第72話 微睡みのライリ
VIP制の温泉の一番奥には、始まりの湯という温泉があった。ルベルク温泉郷の中でも一番古く、治癒や美肌は勿論、精神疾患や安産まで幅広く効果の期待できる神秘の温泉だ。
開けた森の中に鎮座する風呂……と言うか、外観は巨大な噴水のような形をしている。森の中には不釣り合いな大理石で出来た風呂釜の中央に一本の柱があり、その上から噴水のように湯が流れ出ているのである。始まりの湯といういかにも歴史を感じさせる名前に反して、その温泉はひどく近代的で、かつ趣味が悪い。
その温泉の柱の上に、ライリはいた。
膝を立てて腰掛けられるほど柱の上は広く、湯はライリの座っている場所から少し下の方から流れているため体も濡れない。足下から立ち上る温かい湯気と、頭上を流れる爽やかな風の相乗効果が心地良く、柱の上に座ったままライリは物憂げにぼんやりと空を眺めていた。
柱の縁に座って片足を下ろし、膝を立てたもう片方の足に頬杖を付いて佇むライリの姿は儚げで息を呑むほどに美しい。元々の美貌にリーフェルンの神秘性も加わって、止まる所を知らない美しさは空を飛ぶ鳥ですら思わず羽を休めて降りてくるほどだ。知らない間に集まってきた小鳥の群れを鬱陶しそうに振り払って、ライリが空を見上げたまま小さく息を吐いた。
「……お腹空いたな」
休憩所には飲み物とおつまみ程度の果物が置いてあったが、成人男性の空腹を満たすには量が足りない。ここに来るまでの間に露店で幾つか買い食いもしたが、そろそろちゃんとした食事がしたいと思いながら、ライリはなおも集まってくる小鳥を見ながらぽつりと呟いた。
「肉」
形の良い唇から零れ落ちた言葉に、集まっていた小鳥たちが一斉に空へ飛び立った。無意識に伸ばした手をすり抜けて逃げる小鳥に、ライリの舌打ちが後を追う。
「逃げたか。……まぁ、一羽じゃ小腹も満たせないか」
美しい姿で恐ろしい言葉を吐くライリは、リーフェルンの姿になっても健在だ。
「暇だ」
風呂は嫌いではないが、温泉に入る気はなかった。濡れた羽をどう乾かせばいいのかも分からないし、何より仲間とはいえ一緒に風呂に入る勇気がライリにはまだない。今は柱から流れ出る湯に足を付けるだけで十分だと、柱から下ろした足をぶらぶらさせて湯を蹴り始めた。
暫くそうしていたものの元よりたいして興味もない水遊びは早々に切り上げられ、ライリは膝を立てたもう片方の足を抱え込むように上半身を丸めて目を閉じた。
光を遮られた瞼の裏にユリシスの姿がぼんやりと浮かび上がる。
(ユリシス=ルーグヴィルド……か)
ルナティルスの王家の末裔。そのユリシスが生きていると言う事実は、三国家の同盟を目指したルウェインの王レオンによってウルズにもリアファルにも知れ渡っているはずだ。とは言え無関係を決め込みたい両国が自分から目立った動きをすることはないだろう。
祖国奪還のために動くのはユリシスだ。そしてラカルの石を手に入れたルナティルスも黙ってはいない。自分たちを取り巻くものがゆっくりと、しかし確実に大きく動き出していることを感じてライリが小さく息を吐いた。
(こういうの面倒くさくて正直嫌なんだけど……)
瞼の裏に浮かんだユリシスの隣に、屈託のない笑顔を浮かべたレフィスが現れる。その隣に立つ自分とイーヴィの姿を想像して、ライリが無意識に口角を上げて微笑んだ。
(でも、あの二人の造る国がどんなものになるのかは見てみたいな)
冷酷で残忍な恐ろしい国として知られたルナティルスが、ライリの頭の中で陽気な石女たちに埋め尽くされていく。
レフィスの姿をした石女たちは、ごとんごとんと石の体を重そうに動かしながら、街の至る所で笑ったり怒ったり泣いたり歌ったりしている。陰気なルナティルスが一瞬で煩いくらい賑やかで明るい雰囲気に変化していく様はライリの空想でしかなかったが、何だかそれはいずれ訪れる現実のようにも思えた。
空想のルナティルスの街角で、石の体のレフィスが緩やかに手を振りながら走ってくる。緩慢な動きの足が何もないところで躓き、傾いた体がなぜか急に巨大化したかと思うと、そのままライリを押し潰す勢いで倒れ込んできた。
「うわぁっ!」
突如響いた叫びに、ライリが弾かれたように目を開いた。一瞬叫んだのは自分かと思ったが、そうではない事は眼下でこちらを凝視している狼の獣人の驚愕した表情から理解できた。
柱の上のライリを食い入るように見つめる、美しいエメラルドグリーンの瞳。大柄な方ではないがしっかりと鍛えられた体躯は獣型の獣人の姿で、男は僅かに体を震わせながらライリの座る柱の方へじりじりと近寄って来た。
驚愕と感動の入り交じる興奮した視線を感じて、ライリが鬱陶しげな表情を浮かべて眉間に深すぎる皺を刻んだ。
「……リーフェルン。まさか……いや、本当に……?」
「何だよもう……。貸し切りじゃないじゃないか」
この場から離れようとしたライリの意図を感じ取って、背中の羽が無意識にふわりと左右に広がる。その様子を見た狼の獣人が更に興奮して、謎の雄叫びを上げながら温泉の中へと飛び込んできた。
「うおぉぉっ! 本物だ! リーフェルンだ! おおおおおっ!」
「うわっ、何? ちょっと怖いんだけど」
ばしゃばしゃと豪快に水飛沫を上げながら温泉の中央に立つ柱まで来た男が、勢いを殺さないまま湯の流れる柱を器用に登り始めた。
「絶滅してながふぅっ! リーヴェぶふっ」
柱から流れる湯を顔面に浴びても怯むことなく登ってくる男が、げふげふ言いながら血走った眼差しをライリに向かって一直線に投げかける。その恐ろしいまでの執念に気圧されて一瞬判断を鈍らせたライリの隙を突いて、男が柱から下ろされたライリの足先まで一気に距離を詰めた。
「リーフェルゥゥゥン」
「煩い」
げしっと音が聞こえそうなほど強く、ライリが顔を歪めたまま男の狼頭を躊躇いもなく踏みつけた。それでもなお男は柱の縁に手をかけて、頭を踏み付けにされたまま力任せによじ登ろうとする。純粋な力比べでは到底適わないライリの体が、ずるずると柱の上を滑って後退した。
「ふぬうぅぅっ!」
「こ……のっ、馬鹿力が!」
辺りの空気がライリを中心にして、ぶわりと弾け飛んだ。突風に煽られるように強い気の流れを肌に感じた男が、驚いたように目を見開いて動きを止める。その一瞬の好機を逃さなかったライリが、もう片方の足で男の顔面に蹴りを食らわせた。
「ぶへぅっ!」
潰れた呻き声と共に、男が柱から落下した。派手に上がった水飛沫を浴びながら、男はなぜか惚けたように自分を足蹴にしたライリを見上げている。ライリはライリで悪びれる様子もなく、不機嫌な表情を浮かべて蔑んだ眼差しを向けている。
二人の間を流れるどこか微妙にずれた空気を動かしたのは、遠くから響いてきた雄叫びにも似たレフィスの悲鳴の残響だった。
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