夜の音 ~一夏の欠片~

希望ヶ丘 希鳳

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 鳴り響く目覚まし時計の音。カーテンの隙間から差し込む光が憂鬱な朝を告げていた。湿度の高い部屋のじっとりとした空気に嫌悪感を覚えながら、目覚まし時計を止め、寝汗で濡れたワイシャツを脱ぎ捨てる。


 八月の終わり、九月の訪れを感じさせぬほどに盛大な蝉達の合唱。今日はひどく暑くなりそうだ。窓を開けようと手を伸ばす。窓辺には蝉の死骸が転がっていた。一週間という短く、儚い生涯を終えたその姿は日差しの暑さとは裏腹に秋の訪れを告げていた。




      ◆




 大学生になって四年が過ぎた。今年は就活の年だ。高校生の頃から変わったことといえば一人暮らしを始めたことと、バイトを始めたことくらいか。心は何一つ成長していない。三年前のこの日から俺の時間は止まったままだ。無くしたものが大きすぎたのか、俺自身が弱すぎたのか、何一つ呑み込めないままただ時間だけが過ぎていくこの感覚は、蒸し暑い今日みたいに、不快極まりない。バイト先のコンビニまでは徒歩五分。その五分間が異様なほど長く感じた。


「あれ、マサトくん今日シフトだったけか?」


 バイト先の店長は俺を見るなり目を丸くして首を傾げた。四十代とは思えない若々しさの男店長はイケメンなのも相まって女性客から変に人気がある。無論、バイトの女の子からもだ。少し羨ましい。


「いいや、違いますよ。今日は買い物だけです」


「だよね、びっくりした。煙草はクールで良かったかな?」


「ええ、あとこれも」


 そう言って澪の瓶をレジに差し出した。二十歳になって初めて買った酒だった。


「珍しいね、君がお酒とは」


「ちょっと持っていくところがあるんスよ」


 会計を済ませて店を出る。コンビニの中は涼しくて、外の暑さが余計に際立った。うだるような暑さの中、蝉の鳴き声だけがやたらとやかましく響いていた。




     ◆




 三年前のこの日、俺は毎年恒例の花火大会を見に来ていた。当時俺には高校時代から付き合っている彼女がいた。名前はユミという、小柄で、努力家な優しい子で、いつも俺が甘えていたような気がする。ユミは本当に、いつだって優しかった。多分誰よりも俺のことを理解していて、多分きっと俺のことを本当に愛してくれていたように思う。ユミと過ごした高校生活は何もかもが眩しくて、発見に満ちていた。最後の瞬間まで、ユミは笑っていた。三年前のこの日、ユミは交通事故にあってこの世を去った。息を引き取る直前に「さよなら」と笑う顔が忘れられない。


 あの日から俺の時間は止まったまま、何一つ進むことはなく、ただ無気力に、眩しく、輝かしかったあの日々に思い馳せるのだ。そこになんの意味もないと知っていても、俺にはそうすることしかできなくなっていた。




      ◆




 ユミの眠る場所は、俺の家とは逆方向にある静かな墓地の片隅だ。持ってきておいた蝋燭を立て、線香を焚く。線香の枯れた香りが鼻腔をくすぐり、それと同時に季節外れの涼しい風が吹き抜けた。時刻は午後五時。もうじき日が暮れる。


「もう三年か。早いね。今日はユミとお酒を飲みに来たんだ、一口だけ付き合ってくれよ」


 俺はそう言って澪の蓋に一滴だけ注ぎ、墓の前に置いた。そのまま煽るように澪を一口飲みこんで日本酒特有の辛さと突き抜けていく炭酸に涙を零した。


「最近は何もないよ。面白いことも、楽しいことも、何もない。ユミだけが、俺の全てだった。別に、運転手を恨んではいないんだけどさ。ただどうしても、君のいないこの世界が認められなくてさ。どうしようもなく寂しいんだ。全然、成長できてないよ、恥ずかしいことにさ」


 あの事故の後、運転していた男性は、俺とユミの家族にあてて何度も謝罪の手紙を刑務所から寄越してきた。面会に行ったとき、目の前で何度も「申し訳ありませんでした」と泣きながら頭を下げてきた彼に面食らってしまったのを覚えている。俺とユミの家族は「もう謝らないでください」と「出所したら一度でいいから線香をあげてやってほしい」とお願いし、彼を許した。ユミならきっとそうすると、わかっていたから。


「今日はこの後花火を見に行くんだ、もちろん、一人だけどね。ここからも見えると思うから、ゆっくり楽しんでよ。それじゃあ、またね」


 立ち上がったと同時にもう一度風が吹き抜けた。ほんの少し肌寒い風。なんとなく目がかゆくて拭ってみると、ほんの少し濡れていた。




     ◆




 午後八時、バイト先の近くにある川辺で、毎年恒例の花火大会が始まった。出店がぎっしりと立ち並び、焼きそばやらたこ焼きやらの香ばしい香りが空腹感を刺激する。浴衣を着たカップルが楽しそうに空を見上げ、爆音とともに色とりどりに輝く空の花に歓声を上げる。夏の終わりを告げる鐘の音は、大輪と共に暗闇の空を照らし、儚く散っていく。




 ――綺麗だね。




 三年前のユミの言葉。空を見上げながら何気なく呟いたたった一言がいつまでも耳に残っている。花火を見上げる彼女の顔が何よりも綺麗で、幻想的で、世界中の何よりも美しくて。それを俺はこれからもずっと独り占めできるのだと心から信じていた。


 信じて疑わなかったその数時間後に彼女は死んだのだ。




  ――眩しく輝いていた彼女の十九年間は、花火のように、一瞬で儚く消えていった。




 最後の大輪が轟音と共に夜に散った。季節外れの涼しい風が吹き抜け、夏の終わりを告げた。それは一瞬で、やけに寂しく、夜の闇へと消えていった。俺の横に君は、いない。俺は一人、夜の帰路につく。街灯がやたらと美しく見えて、ふいにユミが好きだった歌を口ずさむ。寂しさと悲しみに溺れそうになる俺の視界が濡れたようにぼやけていく。花火帰りの雑踏に耳を傾け、胸の苦しさに喘ぎそうになる声を押し殺した。そして溺れぬように、遠く離れた君に届けと、君が好きだった歌を口ずさみ続けた。




      ◆




 部屋の片隅に古い手帳を見つけた。三年前に書くことを辞めた俺とユミの日記帳。ベッドの横にある小物入れに入れてあるのだが、今朝読み返していて放置していたことをすっかり忘れていた。


「あれ?」


 手に持って見て、うっすらと透けたカバーの裏表紙に違和感を感じた。普段は気が付かないところだが、なんとなく、文字が書かれているような気がする。カバーを外し、裏表紙には、あの事故の前日の日付でメッセージが残されていた。


 涙で文字が滲む。くずおれた俺は声を押し殺し、抱きしめるように手帳を抱いて泣いた。零れ落ちる涙が、あの日から立ち止まってしまった俺の背中を押しているような、そんな気がして、暖かかった。




      ◆




「まず最初に、いつもありがとう。私は今とても幸せです。貴方と過ごしてきた日々は毎日が眩しくて、発見に満ちていて、こんな幸せがあっていいのかと不安になるほどです。私の横で眠る貴方の横顔が愛しくて、割と隠れて写真撮ってました、ごめんね。


 付き合い始めて三年が過ぎて、いっぱい思い出ができて。巡っていく時の中で、見つけたもの、無くしたものも、すべての出来事がその日と同じように鮮明に私の中で輝いています。


 貴方に出会えて、本当に良かった。愛しています。大好きだよ。これからもずっとずっと、一緒にいてね。


 私は体が弱いから、きっと貴方より先に遠いところに行ってしまうと思います。それでも絶対にこれだけは忘れないで。


 私は、ずっと貴方の思い出の中にいるから。寂しかったら、思い出してほしい。もし私が、もっと早くにいなくなってしまったら、私よりいい人見つけてちゃんと幸せになること! 貴方の幸せを誰よりも祈っています」




      ◆




 鳴り響く目覚まし時計の音。カーテンの隙間から差し込む光が憂鬱な朝を告げていた。湿度の高い部屋のじっとりとした空気に嫌悪感を覚えながら、目覚まし時計を止め、寝汗で濡れたワイシャツを脱ぎ捨てる。


 八月は終わり九月が訪れ、秋の気配に不思議な高揚感を覚える。まだ暑い日差しの中、俺はゆっくりと歩き出した。止まってしまっていた俺の時間はゆっくりとだが、確実に、動き始めていた。














                                      fin...

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