第63話 エリティアの魔法
「リーオン様! リーオン様、大変ですっ。侵入者が……」
部屋のノックもままならず、取り乱した様子で室内へ入ってきた側近の一人を冷たい目で見返して、リーオンは至って冷静に状況の確認を促した。城の中庭辺りで派手な爆発音が聞こえてから数分も経っていないと言うのに、リーオンは既に服も着替えていて、腰には愛用の細い剣すら差している。
「侵入者は二人。未だ何者かは特定できていませんが、その魔力は我々神魔族にも匹敵する強さで苦戦を強いられています」
「たった二人に苦戦? まったくどれだけ無能なんだ。今度魔族を作る時は、もっと魔力を強化しなくては……」
ぶつぶつと呟きながら部屋を出て、魔力が激しくぶつかり合っている中庭を見下ろせる場所まで来ると、リーオンは興味深そうに敵である二人の姿を瞳に捉えた。
一人は遠目でも女と分かる。朱金の髪をなびかせて戦う姿は美しくもあるが、その振るう力のかすかな異質さにある種の神聖さすら感じてしまう。もう一人は目深にフードを被っており、性別すら分からなかったが、その漆黒の闇に似た黒魔法にリーオンは親近感を覚えて見入ってしまっていた。
ルナティルスに近い、けれどそれとは違う力。どちらかと言うと女の振るう力の方が、よりルナティルスに近い匂いがした。黒魔法はルナティルスと言うよりは、リーオンの創り出す魔族のそれとよく似ている気がする。
思いがけない不思議な力を目の当たりにして、思わず二人の戦いに見入っていたリーオンが、不意に弾かれたように目を覚ました。
大事なのは侵入者の不思議な力ではない。侵入の目的が第一である。その理由を考えるまでもなく、リーオンは素早く踵を返すと、足早に地下牢へ続く一階の階段へと向かって行った。
きいっと音を立てて、鉄格子の扉が開かれた。目は潰されなかったが、視界は酷く悪く、ぼんやりと赤みがかった靄に覆われたようにはっきりとしない。見えるものすべてが幾重にも重なって映ってはいたが、辛うじて鉄格子の奥に佇む影が白い色を纏っている事だけは分かった。リーオンの着ていた服の色と同じだった。
またかと思い、顔を上げようとして無理だという事に気付く。思った以上に体力を消耗していたらしく、ユリシスは自分の意思で動かせる体の部位が瞼だけだと言う事を改めて知り、心の奥で自分自身に嘲笑した。
あれほど血を流せば当然かと思いながら、今度こそ本当に最期になるかもしれないと、らしくなく弱音を吐く。けれどもリーオンが言ったように、相手を操る魔法をかけられるよりは死ぬ方がましだとも思いながら、ユリシスはせっかく開いた瞼を再び重く閉ざした。
闇に包まれた視界の向こうに、屈託なく笑う少女の姿が浮かび上がる。幼い頃も大人になった今も、その無邪気な笑みに何度救われた事だろう。
「……」
名を呼んだつもりだった。けれど声すらまともに発する事が出来ず、それはユリシスの中に留まったまま静かに熱を持つ。
(……レフィス)
最後に見た顔は、涙に濡れていた。泣かせるつもりなどなかったが、共に連れていく事も出来なかった。せめてあの穏やかな村で、何者にも脅かされる事なく静かに暮らして欲しい。置いていくユリシスが出来る事は、記憶を消し去る以外に何もなかった。
(すまない……)
もう何度目になるか分からない謝罪を本人のいない所で繰り返し、ユリシスが意識を深い闇の底へ手放そうとした。
――これね、エリティアって言うんだけど、冬に咲くからとっても珍しいんだよ。
記憶の中で、幼い少女が笑っている。桃色の小さな花を握り締めた手を、ユリシスに向かって差し出している。
――エリティアはね、とってもいい匂いがするんだよ。ほら、嗅いでみて。
幻影に惑わされるがまま、ユリシスが消えそうだった呼吸を浅く繰り返した。血の臭いしかしなかった地下牢に、春の陽だまりに似た優しい香りが紛れ込んでいた。置いてきた思いをよみがえらせてしまうその匂いに、なぜか目頭がじんと熱くなったような気がした。
大人になり仲間を集め、レジスタンスと共に水面下で密かに行動していた頃に、ユリシスはふとエリティアを持ってアランの元を訪れた事があった。
なぜそうしたかは今でもよく分からない。けれど幾度となくルナティルスへ足を運ぶ度に、アランの店先で控えめに揺れるエリティアを見ると、いつも心が落ち着く感じがしていた。
アランの腕がいいのか、現物を見て作られたレプリカからは本物と違わぬ優しい香りがする。それは一人の少女を思い出させるもので、ユリシスは自分でも知らないうちに、エリティアに密かな安らぎを覚えるようになっていた。
一度は手放そうとした意識が、花の香りによって再び薄暗い地下牢へと引き戻される。幻でも見たのかと苦笑するよりも先に、今度ははっきりと瑞々しいエリティアの香りが鼻腔を掠めた。
鉛のように重くなった瞼を必死になって開けると、さっきは鉄格子の向こうにいた白い影が、今は自分のすぐ側にいる。聞こえづらかったが、かすかに鼻を啜る音もした。泣いているのか顔を無造作に拭いた白い影から、またふわりと懐かしい匂いがする。
白い影が、ゆっくりと顔を上げた。ぼやけて重なった視界の中で、忘れる事のなかった顔が間近に映る。
(……レフィス……?)
これも幻かと苦笑したユリシスの頬に、少し冷たい手のひらの感触がした。夢でも幻でもない確かな感触に驚くより早く、レフィスが壊れ物を扱うようにユリシスの傷だらけの体をふわりと優しく抱きしめた。
「良かった。……生きてたっ」
抱きしめられた瞬間に、エリティアの香りに包まれた気がした。香りを吸い込んだ肺から全身に魔力が巡るのを感じて、ユリシスは暫くの間その優しい力に身を委ね、静かに目を閉じてみた。
相変わらず自分を抱きしめる儚い力はそこに在り、これが幻ではない事を確信する。呼吸するのも随分と楽になり、瞼しか動かせなかったユリシスが、ゆっくりと瞳を開けて顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔に、微かな笑みを浮かべて自分を見つめるレフィスの姿がそこに在った。
「……レフィ……ス?」
もう一度名を呼ぶと、今度はしっかりと声が出て、その声を聞いたレフィスが嬉しそうに微笑んだ。
「待ってて。今、鎖を外すから」
そう言ってバッグから赤い硝子玉を取り出すと、ユリシスの腕を拘束している鎖の鍵の部分に注意深く当てた。途端にそれは湯気を出しながら発熱し、あっという間に分厚い鎖を溶かしてしまった。もう片方の腕の鎖も同じように溶かしきると同時に、支えを失ったユリシスの体がぐらりと前に傾いた。
支えようとしたレフィスの腕力がそれに敵うはずもなく、ユリシス共々冷たい床に倒れ込む。白い服が見る間に赤く染まっていくのを目にして、レフィスが抱きしめた腕にほんの少しだけ力を込めた。
腕の中で短く呼吸を繰り返すユリシスは、意識があったとしても非常に危険な状態には変わりない。一刻も早く治癒魔法を施してやりたいが、外ではイーヴィたちが交戦し、きっとここにももうすぐ敵がやってくるだろう。残された時間の中でレフィスが出来る魔法は、簡単な応急処置くらいだった。
「ユリシス。時間がないから、簡易の治癒魔法しか出来ないの。でも絶対に死なせたりしないから!」
そう言うとすぐにレフィスが呪文を唱え始める。言の葉に合わせて血まみれの床に魔法陣が浮かび上がり、そこから発せられた淡い光が小さな粉となってユリシスの体を包み込んでいく。やがてそれは細い一本の筋となり、レフィスとユリシスの胸元を光の帯で繋ぐと、役目を終えた魔法陣が霧散するように消えていった。
朦朧としていた意識を回復させたユリシスが、レフィスの腕の中でしっかりと目を開けた。体中傷だらけで、左肩から胸にかけては火傷を負ったように爛れてはいたが、治癒魔法のおかげで何とか自力で立ち上がれるほどまでに回復している。
簡易とは言えここまで回復させたレフィスの魔法に、ユリシスは正直驚きを隠せないでいた。これは簡易どころか、高等の治癒魔法に属するものではなかっただろうか。
「お前……この魔法……」
「まだ完全に習得してないの。効果はあまり期待できないから、多分ユリシスも一人じゃ歩けないと思うけど」
試してみると、言われたように一歩前に進むだけで体がぐらついて倒れそうになる。その不安定な体をレフィスが支えながら、少し足を速めるようにして牢の中から脱出した。
ユリシスが捕えられていたのは地下牢の一番奥で、城の一階に上がる為の階段はまだもう少し先にある。脱出経路が階段しかない地下牢で敵と鉢合わせするのは、何としても避けなければならない。
ユリシスを支えている為か僅かに息が上がってきたレフィスが、それを隠すようにわざと咳をしてごまかした。
ユリシスに施した魔法は、術者の命を対象者と繋ぐ高等の治癒魔法だった。それにより対象者ユリシスは命を繋ぎ止められ、反対に術者レフィスの体にはユリシスが負った傷の痛みが反映される。
ユリシスを救出に行く事が決まった時に、レフィスはこの魔法を出来る限りの範囲で覚え、未完成ながらも何とか形に出来るまでに習得してきた。とは言っても所詮は付け焼刃にしか過ぎない魔法はひどく脆く、レフィスの意識がしっかりしていないと二人を繋いでいる命の糸は簡単に切れてしまう。
未完成がゆえに脆く、未完成ゆえにレフィスに反映されるユリシスの痛みも半減されており、レフィスはこうしてユリシスを支えながら歩く事が出来ている。今はその未完成に少しだけ感謝して、レフィスは自身の足に強い力を込めて一歩、また一歩前へと進んでいった。
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