挙げて後方のレフィスたちへ注意を促した。それを合図にして、ライリのどす黒い魔法とレフィスの治癒魔法が未完成のまま消滅する。


 ユリシスが視線を向けた前方に、こぽこぽと水の湧き出る泉があった。小さな黄色い花が泉を縁取るように咲き、透明に近い羽根を持つ蝶が蜜を求めてひらひらと飛び交っている。

 泉の側に苔生した倒木。その影に隠れるようにして、エルフの少年が倒れていた。


 足早に駆け寄ったユリシスが少年の体を抱き起こし、レフィスたちは二人を囲んで心配そうに身を屈めて様子を窺った。


 年の頃は十歳前後だろうか。まだ幼さの残る顔立ちはエルフの種族を物語るように、瞼を閉じていても整っているのがわかるほどだ。白い頬には生気が感じられなかったが、体に目立った傷はなく、僅かに上下する胸から分かるように呼吸も安定しているようだった。

 とりあえず急を要することはないようだと判断し、ユリシスが腕に抱いた少年の体を少しだけ軽く揺すってみる。


「しっかりしろ」


 低く落ち着いたユリシスの声音に、エルフの少年が短く呻いた。長い睫を震わせた後、ゆっくりと開かれた青い瞳が微睡むようにレフィスたちを眺める。暫くぼんやりとしていた瞳が徐々に光を取り戻すと、数回力強く瞬きした少年が慌てたようにユリシスの腕の中から飛び出した。


「……っ!」


 驚きすぎて声を詰まらせた少年が、ユリシスから逃げるように後退する。その背中にどんっと鈍い衝撃が走ったかと思うと、視界がぐらりと傾いで少年の足が空を蹴った。

 何かにぶつかってバランスを崩したのだと理解するよりも先に背後から女の悲鳴が聞こえ、少年は現状を把握する間もなく泉の中へと転がり落ちてしまった。


「わあっ!」


「きゃあっ!」


 重なった二つの悲鳴が、派手に上がった水飛沫にかき消されていく。黄色い花に集まっていた蝶が一斉に飛び去った泉のほとりには、ユリシスとイーヴィ、そして肩を震わせて笑いを堪えるライリの三人が取り残されていた。





「ごめんなさいっ!」


 金色の髪の先からぽたぽたと雫を零しながら、ユリシスたちの前でエルフの少年が深々と頭を下げた。エルフではないユリシスたちの存在に怯えているのか、あるいは彼らの仲間を一人巻き込んで泉に落ちてしまったことを悔いているのか、少年の小さな体は見ているこちらが不安になるほどに震えている。


「あぁ、いや……気にする必要はない」


「そうだね。まさかエルフの国でこんなに面白い光景が見られるとは思わなかったよ」


 そう言って思い出し笑いを堪えたライリの姿に、少年の視線が一瞬釘付けになる。自分と同じエルフの存在を確認して、少年が無意識に纏っていた警戒心を少しだけ緩めた。その微妙な雰囲気にいち早く気付いたイーヴィが、柔らかな微笑を浮かべて少年に近付く。


「そのままだと風邪を引いてしまうわ。乾かしてあげたいんだけど、いいかしら?」


 イーヴィの色気は年齢を問わないのか、優しく微笑みを向けられた少年がぽっと頬を紅潮させて無言で頷いた。


「ほら、レフィスも一緒に乾かしてあげるから、並んで頂戴」


「はぁい……へくちっ」


 小さなくしゃみと共にレフィスが体を震わせると、隣に並んだエルフの少年が申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「あの……」


「あぁ、大丈夫だから気にしないで! むしろ支えてあげられなくてごめんね。えぇと……エルフ、くん?」


「何、その捻りのない名前」


 ぼそっと毒を吐くライリに「だって……」と呟きかけたレフィスの言葉は、次の瞬間体を包んだ温かい風の魔法によって巻き取られ、そのまま森の向こうへと流されていった。


「やっぱりイーヴィの魔法って凄いのね。あっという間に乾いちゃった」


 髪も服もすっかり乾いて、気持ちまで軽くなったレフィスが、隣の少年へと屈託のない笑顔を向ける。


「服を乾かしてくれたのが魔法の凄いイーヴィで、その横のエルフがライリ。ライリは見た目はあなたたちと同じ綺麗な顔してるけど、意地悪で毒舌ばっかりだから気をつけてね。黒髪の男の人はユリシス。滅多に笑わないけど怖くないから大丈夫よ」


「あ……はい」


「私はレフィス。よろしくね」


 笑顔を向けたまま軽く首を傾げたレフィスに、少年も釣られてお辞儀をする。

 僅かに残っていた警戒心を綺麗さっぱり取り払われ、少年が強張ったままの体から力を抜いてはにかむように笑った。


「……僕は、フェイデルです。あの、色々とお世話になりました」


「うん、フェイデルね! 体はどこも何ともない? そこで倒れてたんだけど……?」


「すみません。よく覚えてなくて……森の中を散歩してたはずなんだけど」


「そっかぁ。……あっ! ねぇ、フェイデルのお家ってもしかしなくてもリアファル?」


 唐突に聞かれ、フェイデルが一瞬面食らったようにレフィスを見た。


「は、はい」


「私たちもリアファルに用があって来たんだけど、良かったら一緒にリアファルまで行かない? ……実のところ、ちょっと迷っちゃってて」


 えへへと笑うレフィスと困惑顔のフェイデルを見ながら、ユリシスが呆れたように深い溜息を吐く。その隣では同じように何とも言えない表情を浮かべたライリが、ユリシスに視線を向けて軽く肩を竦めてみせた。


「予想を上回るコミュニケーション能力だね。ある意味羨ましいよ」


「あれだけ躊躇いもなくぐいぐい突っ込めるのはレフィスだけね」


「正直、俺もどうしていいかわからないんだが……」


 などと褒められているのか貶されているのか分からない評価をされていることなど露知らず、レフィスが満面の笑みを浮かべながら三人に大きく手を振った。


「フェイデルがリアファルまで連れて行ってくれるって!」



 

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