花の名-5
翌日、ゲオルグは朝からの執務を休んで妻の病床を見舞った。穏やかな、明るい曇りの日だった。
「アーシュラ、気分はどう?」
「……今日はね、随分良いのよ」
「そう……何よりだ」
ゲオルグはぎこちなく微笑んで、彼女の熱い額に口づける。
「今日はねえ、とても良い報告があるの」
彼女はやつれた顔で笑う。
「報告?」
「分かったの」
「何が……」
「女の子よ」
そう、嬉しそうに断言した。
「えっ……聞いたの……!?」
出産についての意見が夫婦でまとまるまで、医者には性別を教えないようにと命じていたのに。慌てるゲオルグに、アーシュラは首をふる。
「違うの。先生は約束を破っていないわよ? でもね、会っちゃったの。夢で」
「ゆ、夢って……」
オカルティックな話を突然持ち出すアーシュラに、ゲオルグは脱力した。
「ふふふ、おかしいわね。でも、わたくし、何だか確信してしまったわ。だから、ねぇ、名前をつけてもいい?」
「な……」
「陛下!」
言葉を失うゲオルグの代わりに、エリンが声を上げる。
「……大公殿下が何を考えて今日まで出産に反対してこられたか、お分かりでしょう!? あなたは、どうしてそんな……自分勝手なことを……!」
怖い顔で詰め寄る従者を見つめて、アーシュラは病み付いてもなお色褪せない菫色の瞳を丸くして、黙りこむ。
「……エリン、怒っているのね」
そして、呆れたように微笑んだ。
「お前が怒るところなんて、初めて見たのではないかしら」
「茶化さないで下さい!」
「そんなことしていないわ」
アーシュラは骨の浮いた腕で二人の手をとって引っ張る。そして、最近すっかり目立つようになった腹の膨らみを触らせて言った。
「分かっていないのはお前たちよ。わたくしが、なぜこの子を産むと思う?」
「何故……って、それは、子供が欲しいからでしょ?」
「少し違うわね」
アーシュラは真面目に否定する。
「これが、わたくしが初めて得た、わたくしだけの使命だからよ」
「使命……?」
エリンにも、ゲオルグにも、彼女の言葉の意味はにわかには分からなかった。
「歌を歌うとか、絵を描くとか……それから、木や花を育てたり……山に登るとか? ……人にはきっと、どんなことがあっても、何を引き換えにしても、それをせずにはいられないような……そんな何かがあると思うの」
明るい部屋で、静かにアーシュラは続ける。
「ゲオルグ、あなたが前に、わたくしと結婚することを決めたのも、そうだったのかもしれない」
「それは……」
「そうじゃない?」
「……そうだね」
「ふふふ。嬉しい。誇らしくて涙が出そうよ」
笑った彼女の頬に、涙が一粒こぼれ落ちる。
「な、泣かないでよ……」
「――わたくしもね、ずっと探していたの。わたくしにしか出来ないことを。何を置いても成し遂げたいたった一つを。だけど、体が弱くて、得意なことなんてなかったし、夢だって見つからなかった。漠然とした――やりたいこととか、見たいものとか、世界には素晴らしいものが無限にあるような気がして、死ぬのは恐ろしいのに、ただ生きながらえることしか出来ないのも悔しかった。……あなたを好きになってからは、あなたと一緒になることが私の一番望むことなんだって、思った時もあったわ。だけど……そうじゃないの……そうじゃなかったの」
彼女は病みやつれ、疲れ果てていたけれど、とても、美しかった。
「……この子を産むことで、あなたと、それからエリン、お前にも。――置いてはいけない大切な人たちに、わたくしの居ない世界の幸せをあげられる。それが分かったから、もう、何も恐ろしいことなんて無いんだって思えたの」
遺言めいた悲しい言葉を、まるで幸せなことのように、彼女が言う。ゲオルグは言葉を失い、エリンは奥歯を噛んで身を乗り出す。
「馬鹿なことを……私に、あなたの居ない世界はあり得ないのに!」
「……そうだよアーシュラ。縁起でもないこと言わないでよ……」
「……別に何も死ぬなんて言っていないわ」
「言ってるようなものだよ……!」
涙ぐんで抗議する年下の夫に、アーシュラは曇りのない微笑みを向ける。
「ねぇ、ゲオルグ」
「……何」
「わたくしがさっき言ったの、女の子だって。当たり?」
「え……」
「知っているのでしょう?」
「それは……」
彼女は優しく、そして残酷だ。ゲオルグは確かに、胎児の性別を聞いていた。妻を裏切って我が子を手に掛けるせめてもの責任として、尋ねていたのだ。
彼はベッドに突っ伏したまま動けなかった。子供なんてまだ顔を見てもいない。彼女をこんなに弱らせて、生まれてきたとして愛せる自信だって無いのに。
「アーシュラ、お願いだよ……」
懇願の言葉には、しかし、諦めの色が滲んでいた。
分かってしまった気がしたのだ。
裏切ることは出来ないのだと。
エリンも、ゲオルグも、彼女の命より優先すべきものなんて無いと言い切れる。だけど――彼女が命を賭しても良いと、心から思えるものがあるのだとしたら。それは――それだけが。
世界で唯一、彼女の命より大切ななものなのだろう。
「…………」
だから裏切れない。
裏切ってはいけないのだ。
「……当たりだよ。女の子だ」
痛みを堪えるように微笑んだゲオルグを、アーシュラは優しく抱きしめた。
「ありがとう。やっぱりね、夢で会ったあの子が、わたくしたちの娘なんだわ」
「絶対、死なないでよ?」
「大丈夫、がんばるわ」
「……どんな子だった?」
「わたくしより可愛いわよ」
「それは嘘だな」
「ふふふ、名前はね……マーゴット」
アーシュラは、素朴な花の名を口にした。春になればどこの家の庭先にも咲く、ありふれた花だ。
「可愛いでしょう?」
自然の野原で、街路樹の根本で、家々の窓辺で、もちろん、アヴァロンの庭でも、春の訪れを歌うように、ささやかに、可憐に花開く。薔薇のように豪華な花ではないけれど、誰もが知っていて、誰もに愛される。
「――ああ、そうだね。マーゴット……素敵な名だ」
エウロの新しい光には、そんな、優しい花の名が与えられた。
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