第71話 裸の付き合い
ルベルク温泉郷は森の中に湧き出る幾つもの源泉から成っている。森の中なので温泉は全て露天風呂だ。一応脱衣所と風呂は男女に分かれているものの、各々の温泉内は完全に区切られておらず、簡易な衝立のみが設置されている。
逆にVIP専用の温泉は風呂自体に仕切りが設けられており、男女で分かれているのは脱衣所のみだ。そもそも大勢で来るような場所でもないし、招待された者も互いが近しい間柄である事が多い為、このような作りになっているのだろう。
レフィスが入っている「超美肌の湯」と言う名の温泉も、一応白い石の壁で仕切られている……のだが、それは風呂の半分のみで、行こうと思えば壁の向こう側へ簡単に行く事が出来る。それに脱衣所から風呂までの簡易な仕切りはあるものの、露天風呂自体が完全に分かれていないので混浴と言えば混浴だ。
「ふわぁぁ。……気持ちいい」
一般的には躊躇われるであろう混浴の温泉に、レフィスは首まで浸かって幸せを噛み締めていた。少しとろりとした湯を掬って肩にかけてやると、肌がつるつると滑らかになっているのがわかる。その気持ちよさは、思わず鼻歌を歌い出すほどだ。
超美肌の湯は乳白色の湯の中に桃色の花びらを浮かべた、いかにも女子が好みそうな温泉だ。湯に浮かんだ花びらから香り立つ甘い匂いが、温泉内に柔らかく充満している。
温泉の名前からして男のユリシスやライリは絶対に入らないだろうと確信して、レフィスはこの温泉を選んだのだった。イーヴィは入ってくるかもしれないが、彼女に対して「異性」を感じる事はないから大丈夫だ。……と思った矢先、カラリと扉が開いてイーヴィが入ってきた。
「あら? レフィス、貴方ここにいたの?」
「やっぱりイーヴィはこっちね」
「なぁに? どういうこと?」
洗い場でイーヴィが湯を被ると、温泉内に停滞していた花の香りがぶわりと舞い上がる。流れる湯気の向こうで体を洗うイーヴィの姿は、女のレフィスから見ても艶めかしく煽情的である意味犯罪的だ。
白く滑らかな肌。
うなじから腰までの緩やかな曲線。
大きいのに形が全然崩れていない胸。
しなやかに伸びる脚。
その美しすぎる裸体を凝視するように見ていたレフィスが、はっと我に返って慌てて視線をイーヴィから逸らした。
「私はてっきり超癒しの湯に入ってると思ってたわ」
体を洗い終えたイーヴィが、レフィスより少し離れた場所に身を沈める。軽く息を吐いて湯を肩にかける仕草も色っぽい。
「あっちにはユリシスが入ってるかなぁって思って。こっちならユリシスもライリも入らなさそうじゃない?」
「そこに私が来たのね。落ち着けなくてごめんなさいね」
「イーヴィはいいの! 体もその……ちゃんと女の人だし、別に何の心配もしてないから大丈夫よ」
「それはありがたいけど……でもレフィス、私が本当は男だって言う事は忘れないでね」
声の調子を少し低くして、イーヴィがじっとレフィスを見つめた。その鳶色の瞳の奥に、普段のイーヴィからは感じることのない雄の気配を見た気がしてレフィスの胸がどくんと鳴る。
ばしゃんっと波を立てて反射的に距離を取ったレフィスを見て、イーヴィが普段の柔らかい笑みを浮かべて小さく頷いた。
「そうそう、それくらい警戒しないとユリシスがかわいそうよ」
「ユリシスはそう言うの……あんまり気にしない感じがするんだけど」
「何言ってるの。ユリシスも男なんだし、あんなことやこんなことのひとつふたつ考えるに決まってるでしょう。あんまり無防備すぎると、舞踏会の時の二の舞になるわよ」
反射的に首筋に手をやるとユリシスの甘い囁きまでよみがえってしまい、レフィスの顔が瞬く間に紅潮した。その様子を面白そうに見つめていたイーヴィだったが、やがてゆっくりと立ち上がるとそのまま温泉から上がっていく。
「もうあがるの?」
「そろろそ野獣が目を覚ましそうだし、それに嫉妬の的にはなりたくないもの」
温泉に浸かったままのレフィスを振り返り、イーヴィが意味ありげにウインクしてみせる。
「じゃあ、ごゆっくりね」
自分は男なのだと念を押したイーヴィは意味深な笑みを浮かべたまま、女の脱衣所へと消えていった。
「……嫉妬の的?」
イーヴィが出て行った脱衣所の扉を見つめながら、訳が分からないとレフィスは首を傾げる。
確かに女のレフィスから見てもイーヴィの体は魅力的だった。出るところは出て、締まるところは締まる。女性特有の柔らかい曲線に縁取られた体に無駄な脂肪はなく、きちんと鍛えられた筋肉が滑らかな肌の下でしなやかに動く。
ただ美しくて溜息が出る。そして純粋に羨ましい。この気持ちが嫉妬なのだろうかと考えて、やっぱりレフィスは首を傾げてしまう。嫉妬と言うよりは憧れや羨望に近い感情だ。
「何食べたらあんな体になるんだろ」
湯の中から上半身を出して、改めて自分の体を見下ろしてみる。見慣れた胸を両側から寄せて上げてみるものの、イーヴィには遠く及ばない。
「男の人もやっぱりイーヴィみたいな胸がいいのかな。私の……傷、あるし」
右の首筋から左胸まで斜めに入った傷跡は、今もレフィスの白い肌にくっきりとした茶色の線を残している。傷はすっかり癒えたものの、医者の言う通り傷跡は完全には消えないのだろう。
沈みかけた気持ちを温泉の花の香りで無理矢理浮上させて、レフィスが両胸に当てた手にぐっと力を込める。
「うん。大丈夫。冒険者としては、むしろ勲章ものだわ。斬られても立ち上がる不屈の女レフィス! その華奢な体に何度刃を突き立てられても、決して敵に屈することのない姿は、やがて冒険者たちに伝説の白魔道士として語り継がれるのであった!」
颯爽と右手を挙げて芝居がかった動作でくるりとターンを決める。ぱしゃんっと跳ねた湯が陽光にきらきらと光って、その向こうにいた観客の顔面をずぶ濡れにした。
「……」
「……」
「笑うところか?」
「ふぁがふっ!」
解読不能な悲鳴を上げたレフィスが、そのまま物凄い勢いで湯船の端から端へと移動した。勿論肩まで浸かった状態で。
「なんっ、で! いつからいたのっ? 見たのっ? やだ、やっぱり答えないで! 嫌だー!」
「お前は癒やしの湯に行くと思ってずらしたんだがな」
小さく息を吐いて、ユリシスが顔面から被った湯を丸い手で払いのける。ユリシスの姿が獣型の黒ウサギである事が、不幸中の幸いとでも言うべきか。これが普通の姿であったらならきっと立ち直れないだろうと、レフィスは鼻の下まで湯の中に沈みながら何とも言えない気持ちで黒ウサギのユリシスを見つめた。
ユリシスが動く。それに合わせてレフィスも後退する。縮まらない距離に、ユリシスが溜息をついた。
「何で逃げる」
「当たり前じゃない!」
「イーヴィは良くて俺が駄目な理由が思いつかないんだが?」
「イーヴィはお、女だもん。一応……体は」
「それなら俺はウサギだぞ。対して変わらないだろ」
何をどう言っても食い下がってくるユリシスは、明らかにいつもと様子が違った。からかっているのか怒っているのか、その黒いウサギの顔からユリシスの表情を読むのは難しい。
「何でそんなに突っかかるの。いつものユリシスなら……」
「俺が何でも平気だと思うな」
「え?」
急に声音が真面目な韻を孕んで耳に届く。顔を上げると少し離れた場所で、こちらをまっすぐに見つめる紫紺の瞳と重なり合った。
「お前がイーヴィと無防備に風呂に入るのを見て何の拷問かと思った」
イーヴィの言った「嫉妬の的」の本当の意味をレフィスはやっと理解した。普段無関心を決め込んでいるユリシスの素の感情を垣間見た気がして、レフィスの頬が無意識に緩んでしまう。
「ごめんなさい」
「あと……」
言葉を切って、レフィスが顔を上げるのを待ってから、ユリシスが艶のある声音で続きを口にした。
「裸のお前を見て抱きしめたいとも思った」
「ぶっ!」
落とされた言葉の爆弾に、レフィスが色気も何もない潰れた息を吹き出した。それにも構わず、ユリシスが呆れたような笑みを浮かべて、レフィスに向かって両腕を広げる。
「仕置きはこれで我慢してやる。来い」
「え……でも」
「ウサギの姿だから抵抗は少ないだろう?」
確かに言われてみればそうかもしれない。お互い裸とは言え、湯は濁って体を隠してくれているし、ユリシスの姿も今は可愛らしいウサギの獣人だ。恥ずかしくないと言えば嘘になるが、つまるところレフィスもユリシスに触れるのは嫌ではないのだ。
おずおずと自分から距離を詰めたところで、ユリシスの黒いウサギの手が腕を掴む。そのまま流れるように抱きしめられ、レフィスの胸が早鐘を打ち始めた。
「傷があっても、俺は気にしない」
ぽつりと呟かれた言葉に、レフィスが思わず顔を上げた。
その瞬間、ぼふんっと音がしたかと思うと、温泉の湯気とは違う煙の向こうに人の姿に戻ったユリシスがレフィスを間近で見下ろしていた。
数秒後、超美肌の湯からレフィスの凄まじい悲鳴がルベルク温泉郷全域に響き渡ったとか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます