分かれゆく道-8
「リゼット、僕はやっぱり、よくわからないな」
皇女が起きてこないせいで、予定より数時間はやく帰路につくことになったゲオルグが、のんびりと旧市街の坂道を下りながらつぶやいた。
「はぁ?」
徒歩で帰ることになった客の台詞に、同じく歩いて見送るリゼットが、素っ頓狂な声で冷たく返す。
アヴァロン城の周囲は『旧市街』と呼ばれる。伝統的町並みの保全地域とされており、自動車の使用が禁止されていた。
基本的に、移動には馬車を使うのであるが、ゲオルグの来訪は城の来賓として数えられてはいなかったので、今日のように、アヴァロンで客の送迎用に使われている馬車が出払っていることがたまにあるのだ。
「だから、殿下と、その剣のこと」
真面目で礼儀正しく、きちんとしたこの少女が、自分の前ではつっけんどんな態度をとることに、ゲオルグはすっかり慣れていた。だから、特に気にする様子も無く続ける。
「ああ……そのお話ですか」
何かお聞きになったのですか、と、少女はすました顔を装って尋ねた。
「ちょっとだけね……」
と、ゲオルグは曖昧な返事でお茶を濁しながら、晩秋の高い空を見上げる。
「そういえば、君もずっとお城で暮らしているようなものなんだよね」
「私、ですか?」
「うん。勉強もアヴァロン城でやってるって」
「あ……はい。皇帝陛下に格別のご配慮を頂いております」
「街の学校には通ったりしたことないの?」
「ありません」
「下の街に遊びに行くとかは?」
「お休みの日は勉強をさせて頂いておりますので、あまり……」
「そっかぁ。じゃあ、リゼットも殿下と同じで、お姫様みたいなものだね」
「は!?」
からかわれたと思ったのだろう、パッと赤くなって眉を吊り上げる気の強い少女に、ゲオルグは感慨深そうに続ける。
「世間知らずっぽいのに偉そうでさ、だけど、妙に特別な感じがする。殿下もだけど、君もとてもきれいだし」
「き……!?」
ゲオルグは当たり前のように言ったが、褒められ慣れていないリゼットは言葉を詰まらせ、思わず足を止めてしまう。
自分の言葉の一つ一つに、この年下らしいメイドの少女が翻弄されていることを分かっているらしいゲオルグは、少し面白そうな顔で振り返り、黄みを帯び始めた太陽のせいだけでない、赤みのさした彼女の顔を見て、悪戯っぽく笑った。
「そういうの、僕の勝手なイメージでは、お姫様かなあって」
ゲオルグの言葉の意味を図りかねたリゼットは、どうにか文句を言いかけた口をつぐむ。朗らかな少年は、無邪気に、けれどどことなく寂しいような口調で話を続けた。
「アヴァロン城は、そうだなぁ……ほら、絵本の世界みたいだからさ。君たちはみんな、僕からみれば夢の世界の住人って感じがするんだよ。だから、こうやって帰る時はさ、いつも、夢から醒めてしまうみたいな、残念な気がしてしまうんだ」
坂道を下る少年の背中の向こうには、傾いた太陽の光を眩しく反射するレマン湖が見える。
箱庭育ちの姫に従う、同じく外の世界を知らない少女は、その時、夕日を背に立つ、外の世界から来た少年の陽気な笑顔とスラリとした立ち姿を、目眩のするような気持ちで、ただ、見つめることしか出来なかった。
そしてたぶん、その頃から、リゼットの気持ちは、この都会生まれの明るい少年に、少しずつ傾いていたのだろう。
アーシュラが目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。外は夕焼けなのだろう、部屋がぼんやりと赤い光に包まれている。眠っていたつもりの無かったらしい皇女は、紫色の目を何度かまばたかせて天井を見つめ、それから、傍らに控えるエリンの方を見た。
「ゲオルグは?」
「お帰りになりました」
従者の言葉に、アーシュラはあからさまに落胆した様子で身を起こし、寝台から降りて窓の傍へ駆け寄る。
「いつ? まだその辺りに居ない?」
「……今頃城門を出られた頃かと」
「どうして起こしてくれなかったの?」
「よくお休みでしたので」
「ばか! 気が利かないわね!」
アーシュラは癇癪を起こすが、エリンは気にする風もない。
「カルサス様の相手ならば、リゼットが努めておりましたし、心配は無いでしょう」「無いでしょう、じゃ、ないわ! わたくしがお話したかったのに!」
「彼が遊びに来るたび、色々と無理をしてはしゃぐからですよ。体調を崩されては大変です」
エリンはたしなめるように言う。その忠告に思い当たる節があるらしく、アーシュラは急にしおらしくなってソファに座り、そのままぐったり沈み込むように横になった。
「だけど……近頃本当に調子が良いのよ。少々走っても息が上がらないし、頭もはっきりして身体が軽いの」
彼女の言葉は真実だった。確かにここしばらくの皇女は健康で、寝こむことが無い。エリンにすれば、だからこそ無理をして欲しくなかったのだけれど――アーシュラにとっては、健康でいられる時間は黄金よりも貴重なのだ。
「きっと、彼のおかげなんだわ……ゲオルグ・カルサス」
少女は紫の目にキラキラした光を湛えて、夢をみるように呟いたのだった。
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