第70話 幻のリーフェルン

「おや? エルバムス様の腕輪をお持ちでしたよね?」


 首を傾げて四人を見つめていたクピカだったが、数秒もしないうちに何かを思いついたのかぴょんっと飛び跳ねた。その拍子に口から零れ落ちた木の実のことは、もう見ないふりをしようとレフィスは思った。


「やや! そうでした! 今はギルドマスターとしてフレズヴェールの名を受け継いだと聞き及んでおります」


「フレズヴェールっ?」


「はい。皆様方にはこちらのお名前の方が馴染み深いでしょうか。エルバ……フレズヴェール様が他の方にこちらを紹介されるのは初めてでございます。皆様方はフレズヴェール様にとって良きご友人のようですね。どうぞこのルベルク温泉郷、心ゆくまでご堪能下さいませ。では」


 言いながらタオルやらブラシやら温泉に必要な道具を人数分揃え終えたクピカが、扉の前で一礼して部屋を後にした。そのあまりに流れるような動作に結局何も聞けないまま、レフィスの中に疑問だけが残る。


「……フレズヴェールって、何者なの?」


「さあ? そんなに気になるなら、直接本人に聞けばいいじゃないか」


「それもそっか」


「安定の単純さ」


 ぼそっと呟かれた毒舌に、レフィスが無言の抗議でライリのローブを引っ掴んだ。僅かに首が絞まって、短い呻き声と共に目深に被っていたフードがずり落ちる。その額には、人差し指ほどの長さの角が琥珀色の輝きを纏って生えていた。


「でも誰にもバレなくて良かったわね。貴方が獣人か証明しろって言われないか、内心ヒヤヒヤしたのよ」


 さして心配する風でもないイーヴィを胡散臭そうに見ながら、ライリが疲れたように長い息を吐いて纏っていたローブを脱ぎ捨てた。


「何が当たりだよ。面倒くさくて逆にハズレじゃないか」


 獣人に変身する魔法薬で当たりを引いたのはライリだった。

 琥珀色の角を持つ白い鳥の獣人に変身したライリを見たフレズヴェールは、感嘆にも似た溜息を零しながら僅かに驚いた口調でこう言ったのだ。


『ほう……まさか、リーフェルンとはな』


 リーフェルンとは、獣人の国でも絶滅したとされる伝説の鳥だ。

 純白の体に白い羽と、長く垂れる尾羽。風切り羽の部分は深い青色をしており、その色は長い尾羽の幾つかにも混じっていて青と白の対比が美しい。喉元には青い菱形の模様があり、琥珀色の短めの角を持つ鳥リーフェルン。

 なぜリーフェルンが伝説と呼ばれるのかは、ウルズの建国にまつわる話があるらしい。絶滅と伝説の相乗効果で、リーフェルン姿のライリがウルズでどうなるのか目に見えて分かったフレズヴェールが、姿を見られないように注意して行けと忠告をしたのだった。


「来るだけで何でこんなに気を遣わなくちゃいけないんだよ。疲れた。少し寝る」


 不貞腐れているだけなのか本当に疲れているのか、簡易ベッドに飛び込んだままライリは少しも動かない。投げ出した両手を覆うように生えた白い羽と、腰のあたりから生えた長い尾羽が、ライリの後ろ姿に覆い被さるようにしてベッドの上に広がった。


「他に誰か来くるかもしれないから、シーツくらいは被っておきなさいね」


 イーヴィの言うことを素直に聞いて体を隠すライリを見ながら、レフィスはまるで言いつけを守る子供のようだと思った。思っただけで、絶対に口にはしないが。


「レフィスも温泉に浸かってらっしゃい。この中で湯治が必要なのは貴方とユリシスなんだから」


「あれ? ユリシスは?」


「ユリシスならもう先に行ったわよ。私はもうちょっと休んでから行くわ」


「えぇ? 勿体ない! 私なんかここの温泉制覇するの楽しみで来たのに」


 そう言うが早いかクピカの用意した温泉セットを手に取ると、レフィスが早足で部屋から出て行った。「行ってきまーす」と響いた元気な声が、残された二人の耳に懐かしく心地良い余韻を残していく。暫くの間レフィスが出て行った扉を眺めていたイーヴィだったが、今度はその視線をベッドに横たわるライリへと向けて再び無言で見つめ直した。


「……何?」


「あら、起きてたの?」


「白々しい。レフィスを追い出してまで僕に言うことがあるんだろ」


「なぜそう思うの?」


 逆に問われて、シーツを被ったままの体が僅かに震える。流れる沈黙は長く、けれどイーヴィは一言も喋らずにライリが動くのを静かに待っていた。


「……少しは気が晴れるかと思ったんだ」


 ぽつりと呟いて、シーツの中から右手を出して握りしめる。痛みはもうなかったが、代わりにそれはライリの胸の奥に黒い靄となって燻り続けている。


「後悔してるの?」


「殴ったことに後悔はしてないよ。僕たちが感じた怒りや悲しみをユリシスは知るべきだ。……知って欲しいと、思う」


 殴るという慣れない物理的な攻撃の後、手の痛みよりも心の痛みの方がはるかに強く残るのだと言うことをライリは知ってしまった。

 頬を押さえながら「すまない」と呟いたユリシスの声が、未だ耳の奥に残っている。

 今回のことについてユリシスが深く反省していることも分かっている。けれどライリの思いを真摯に受け止めて謝罪したユリシスに、ライリはまだ壁のようなものが存在していることを何となく感じ取っていた。深い夜のような紫紺の瞳の奥に隠れるもの――それが自分たちに対する遠慮だと気付くのにそう時間はかからなかった。


「ルナティルスが動くとなれば、それは国同士のぶつかり合いになるでしょうからね。ユリシスがルナティルスを継ぐ者としてジルクヴァイン王家と連携していくのは仕方のない事よ。一国の主が守るべき民を危険には晒せない。そういう思いがあるんじゃないの?」


「そんなこと……」


 分かってるよ、と続く言葉を意図的に飲み込んだ。分かっているが、心の奥に言葉に出来ない思いが溜まったまま淀み始めている。


「ここに戻ってきたのなら、それは冒険者のユリシスだ。そして僕たちは……仲間だ」


 深閑の森の出来事以降、ライリは仲間に対して自分の思いを素直にぶつけるようになった。ライリの中に生まれた信頼という感情は愛情にも似ていて、イーヴィはその温かい変化をまるで親のように喜んだ。


「ふふ、そうね。国同士では難しくても、個人でなら動ける事もあるものね。ルナティルスに潜入したときのように、私たちにしか出来ない事もあるはずよ。そうユリシスに伝えてあげなさいな。幸いここは温泉だし、いい機会だからユリシスと裸の付き合いするのもいいかもしれないわね」


 部屋を出て行く気配を感じ取って体を起こすと、イーヴィが温泉セットを片手に扉を開けるところだった。


「そういうイーヴィは、誰と裸の付き合いするのさ」


「誰としようかしらね?」


 いつもの調子が戻ってきたライリに振り返ってそう言うと、イーヴィはその顔に艶めいた微笑を浮かべたまま部屋を後にした。

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