第79話 (偽)神託

 ガルヴェラムは深い森の中にいた。

 昼なのか夜なのか分からない曖昧な光が森を包んでいる。まるで周囲の木々が自ら淡く発光しているかのようだ。空気は肺に突き刺さるほどに澄んでいて、呼吸することでこの空気を汚してしまわないだろうかと考えてしまうほどだ。


 歩く度にふわりと舞う光の綿毛が、ガルヴェラムを誘うように森の奥へと流れていく。導かれるまま辿り着いた先で、白い鳥の獣人が石の祭壇の上に腰掛けていた。


 純白の羽に澄み切った空を思わせる風切り羽の青。長い尾羽は祭壇から零れ落ちる水のように広がっている。喉元の青い菱形の模様と額の琥珀色の角を目にした途端、ガルヴェラムは息すら忘れて目を見開いたまま硬直した。


「……リーフェルンっ」


 掠れた声に反応して、リーフェルンが瑠璃色の瞳を向けた。かと思うと、すっと右腕を上げてガルヴェラムの背後を指差した。惚けた表情のままガルヴェラムが振り返ると、そこには息子のルクスディルが花嫁衣装を纏った女と仲睦まじく寄り添い合っていた。

 顔面を覆うヴェールで顔は見えないが、腰で揺れる尻尾が狐の獣人だという事を物語っている。やっとルクスディルも結婚を決めてくれたかと、ガルヴェラムは肩の荷が下りた面持ちで寄り添う二人を見つめた。これで自分も安心して王位を譲ることが出来ると、そう安堵した瞬間。


 ――ぴきっ、と鈍い音がして、二人の姿に罅が入った。


 声を上げる間もなく砕け散った硝子の破片に、さっきまでそこにいたルクスディルと花嫁の姿がバラバラになって映し出されている。

 気付けば周りの森も生気を失って枯れ果てており、一瞬にして変化した状況にただ狼狽えるばかりのガルヴェラムが縋るようにリーフェルンへと振り返った。けれども祭壇の上にいたはずのリーフェルンはどこにもおらず、ガルヴェラムは乾いた音を立てて崩れていく森の中にたった一人取り残されてしまった。


「リーフェルン! リーフェルンっ、どこだ!」


 はらはらと枯れ葉の舞い落ちる空を見上げ、ガルヴェラムが年齢を感じさせない太い声を上げる。


「息子に何かあるのかっ? この森は……ウルズを示しているのか! リーフェルン!」


 獣の咆哮にも似た声が空気を揺らし、枯れた森の木々すら怯えるようにさざめいていく。

 息子のルクスディルの婚儀から一変した森の崩壊。そこから導き出される不吉な未来は、ガルヴェラムの胸をあっという間に不安の靄で埋め尽くしてしまう。それはやがて闇となり、森の奥からにじり寄るようにじわりと侵食し始めてくるようだった。


「リーフェルン! 頼む、応えてくれっ!」


 悲鳴にも近い懇願に重なり合って、どこからともなく澄んだ水面を震わせるような涼やかな声音が響き渡った。


「ルクスディルの婚儀は時期尚早だ」


 振り返った先に、リーフェルンが立っていた。

 足下に散らばったルクスディルと女の映った硝子の破片を見下ろしたまま、リーフェルンが静かにそこへ息を吹きかける。するとバラバラの破片がふわりと浮き上がり、それは淡い光に包まれたままゆっくりとひとつに纏まっていく。


 やがて人の背丈ほどにまで膨らんだ光の集合体をリーフェルンが指で軽く弾くと、細やかな光の粒子が辺り一面に弾け飛んだ。と同時に光に触れた箇所から、瞬く間に森がよみがえっていく。

 そしてリーフェルンの前には、頭を垂れて膝を付くルクスディルの姿があった。


「婚儀よりも王としての経験を積み、獣王としての質を高めよ。良き獣王には良き伴侶が、ひいては良き跡継ぎが生まれ、ウルズの繁栄は約束されよう」


 リーフェルンの言葉と共に、白い小さな花が森全体に降り注いだ。それはまるで祝福を絵にしたような美しい光景で、ガルヴェラムも先程の不安と焦燥をあっという間に忘れ去ってうっとりと見入ってしまう。


 美しい森に佇む伝説のリーフェルン。

 その足下に跪くルクスディルと、彼に下された神託を心にしっかりと刻み込んだ瞬間――ガルヴェラムの視界が暗転した。






 深夜のガルヴェラムの寝室に、ひそひそと動く影が五つ。薄暗い室内には香辛料のような不思議な香りが漂っている。

 深い緑を基調とした美しい模様の織られた絨毯の上には白い小さな花が散らばっており、その上にこの部屋の主ガルヴェラムが背後からユリシスに支えられるようにして座り込んでいた。呼吸の合間に混じる豪快な鼾は、彼が熟睡していることを示している。


「今のうちにベッドに戻すぞ。ライリ、足を持ってくれ」


「あぁ、俺がやろう」


 ライリの代わりにルクスディルが足を持ち、ガルヴェラムの後ろからユリシスが両脇に腕を差し込んで抱え上げる。仮にも獣王に対するぞんざいな扱いを見つめながら、ライリがふうっと深く息を吐いて前髪をくしゃりと掻き上げた。


「お疲れ様」


 かけられた声に振り返ると、部屋の隅から歩いてくるイーヴィが見えた。白い肩とデコルテを惜しげもなく晒した花嫁衣装はイーヴィにとても良く似合っていて、さすがのライリも一瞬惚けたように見入ってしまう。その隣には同じように、いやそれ以上に頬を染めてイーヴィを凝視するレフィスの姿があった。


「なかなか様になってたわよ」


「君もね。もう着ることもないだろうから、今のうちに十分堪能しといたら?」


 ライリの物言いにうふふと笑みを零すだけのイーヴィを見ながら、レフィスがまだうっとりとした表情のまま何度目か分からない溜息をついていた。

 横から後ろへ回り、少し離れた場所で正面から眺めたかと思うと、ぱたぱたと近寄ってドレスに施された繊細な刺繍を間近で堪能する。そしてまた、「ほぅ」っと吐息混じりの声を零すのだった。


「イーヴィ……ほんと、綺麗」


 心からの賞賛に、嫌な気のしないイーヴィの気持ちを汲み取って狐の尻尾が左右に揺れる。


「ありがとう。レフィスだってそのうち着ることになるでしょうから、今のうちに予行練習しとく?」


 そう言ってドレスの裾を摘まんだイーヴィに、レフィスが見て分かるほど嬉しそうに笑った。


「いいの? 着たい着たい! やっぱりウェディングドレスって女の子の夢よねー!」


「その前に、サイズ合わないんじゃないの?」


 盛り上がる雰囲気にさらりと水を差すライリの声音は、楽しげな韻を含んで意地悪に響いていった。

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