第64話 対峙する力
階段の下まで辿りついたレフィスを待っていたかのように、上からブラッドが現れた。何か言おうと口を開いたユリシスだったが、受けた傷は相当に深く、体はやっとの事で動いてはいるものの、意識は既に朦朧とし始めていた。
「急げ」
簡潔にそれだけを告げて、ブラッドが二人の体を軽々と抱えて階段を駆け上がった。見渡した限りではまだ敵の姿は見えなかったが、廊下の先や二階へ続く階段の向こうから慌しい足音が少しずつ近付いて来ているのが分かる。
来た時の道は使えないと判断して、ブラッドが片腕にレフィスとユリシスを難なく担ぎ上げ、そのまま一階の右奥を目指して走り出した。
「ブラッド! 私は走れるからユリシスを……」
「目的はユリシスの救出だ。どちらが欠けても、それは為し得ない」
ユリシスとレフィスを繋ぐ細い光の帯を一瞥し、それ以上言う事はないとブラッドが視線を前方へ戻した。
一目見ただけでレフィスが施した未完成の治癒魔法を感じ取り、それがいかに脆く命を繋いでいるかを悟ったブラッドが二人を抱えて脱出を図る事はこの事態において一番の最善策だ。レフィスが敵に捕まったり、集中力が途切れたりするだけで、魔法は簡単に解けてしまう。そうなれば深手を負ったユリシスは、まず助からないだろう。
レフィスの目的はユリシスの救出であり、それはブラッドの目的でもある。感情に左右されないブラッドは、ただ目的を遂行する為だけに動く。
「……貴方の力に頼りきりで、ごめんなさい」
「我はその為に在る」
「うん……ありがとう」
意味が分からないと少し眉根を寄せて腕の中のレフィスを見たブラッドだったが、次の瞬間何かを感じ取ったのか不自然に足を止め、鋭い視線を前方に続く廊下の奥へ向けた。腕に抱えていたレフィスとユリシスを放し、自身の後ろへ隠れるように促す。
「下がれ」
不穏な空気を感じ取ったレフィスがユリシスを支えたまま更に後方へ下がり、石柱を盾にするようにして身を潜めた。少しだけ顔を出して様子を伺い見ると、ブラッドが微動だにしないまま前方の薄闇を鋭い眼差しで睨み付けていた。
ねっとりとした風が肌を不快に撫でながら吹き抜けていったその瞬間、激しい衝突音が間近で響き渡った。瞬きをするほんの一瞬の出来事で、レフィスには何が起こったのか分からなかった。建物すら揺るがす衝撃波に思わず身を退いた石柱の影から、様子を伺おうと静かに少しだけ顔を覗かせる。
先程と変わらぬ位置にブラッドが立っていた。右腕を顔まで上げ、前に向けた手のひらを中心にして、ブラッドの前に赤い魔法陣が形成されている。その魔法陣に、異形の巨大な黒い手が覆い被さっていた。まるで魔法陣に食らいつくように太い爪を食い込ませ、力任せに破壊しようとしている。その強引な力に押し負けて、ブラッドの魔法陣が上の方からぱらぱらと硝子のように砕け散ろうとしていた。
廊下の向こうから静かに足音が近付き、その向こうの薄闇から金色の髪に青い瞳をした美しい男が姿を現した。その容姿と纏う白い服のせいで天使とも見紛う雰囲気を放つ男だったが、レフィスは彼がそんなに優しく清らかな存在ではない事を身をもって知っている。
「リーオン……っ」
無意識に浅くなった呼吸を必死に落ち着かせ、震えそうになる唇をきゅっときつく噛み締めた。
「不思議な事ばかり起こる夜だ。僕たちと似た力を振るう者と、魔族に近い力を振るう者」
詩を詠むように緩やかに流れる口調で言いながら、リーオンがその顔に薄い笑みを浮かべたままゆっくりとブラッドへ近付いてくる。上げた右腕に残る魔力の残留が淡い光の粒となって完全に消滅する前に、再びリーオンの右腕に黒い力が引き寄せられるかのように集結した。と同時に、ブラッドの赤い魔法陣が鈍い音を立てて縦に鋭く罅割れる。
「その中でも、最も理解できないのは君だ。僕たち神魔族に近い匂いはするが、まったく別物のようにも感じる。ただ君の秘めた魔力は恐ろしいほどに強大だ」
探るようにブラッドを見つめていたリーオンが、魔力の絡みついた腕を静かに振り下ろした。それと同時にブラッドの魔法陣が悲鳴を上げて砕け散り、魔力の残骸が赤い光の尾を引きながら闇に飲まれるように消滅した。
ぶわりと舞った空気に、ブラッドの赤い髪が巻き上げられる。その奥に光る赤い双眸はかすかな動揺すら見せず、ただ静かに目の前のリーオンを見つめていた。
「君は一体、何者なんだ?」
そう問いかけておきながら答えを待つ気などさらさらなく、リーオンが未だ魔力の絡みつく右腕を勢いよく真横へなぎ払った。リーオンの動きに合わせて床を削りながら移動した異形の巨大な腕が、その手のひらにブラッドを捕える事ができず大きく空振りし、そのまま力任せに壁へと激突した。
城全体を揺るがす轟音と共に壁に大きな穴が開き、レフィスが隠れていた石柱の上部もその衝撃に耐え切れずに鈍い音を立てながら深い罅を走らせた。天井からは瓦礫と化した城の一部が落下し、二階の床がいつ崩壊してもおかしくないくらい危険な状況が一瞬にして作られていた。
天井も、レフィスが隠れている石柱も、崩れ落ちるのは最早時間の問題だ。崩壊した瓦礫に潰されてしまうかもしれないと言うのに、リーオンの関心は目の前のブラッドにのみ注がれており、ただ純粋に対峙した力と力のぶつかり合いを楽しんでいる。ある種の、狂気に満ちた瞳だった。
「防ぐばかりじゃなく、攻撃してご覧よ。さあ、僕を楽しませてくれ」
異形の腕を消失させ、次に腰帯に差した剣を抜いたリーオンが、その刃に鋭く渦巻く風の魔法を纏わせた。それはたった一振りするだけで、柔らかな布を裂くように床をすっぱりと切り裂いて、遠く離れた後方の廊下の壁にまで傷跡を残した。刃の衝撃波を紙一重で避けたブラッドの頬に、赤く細い線がうっすらと滲み出る。
どんなに攻撃を仕掛けても防御に徹するブラッドに痺れを切らしたのか、それまで消える事のなかった笑みを顔から消したリーオンが、先程とは打って変わってひどく冷淡な眼差しでブラッドを一瞥した。
「……面白くない」
低く呟くように声を漏らして、ゆっくりと左手を前に上げる。その手のひらがブラッドの方を向いたと同時に、そこを中心にして一気に巨大な黒い魔法陣が形成された。空気も瓦礫も、漂う闇ですら魔法陣に引き寄せられ、瞬く間に魔法陣を形成する黒い線がばちばちと電気音を上げながら発光し始めた。
引き寄せられたものが黒い力の塊となって、魔法陣の前に渦を巻く。それを見た瞬間、今まで少しも表情を変えなかったブラッドが驚愕したように大きく瞳を見開いた。
「戦わないのなら、君に興味はない。消えろ」
魔法陣から黒い力が放出されるのと、ブラッドが石柱の影に隠れたレフィスたちを抱えあげたのは、ほとんど同時だった。
耳を劈く轟音と共に、城を中心として激しい突風にも似た魔力の衝撃波が辺り一面を大きく揺り動かした。それは中庭で交戦していたイーヴィや魔族たちの動きを止めるほどで、一瞬誰もが何が起こったのか分からずに呆然と周囲を見回している。
吹き荒ぶ魔力の衝撃も、それによって巻き上げられた瓦礫にも傷付けられる事なく、レフィスはユリシスと共にブラッドの腕の中で、彼の作る結界によって守られていた。
リーオンの魔法陣が発動するほんの数秒の差でブラッドに抱えられたレフィスは、そのまま爆風に巻き上げられながら城から上空へと移動していた。
さっきまで自分たちがいた場所は床を通り越して地面から深く抉り取られ、城の一角は見るも無残に吹き飛ばされている。崩れ落ちたはずの瓦礫すら、粉々に砕いて消滅させられている。支えを失った二階の床の一部分が階下へ崩落し、未だそこに残留していた破壊の魔力に触れるや否や風化するように塵と化した。
見下ろした先に、リーオンが立っている。上空へ避難したブラッドをただ黙って見上げていた青い瞳が、その腕に守られているものを目にしてはっと息を呑んだ。
「ユリシス……っ」
元よりユリシスを渡さない為に階下へ降りてきたリーオンだったが、思わぬ所で興味をそそられる対象と出会い、つい遊び心に火がついてしまった。本来の目的を一瞬でも忘れ、挙句目の前であっさりとユリシスを奪われてしまった己の愚かさに、リーオンがぎりっと強く唇を噛み締めた。
苛立たしげに舌打ちし、ユリシスを奪還しようと飛び上がりかけたリーオンの体が、見て分かるほど大きく震えて硬直した。
ブラッドに抱きかかえられたユリシスの体。その二つの体の間に挟まるようにして、もうひとつ小さな人影が見える。
「……あれは……」
無意識に言葉を零したリーオンの記憶が、ラカルの石を手に入れたフィスラ遺跡へと遡る。
朽ちかけた遺跡の中で、赤黒い魔法陣によって封印されていた小さな石。誰の目にも留まる事なく、遺跡と共に風化していくはずだったラカルの石を目覚めさせたのはリーオンだ。長い間封印され、単体だけでは空っぽで何の役にも立たない枯渇した石を、リーオンは生贄という形で目覚めさせた。無論、生贄はその場で死んだはずだ。
死体は確かめていない。けれど命と同等の血を捧げたのだ。生きているはずがない。
フィスラ遺跡で殺す者と殺される者だった二人の視線が、再びルナティルスの地で重なり合った。
怯えた小鳥のように小さく震えていたあの時とは違い、迷いのない強く真っ直ぐな意思を持ってリーオンを見つめている。若草色の瞳がかすかに揺らめき、きつく結んでいた唇が言葉を紡ごうと開きかけた瞬間、ブラッドが二人の姿をリーオンから隠すように身を翻した。
「脱出する」
ブラッドに遮られて視界からリーオンが消える間際、レフィスの耳に届くはずのない声が聞こえた気がした。それはまるで絡みつく呪いのようでもあり、面白い物を見つけた子供のような嬉々とした笑い声のようでもあった。
「――ブラッディ・ローズ。ああ、……そう言う事か」
ブラッドに連れられてその場から離れたレフィスが最後に見たのは、再び崩壊を始めた城の瓦礫に埋もれようとしながらも微動だにせず、ただじっとこちらを凝視したまま妖しげに笑うリーオンの姿だった。
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