恋は突然に

マイタン

終わり

 僕らが出会ったのは、コートを羽織るか迷うような時期で、日に日に寒さと忙し

さが増して、年はもう終わるのに何かの始まりは感じられない。そんな時だった。

 

 僕はまだ高校生で、タバコと酒がかっこよくて、大人になりたい夢見るサナギで、進む方向も定まってない立ち止まった貧相な棒のようなガキだった。

 

 彼女はもう高校生で、タバコと酒を毛嫌いしてて、大人に羽化したての汚れのない白い蝶で、行き尽く先を決めてしまって倒れてしまった老木のようなガキだった。

 

 試験勉強の名目で地元の図書館に行っていた。けれど、教科書なんて数分も見つめていられずに、スカスカのリュックサックに突っ込んで、本棚の列に迷い込む。漠然と試験でコケるという未来を予想していながら、現実から逃げ出すように文字列の波に酔い出す。読んでいたのは、もう忘れてしまった。手当り次第にとって数ページ読んで、また元に戻すを繰り返していたから。読むとも言い難いのかもしれない。ただ、文字を追いかけていただけの子犬。

 

 あるときに、本を取る手が白く細い知らない手と重なった。運命的。ベートヴェンが頭に流れ出す。合っているか?そんなことはどうだって良かった。ショパンだってバッハだって、佐村河内守だって、構いはしない。そんなことよりも壮大な音楽が流れ出して、物語が動き出すような感覚が僕にとっては音楽のテストで100点を取ることよりも大事だった。いまでもそう思う。人生に泥酔しているガキには示唆的。主人公属性。その本は覚えている。なんちゃらDAYS。補修のためか黄色い薄い紙で覆われていた。覚えてたと思ったけど薄れてしまってた。短編集だった気がする。その程度の記憶。調べればすぐに分かるだろうけれど、そういう肉付けはこの美しく愛おしいと思ってさえいる記憶をカビさせてしまうことに思える。すでに色あせてセピア色になって小学生ぶりに学習机の引き出しを開けたときの埃っぽさと同じ香りのする記憶であるとは言っても。

 

 すみません。彼女が言った。すいません。僕が言った。ほぼ同時に、笑えてしまう。手を背表紙から離し合う、話し合いもなしに。ひどく日本的。事なかれ主義。

 

 どうぞと僕は言った。どうもと彼女は言った。お好きなんですかと彼女は聞いた。本のことかと僕は確認した。彼女は周りを気にするかのように頷いた。今更じゃないかとも思った。この図書館に僕ら以外には司書の40代くらいのおばさんが居ただけだったような気がしたけれど、ルールに縛られていた君らしいといえばそうだったのかも。

 

 僕は現実よりはと気障な返答をしたような気がする。中学生がミルクと砂糖を使わずにブラックでコーヒーを飲むことを吹聴して回るような気恥ずかしささえ思う。しかし、君は肩を震わせて静かに笑った。僕はじゃあ君は、と尋ねた。

 彼女は静かに首を振った。僕は重ねて何故本を読むのかと聞いた。このとき、僕は彼女の返答が一字一句同じでは無いとしても、満点の回答が心のうちにあって

 

 それの答え合わせをしている心持ちになっていた。きっと彼女とのこの5センチにも満たないこの距離が、僕にテレパシーを可能としたのだと思う。そうじゃないなら10年と少しばかりでできた心の音叉が共鳴しあっているのだと思う。

 

 顔を伏せて君は逃げるためと小さな声で呟いた。僕は当たったと漏らした。無意識。彼女は不思議そうな顔をする。僕は、君の言いそうなことがわかっていたと教えた。運命かもしれないねとも付け加えていた。彼女はまた不思議そうな顔をして、そこから肩を震わせた。

 

 そこから君と僕は様々な話をした。同じ高校にじつは通っていたことと君は僕を見たことがあったということ、今まで逃げ込んだ数々の世界のこと。それは、主観的には途方もなく、客観視するとベビースターラーメンのような長さの生きた歳月において最上級に有意義な時間だった。共鳴しあう男女。当時は知らなかったけど性行為よりも気持ちよかった。毎日がこれなら薬物中毒になんてならないだろう。

 

 そうして、閉館の時間となり、僕たちは別れた。連絡先を交換しようとしたが、彼女は携帯電話を携帯しないタイプの人間だった。僕は、情報の荒波に乗りそこねるぞと非難したが、彼女は、情報の海で溺れたくないものと言った。彼女らしいと思う。たった数時間しか語り合わなかったけれど、自分はそういう人間だし、彼女もきっとそうだ。しかし、彼女は持っていたメモ用紙に、11の数字を書いた。2つのハイフンも添えて。電話番号。今どきこんなものを渡されるとは思いもしなかった。確かにこれなら携帯電話のメモリーという情報の海に埋没することは無いだろう。

 

 じゃあと僕は言う。それに、彼女はええと答えた。

 

 それ以来、僕らは会うことも話すこともなかった。そもそも、彼女の名前どころかクラスさえ知らない。それで出会えという方が無理な話だ。

 

 これは、磁石みたいなもので同じもの同士は反発し合って一つになることは無いというだけのこと。それが一時、地球のバグか異界だったからか、そのルールの範疇に縛られていなかったというだけのことだ。あの日がただ特別だったというだけのこと。

 

 あの時から、3年のときが過ぎて、僕は20歳になっていた。

 

 酒もタバコも現実となったが、未だに大人への道標は見つからない。

 

 時刻は、日付が変わったかどうかといったところ。

 

 アパートのベランダに出た。そこから見える街の風景は、高校時代に住んでいた街とは変わらずに黒く沈んでいた。ただ近くを流れる名前も知らぬ川のせせらぎが聞こえてくるだけ。

 

 リビングから持ってきたタバコに火を付ける。紫煙が立ち上って、咳き込みたくなる衝動を必死に堪える。そうすると血流が激しくなっていく、これはタバコのせいで締まった血管が開いていくだけだからマッチポンプなのだけど、気持ちがいい。頭がもやがかる。

 

 そうして、咥えタバコをしながら、スマートフォンのケースのポケットに突っ込まれた二つ折りのメモ書きを開く。そこに書かれた11字の数列。もはや、スマートフォンのダイヤルに何度それを打ち込んだかは分からなくなってしまって、その文字を打ち込む指の動きは無意識の内に刷り込まれてしまっている数列。何度か、発信ボタンを押したことがある。その時は、ただむなしく発信音が繰り返すのみで、電波が電気信号に変換されて、その先の鼓膜を震わせることはなかった。相も変わらず、携帯電話を携帯をしない派閥に属しているらしいことに安堵している。

 

 そのメモ書きを手で握りしめた。ぐしゃぐしゃになったそれを100円ライターで燃やした。白い灰が夜風に飛ばされて、夜闇に消えた。あれはガキの頃の僕の象徴だ。遺産と言ってもいいし、腐らせてしまった恋心と言ってもいいかもしれない。

 

 確かにあれは恋だった。

 

 他の女を抱いたときも彼女の声が頭のどこかに響いていたし、ただいまと呟いた独り暮らしの部屋に彼女が居たらと思ったこともあった。

 

 しかし、それは確かな実感は伴っていない。幻想を抱いて眠る毎日だった。

 

 そんなものは灰と煙と風に紛れて飛ばしてしまうのに限る。

 

 寒さが身に染みた。もう12月になってしまって、あと少しもすれば年が明けてしまって、またひとつ年だけを重ねる。

 

 体を震わせて、リビングに戻る。エアコンの効いた部屋に腰を下ろす。

 

 スマートフォンのロックを解除して、発信履歴を確認する。父親、母親に紛れて無記名の数列がぽつりぽつりとある。

 

 それの1つを気まぐれに押して、受話器のマークをタップした。数度、発信のベルがなる。それでも、あの声は聞こえては来ない。僕は通話を切って、スマートフォンをベッドに投げつけて、その勢いのままベッドに寝転がった。

 

 明日も早い。6時には起きていないといけない。そろそろ寝てしまわないと明日の朝に痛い目を見る。

 

 そこで歯を磨くのを忘れていたことに気付く。やらかした。眠気で怠い体を懸命に起こす。

 

 携帯が震える。手に取る。何度も見た11桁が移される。自らの目を疑う。この世のものだとは思っていなかった。どこか別世界の住人かあの世とこの世の境目に生きる妖精だと決めつけていた。

 

 胸が早鐘を打つ。僕は夢を見ているのではないか。もしくは、さっき開けたアルコールが遅れて効いてきたのか。でも、これが現し世だって常世でも構わなかった。彼女が存在する世界に僕も居られる。このことが僕の気持ちを昂ぶらせる。

 

 電話に出る。もしもしという言葉が電気信号となり、スピーカーを通して僕の耳を打つ。この声を僕はどこでも探していた。遅れて僕ももしもしと答える。その言葉すらうまく伝えられたか分からない。

「20歳になったのよ。来年には私は勤め人として社会にでるの。」そう彼女は言った。文脈もこれまでの空白の時間も無視した言葉。


「そうなんだ。君は昔から大人っぽいと思っていたけど、僕よりも先に大人になってしまうのだね。頑張って。」そう僕は言った。文脈もこれからの空白も汲み取った言葉。


「会えないかしら。」彼女らしくない言葉。自らの用事しか考えていない幼子のような言葉。


「それはきつい。僕にだって用事があって明日というか今日だけど朝が早いんだ。今眠ろうとしていたところだった。」僕らしい言葉。自分の用事しか考えていないガキの言葉。


「そう。残念。じゃあね。」そう言って彼女は通話を切った。僕は何も言えなかった。

 

 彼女の言葉が胸を駆け巡る。

 

 その内に眠ってしまった。起きると時刻は予定時間を大きくオーバーしてしまっていた。

 

 仕方ない。そのような日もある。どうせ今日じゃなくても出来ることだった。

 

 気分を上げるためにテレビをつけた。

 

 ニュースでは20歳の女性の入水自殺を報道している。物騒な世の中だ。パトカーのサイレンも聞こえてくる。


 これが僕の恋の終わりのサイレンだった。

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