第61話 血塗られた地下室

「準備はいいかい?」


 居間からもうひとつ奥の部屋に通されたレフィスたちは、アランに促されるまま部屋の中央に立たされた。薄暗い室内を照らすのは壁にかけられた二つのランプのみで、窓すらないこの部屋はまるで闇に紛れ人目を避けるように作られているような気がした。


「ここから城近くにある武器屋の小屋まで飛ばすよ。武器屋の店主も僕らと同じ仲間だから、何か必要なものがあれば彼から貰うといい」


「ありがたいけれど、私たち全員魔道士なのよ」


 ふふっと笑ってそう言ったイーヴィに、アランが見て分かるほど目を丸くした。


「えっ! それは……また随分偏った戦力だな」


「大丈夫、大丈夫。ちょっとの事じゃへこたれないわ。そこのライリなんて、さっきから溜まった鬱憤を発散させたくてうずうずしてるくらいだから」


「貴女も魔法を?」


 静かな声で問われ、レフィスがクロエを見て頷いた。魔力に長けたルナティルスの民である彼らは、自然と相手の魔力を感じ取る事が出来るのかもしれない。イーヴィやライリと比べるとはるかに弱いレフィスの魔力を心配しているのか、クロエの青い瞳が不安げに揺れていた。


「私は、その……白魔法だけ、です」


 今から危険な場所へ乗り込むと言うのに攻撃魔法すら使えない自分を恥じて、レフィスが申し訳なさそうにクロエから目を逸らした。そのレフィスの手が、クロエの柔らかい手のひらに包まれる。驚いて顔を上げたレフィスの瞳に、優しい微笑みを浮かべたクロエの姿が映った。


「回復役がいなければ、なお危険です。きっと捕われているユリシスも酷い怪我を負っているでしょう。貴女の白魔法で、彼の傷を癒してあげて下さい」


「……はいっ!」


 重なり合った手から勇気を貰ったような気がして、クロエの手を逆に強く握り締めたレフィスが力強く頷いた。


「レフィス、だったかな。君にこれを渡しておくよ」


 そう言ってアランが差し出したのは、エリティアの花だった。レプリカだと言うのに、受け取った瞬間ふわりと香るそれは本物とさほど変わらない。よく見ると桃色の花びらに白い魔法文字が淡く光を放っていた。


「これは?」


「花に少しだけ回復の魔法をかけておいた。ユリシスに会えたらそれを使うといい。馴染みのある香りなら、効果も倍増すると思うしね」


「ありがとう」


 大事そうにエリティアの花を握り締めて、レフィスは再度その花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。ユーリと名を呼び、彼の世話を焼いていたつもりだった幼い頃の記憶が脳裏をかすめ、思わず緩んだ涙腺を瞼を閉じる事で必死に押さえ込む。

 ユリシスに、早く会いたいと思った。


「武器屋から城へはすぐだ。最短経路は武器屋の店主が教えてくれる手筈になっている。ルナティルスを覆う結界と同じ物が城の周りにも張ってあるから僕たちは近付けないけど、侵入者を阻む目的で張られているんだ。消滅しないとは言え、触れれば君たちも何らかの攻撃を受ける事になるはずだ。何か対策はあるのかい?」


 問われて、レフィスがライリを見た。その視線をライリはイーヴィへと投げ、受け取ったイーヴィが暫く何かを考え込むように唇を尖らせて短く唸った。そして閃いたと言わんばかりに、にっこりと恐ろしいほどの作り笑いを浮かべる。


「今夜はちょっと騒がしくなると思うけど、ごめんなさいね」


 隠れて行く気などさらさらないと暗に言われたような気がして、アランが諦めたような、或いは呆れたような苦い笑みを浮かべて肩を竦めた。クロエでさえも思わず声を漏らして笑う。


「……さすが、ユリシスの仲間だよ」


「ふふ。でも皆さん、本当にお気をつけて」


「ユリシスを救出したら、そのままルナティルスからの脱出を図るわ。今までレジスタンスの存在を隠して来たから大丈夫だとは思うけど、貴方たちも十分気をつけてね」


「ありがとう。――それじゃあ、行くよ」


 言い終わると同時に、部屋の床いっぱいに青白い魔法陣が浮かび上がった。瞬く間に魔法陣の内側と外側を薄い光の膜で遮断され、目の前にいるはずのアランたちの姿が白い靄に包まれたように霞んで見えなくなる。

 呪文を紡ぐアランの声だけがはっきりと聞こえていたが、やがてそれも急速に遠のき、レフィスは魔法陣ごと深い地中へ落下していくような感覚に思わず体を震わせて両手をきつく握り締めた。

 その手に握られたエリティアが、花びらに刻まれた魔法文字を淡い光で滑らせる。


「……もうすぐ、行くから。絶対助けるから」


 己に立てる誓いのように、レフィスはそれを何度も心の中で繰り返し呟いていた。






 薄暗い石造りの地下室。湿った冷たい空気に濃く混ざる鉄の臭いは、決して狭くはない地下室に禍々しく充満していた。

 時折聞こえる水滴の音が、自分のすぐ近くで聞こえる。それが自身の体から流れる血の音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 蝋燭の明かりが揺れ、空気が流れる。地下牢に続く階段を下りてくる足音を耳にして、ユリシスが僅かに顔を上げた。片目は潰されて、既に視力を失っている。ぼやけた視界に、鉄格子越しに微笑むリーオンの姿が見えた気がした。


「ああ、王族ともあろう君が、何て痛々しい姿なんだ」


 きいっと音を立てて扉が開き、床も壁もユリシスの血に染まった牢の中へリーオンが足音を響かせて入ってきた。薄暗く血に濡れた地下牢の中で、天使にも似た美しい容姿を持つリーオンの姿は異質に見える。


 壁の鎖に繋がれたユリシスの体はひどく傷付き、己の力で立つ事も出来ないくらいに憔悴していた。そのまま床に倒れ込めれば楽なのだろうが、計算された長さの鎖のせいで、彼の体は膝をつく事も出来ずに中途半端な姿勢のまま壁にぶら下がった形となっている。随分と長い間その姿勢だったのか、ユリシスの腕は赤黒く変色を始めていた。


「もう声も出ないのかい? かわいそうに」


 言葉とは裏腹にその口調はひどく楽しげで、喉の奥でくっくっと笑みすら零しながら、リーオンが微動だにしないユリシスの頬に手を当てた。その頬を愛しげに撫でたかと思うとそこから淡い光の粉が舞い上がり、それは瞬く間に傷付いたユリシスの体を滑りながら覆っていく。

 どことなく神聖な光を放つそれはユリシスの潰された片目すら元に戻し、光が消える頃には完全に傷を癒されたユリシスの体だけが残っていた。


「大丈夫かい?」


 優しげに問われ、ユリシスがゆっくりと目を開けた。忌々しげにリーオンを睨み付けて、すっかり傷の癒えた体を自身の足で立ち上がらせる。


「そろそろ話したくなったかなと思ってさ」


「何度聞かれようと、答える気はない」


「君もなかなか強情だね」


 さして答えを期待していた訳でもなく、リーオンは笑みを絶やさないまま腰帯に差した剣を静かに抜いた。その細い切っ先をユリシスの胸元へ当てながら、少し演技じみた様子で肩を竦めてみせる。その拍子に切っ先が胸の薄皮をぷつんと破り、そこから新たに鮮血が零れ落ちた。


「僕だって本当はこんな事したくないんだよ。大体ここは薄暗いし血生臭いし、不衛生で大嫌いさ。物事はもっとスマートに運ばないとね」


 言いながら剣を滑らせ、リーオンは自分が癒したユリシスの体に、新たな傷を作っていく。時に深く抉り、ユリシスが低く呻くのを嬉しそうに見つめながら、胸や脇腹など皮膚の弱い箇所を選んで、玩具を壊すように傷付けていく。

 もう何度も拷問に近い責苦を負わされ、その度にリーオン自身の手によって傷を癒されてきたユリシスは、今度もまた始まる長い拷問にただ静かに心を殺して耐え忍ぶだけだった。


「やっぱりフィスラ遺跡であの女を殺したのは失敗だったかな。生かしておけば、今の君にとっていい弱味になったんだろうけど……まあ、ラカル石の復活の為には必要な犠牲でもあったしね」


「……」


 女の話題を出しても一向に無関心なユリシスに、さすがのリーオンも顔から笑みを消して冷たく蔑んだ瞳でユリシスを一瞥した。


「面白くないな」


 ぽつりと呟いたかと思うと、間を入れずユリシスの右膝上に剣を勢いよく突き刺した。腕力があるとは思えない細腕で突き刺された剣は、けれどその切っ先を後ろの壁に食い込ませるほど強く、ユリシスは短く声を殺しながら体のバランスを崩して前へ倒れこんだ。体を支えようと力を入れた左足にも同じように剣が突き立てられ、ユリシスは自身を支える術をなくして再度壁にぶら下がったままの状態となる。


「いい事を教えてあげようか。僕は今、リュシオン文明の魔法について勉強していてね。その中に、相手を意のままに操る呪文を見つけたんだ。解読が難しくて、思ったより理解しづらい呪文なんだけど……いつか君で試してあげるよ。ちょっと複雑だから、時間はかかるだろうけどね」


 血に濡れた剣の先でユリシスの顎を捕らえ、自分と視線が合うように彼の顔を無理やり上げさせる。その顔に自分の顔をすうっと寄せて、呪いを吐くように低い声でリーオンが囁いた。


「君が僕の手の中にある以上、僕は何としてもブラッディ・ローズを手に入れる」


「……ラカルの石で十分だろう」


 その言葉に些かむっと眉を顰めて、リーオンがユリシスの顎を支えていた剣を素早く真横になぎ払った。その切っ先が僅かに喉を裂いたのか、鮮やかな赤が壁にべしゃりと音を立てて飛び散った。その飛沫がリーオンの白い服にも降りかかり、まるで真紅の花を咲かせたかのように赤い模様が浮かび上がる。


「ブラッディ・ローズとラカルの石では比べ物にならない。第一、あれはブラッディ・ローズのなり損ないだ。思うだけで力を発するブラッディ・ローズに比べて、ラカルの石はそれだけでは何の役にも立たない。石を核とした、意思を持つ肉体が必要なんだよ」


「……ならお前が、なれば……いい」


 喉を薄く切られ、掠れた声で呟いたユリシスを嘲るように見下ろして、リーオンがふっと鼻で笑う。


「そんなの嫌に決まってるじゃないか。不確定要素の多い謎に満ちたラカルの石を、誰が好んで自分に取り込むのさ。それによって何が起こるかも分からないのに」


 リーオンがユリシスの肩に手を置いた。そこから急速に流れてくる魔力の波に、ユリシスが短い悲鳴を上げて身を捩る。リーオンが手を置いたそこから、ユリシスの皮膚が見る間に赤黒く爛れていく。濃い血臭と共に、肉の焦げる嫌な臭いが地下室に充満した。


「君と違って僕には使える駒が多い。僕に忠実で、決して僕を裏切らない人形を準備しているに決まってるじゃないか。ただ少し、適合に時間がかかってるみたいだけどね」


 その言葉に、ユリシスの記憶の中から藍色の髪をした女の姿が浮かび上がった。けれど名前を思い出すよりも先に、その姿は自身を襲う痛みによってすぐにかき消されていく。


 薄暗く、濃い血臭漂う地下室。

 無抵抗の玩具をただ残酷に弄ぶだけの時間が、また始まりを迎えた。

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