第33話 雪花の約束
しんしんと降り続く淡い粉雪が、青白い月光を反射して幻想的な景色を作り出していた。
早めの夕食を終えた後、レフィスは部屋へは戻らず、杖を片手にこっそりと宿を抜け出した。街から出る道の外れ、ルナティルスの森に近い空き地でレフィスは持ってきた魔術の本を開いた。少し色褪せたページに粉雪が舞い落ちて、消えていく。
『お前は、ここに残るか?』
まだ耳に残るユリシスの声が、胸に小さな痛みを宿す。
自分が彼らより非力だと言う事は分かっていた。今までもレフィスは主に回復に回り、攻撃魔法はほとんど役に立たなかった。
けれど明日足を踏み入れる場所は、あのルナティルスだ。十年前に反乱が起きた後、一切の国交を絶ち、闇に包まれてしまった災いの国。何が起こるか分からないし、今までとは段違いに強い魔物や魔族が襲ってくるだろう。状況が今までと違うのに、レフィスだけが今までと同じでいいはずがなかった。
少しでもいい。自分の身は自分で守れるように、強くならなくてはいけない。たった一晩で強くなれるとは思わなかったが、何かしなくてはいけないと焦燥していた。
足手まといにだけはなりたくなかった。
「すべてを焼き尽くす焔を纏う、気高き
レフィスの持つ杖の水晶が、呪文の詠唱を絡め取りながらゆっくりと光を放つ。その光が次第に赤く色を変え、水晶の中で炎が渦を巻くように揺らめいたかと思うと、それは一匹の龍の姿を模りながら勢いよく水晶から飛び出した。レフィスが喜びの表情を浮かべたのも束の間、召喚された炎の龍は空から舞い落ちる粉雪の一粒に触れると同時に、蒸発した音を上げながらあっけなく消滅する。
「嘘! やっと召喚できたと思ったのに……」
炎系の攻撃呪文の中で、中級に値する焔龍バルフィーアスの召喚魔法。この呪文を、レフィスは既に数十回は詠唱している。水晶が光る程度から始まり、その光が赤く色を変えるまでに一時間。そこから更に焔龍を呼び出すまでに、また一時間費やした。そこからは焔龍がある程度大きい姿のまま召喚できれば良かったのだが、その段階に行く前に、肝心の焔龍が粉雪一粒で消えてしまったのだ。これにはさすがのレフィスも気力を失い、糸の切れた人形のように雪の上に倒れこんでしまった。
「……やっぱり中級から始めたのが良くなかったのかな」
石のように重くなった右手を目線まで上げ、杖を握ったままで強張っていた指をゆっくりと動かす。僅かに響いた痛みに唇を噛むと、意識しないのに目頭がじんと熱くなった。
「だめ」
自分を叱咤するように呟いて、レフィスが体を反転させた。うつ伏せになったまま、溢れ出そうとする涙を、雪に顔をうずめる事で誤魔化そうとする。けれど一旦零れた涙はすぐには止まらず、レフィスは暫くの間そうやって自分の弱さを戒めながら、優しく残酷な雪に体を預けていた。
「凍死するつもりか?」
ふいに聞こえた声に、レフィスがぎくんと大きく震えた。うつ伏せのまま顔だけを上げた視界に、見慣れた人影が映る。
「……ユリシス」
真白の世界で、真逆の色を身に纏い、その存在を鮮明に刻み付けている。それは世界だけではなく、レフィスの中にも強くその跡を残していた。
雪を踏みしめる音が、痛い。レフィスは息をするのも辛く、逃げるように視線を逸らして俯いた。
「慣れない事はするな。お前の魔力は白魔法と相性がいい。中級の攻撃魔法を一晩で修得する事は無理だ」
「……分かってるわよ」
バルフィーアスを完全に召喚できない事くらい分かっていた。それでも足掻いていたかった。これからも皆と共にいる為に、少しでも役に立てるように何かしていないと不安だったのだ。
「分かってるなら立て。本当に死ぬつもりか」
「……何で、そんな事言うの。私、……私っ、置いていかれたくないのに……。役に立たないって分かって、……分かってるのに、でも……一緒に、行きたくてっ」
言葉を紡ぐ内に涙が堰を切って溢れ出し、冷たく凍えたレフィスの頬を熱い雫で濡らして行く。ゆっくりと体を起こしながら、それでもそこに座り込んだまま、レフィスは肩を大きく震わせて泣き続けた。
白い空間の中、降り続く雪の音はなく、ただレフィスの泣き声だけが響いていく。その声に重なるように、ざくりと雪を踏む音がした。近付く足音に、レフィスが怯える幼子のように体を小さく丸める。
「いや。……ユリシスなんて嫌いっ」
無我夢中で掴んだ雪を手当たり次第に投げつけながら、レフィスは座り込んだままじりじりと後退する。逃げようと力を入れた体は、すっかり凍えてレフィスの意図を汲み取れず、近付いてくる足音にさえ逆らう術を持たなかった。
「来ないで。……嫌いっ……嫌い」
精一杯の抵抗として雪を投げつけようとした右手が、強い力に掴まれる。かと思うとそのままの力で引き寄せられ、レフィスは強引にユリシスの腕に抱きしめられていた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに意識は覚醒し、再度足掻こうと力を入れた体が、更に強い力に絡め取られてしまった。
「……すまない」
凍えた耳朶を暖めるように、小さな呟きが吐息に混じって零れ落ちた。苦しいほど強く抱きしめられ、そこからユリシスの熱が一気にレフィスに流れ込む。
「お前を安全な場所に置いていた方がいいのは分かっている」
まるで自分自身に問うかのように、ユリシスがゆっくりと言葉を選んでいく。
「出来ればルナティルスには近付けたくない。……だが、俺の目の届く所にいて欲しいとも思う」
最後は掠れた声で呟き、ユリシスが抱きしめる腕に更に力を込めた。痛いくらいに抱きしめられながら、それでもレフィスはその痛みをどこかで心地良いと感じ始めていた。
「力はいらない。ただ俺の側にいろ」
「……ユリシス」
「俺から離れるな」
それは切実に許しを請うような願いだった。
ただ静かに舞う雪花の世界。触れてしまえば瞬時に消えてしまいそうなほどに儚く脆い願いは、けれど鮮明に色を刻んだユリシスの姿のように、レフィスの中にいつまでも強く残っていった。
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