Case 1ーcase closed 後編


 龍之介はそっと病室のスライドドアを開け、部屋の中に滑るように入った。

 部屋の中には、ベッドのリクライニングをやや起こした状態で、ひとりの少女が横になっている。

 窓の外を見ているようだ。

 薄い水色の空。

 真上へ伸びる飛行機雲が、ひとすじ。

 細く開けた窓から柔らかな春の風が吹き入れ、薄いピンク色のカーテンをふわりと動かした。

 静かに閉めたはずの、スライドドアのたてる音がやけに大きく響く。


 ゆっくり、と少女が龍之介の方を見た。

 そこには感情の消えてしまった、顔。


 龍之介は記憶の中にある写真と、目の前の少女の姿が、脳の中でかちりとおさまるのを感じる。特徴的な左の目元にある黒子も、何もかもが同じ。


 間違いなく、箱崎ひなだった。


 音を立てずに龍之介は近づくと、手にしていた縫いぐるみをそっと、お腹の上で力なく開いたままの、箱崎ひなの両手の中に置いた。

 龍之介の方を見てはいるものの、何も映していないぼんやりとした瞳が、永遠にも思う一瞬の間をおいて、細かく左右に揺れはじめる。

 両手もまた、震え始めた。

 くたびれて色あせた縫いぐるみの、片方だけの欠けたボタンの目が、両の手の間から問いかけるようにひなを見上げている。


 ひなちゃん どうしたの?

 ボクのこと わすれちゃったの?


  唇を戦慄わななかせ、まるで恐ろしいものを手にしたかのように、やがては身体ががくがくと動きだす。


 龍之介は慌てて、携帯電話を取り出す。

 ひなによく見えるように、もう一歩そばに寄ると、携帯に収められていた動画を再生した。


 『ひなちゃん。ひなちゃん? 

 ママです。……大丈夫、もう大丈夫。

 だからお願い。よく聞いて……。

 ひなは、間違った世界に落っこちちゃったの。ほら、覚えているでしょ? アリスのお話。うさぎの穴に落ちたアリス。

 ……ひなちゃんのうさぎが、助けに来たよ? ママは穴には入れないの。すぐそこに迎えに来ているから、ひなのうさぎと、このお兄ちゃんについて穴から出てきて? 

 大好きよ。ひな。

 ……待たせてごめんね。ママが助けに行けなくて、ごめんね? もう大丈夫。もう大丈夫だから……』


 携帯の向こうから呼びかける母親の声は、泣きだすのを必死になって堪えているためか、途中早口だったり、不明瞭だったりしたが、ひなには充分だった。

 ひなの目に盛り上がる涙で、きっと画面の中の母親の顔もよく見えないのだろうが、それでも充分だった。


 止まっていた、ひなの世界が、動きだす音が聞こえたような気がした。


「……ひなちゃん。帰ろうか」

 龍之介が言った。

 縫いぐるみを抱きしめた箱崎ひなは、微かに小さく、だかしかし力強く頷いた。

 



 『病室から出ることが出来たとして、どうやって病院から出るんでしょう? この場合も、普通に歩いて外に出ても大丈夫なんでしょうか?』

 『箱崎ひなの服装によるな。おそらく着ているのは病院の衣服だろう。その場合、箱崎ひなのことを知らなくても、外に出るのは見咎められるおそれがある。迷い込んだ時の服が病室にあれば、着替えさせろ』

 『……無いときには、どうしたら良いんでしょう』




 龍之介は病室のスライドドアを、ゆっくりと細目に開けた。


 チャンスは一度だけだ。


 すぐ背後にいる箱崎ひなを見る。

 子ども用の入院着を着て、おとなしく縫いぐるみを抱きしめていた。龍之介が心配していたように、服は無かったのだ。

 靴はある。

 裸足でないだけ、ましだ。

 龍之介はしっかりとは見えないナースステーションの方を窺い見た。

 ナースステーションの受付を正面とすると、ひなの病室は後ろ側にコの字型に並んでいる一角にある。すぐ脇に位置しているため死角になるとはいえ、すぐにでも看護師が駆けつけて来るには都合の良い場所である。

 こちらの動きに、気づいた気配はないようだった。

 よく見えないのは有難いが、こちらからもあまり様子を捉えられないのが難点である。

 ちらり、と鬼海の顔が見えた。

 龍之介に目配せをしているようだ。


 今だ。


 スライドドアを開けた瞬間、ナースステーションの方から、どたっという音とともに何か硬いものが床を滑る音が聞こえた。


 鬼海さん……転んだんだ……。

 それしかないよなあ。


 ちらりと申し訳なさが頭をよぎるも、龍之介は、振り返ることをせず早足でその場を去ることだけに専念した。




 『いいか、龍之介。箱崎ひなの手を引いて走ろうとか、歩こうとか考えるなよ』

 『どうしてですか? その方が早く外に出られるし、ひなちゃんも安心するんじゃないんですか?』

 『知らない男に、焦った様子で手を引かれてみろ。いくら助けに来たって言っても、疑惑が膨らんでいくだろうよ。どれだけ小道具を用意出来たとしても、所詮はお前らの言うところのだ。本当かな? 騙されてないかな? 少しでもそう思っている気持ちに、お前の焦りが不安を増長させるんだ。立ち止まられたり、叫ばれてみろ。そこで終わりだ』

 『……ということは……』

 『早足で歩け。尾いてこさせろ』




 鬼海は床に這いつくばった姿勢で、ナースステーションから飛び出してきた看護師を見上げていた。

 飛び出してきたのは二人。鬼海に駆け寄り、残りの看護師達も何事かといった様子で鬼海の方を覗き込んでいる。

「すみませんー。鞄に携帯を仕舞おうとしたらバランス崩しちゃって」

 あはは、と情けない笑いを浮かべてみせる。

「大丈夫ですか? 立てます?」

 鬼海の足と顔を交互に見ながら、心配そうに看護師は尋ねる。

「はい、大丈夫で……あーっ。松葉杖が……あっちまで滑ってくなんて。あははー……ぁあ。ついてないなぁ」

「とってきますね? 田中くん、患者さんの身体起こすの手伝ってあげて?」

 それまで側に立ち、ぼうっと鬼海を見ているだけだった『田中くん』と呼ばれた看護師は、我に返った様子で鬼海の近くにしゃがみ込むと鬼海の腕を肩に掛けた。

 「ありがとう。すみませんね? あっ!」

 鬼海は『田中くん』に向かってにっこりとした後、ふいに大きな声を出した。

「……どっどどど、どうしました?」

 耳元で大きな声を出された『田中くん』は驚き、自分が何かしてしまったのではないかと先輩看護師に助けを求める視線を投げた。

「どうしましたー? 大丈夫ですか? 痛いのかな?」

 にこやかに、ナースステーションからもう一人出て来た。

「……携帯が……」

 鬼海が情けない声を上げる。

「携帯が……どこかに飛んでいっちゃった」

 心底ついていない、と顔を上げてナースステーションを盗み見る。

 残る一人の看護師は、我関せずといった様子でちらりと視線を寄越しただけで手元の端末機に何やら記入中だ。

 

 これくらいしか、出来ませーん。


 三人と携帯電話を探しながら、鬼海は姿の見えない倉部達に謝った。




 『途中で待ち合わせをしよう』

 『エレベーターですか?』

 『そうだ。だが、場所が大事だ。なるべく人が居ないところが良い。この病院は、診察室のある古い建物と比較的新しい病棟とが、迷路のように複雑に絡み合って出来ていることが分かっただろ? 病院案内図を思い出せ。箱崎ひなの居る八階の病棟は、古い建物とは繋がっていないが、ひとつ下の七階奥に渡り廊下がある』


 


 階段を一つ降り、七階まで来た。

 箱崎ひなは、ちゃんと龍之介の後を尾いて来ている。

 頭の中の病院案内図を取り出して、方向を確認しながら歩く。

 やがて目の前に現れた渡り廊下の入り口は、まるで古い勝手口のようなアルミサッシのドアによって閉じらていた。


 まさか、嘘だろ。

 開かないなんてことはないはず。


 龍之介は、置いて行かれまいと小走りに少し遅れて尾いてくる箱崎ひなの姿をちらりと確認した後、思い切ってドアノブを回した。


 ……ガチャ。

 開いた。


 振り返り、箱崎ひなに頷く。

 ひなも龍之介に頷き返した。




 『古い建物の方は、検査病棟として使われていたよな? 七階は?』

 龍之介は、頭の中の病院案内図を眺める。

 『七階は、何の記載もありません。二つ階下したの五階から検査室になってます』

 『じゃあ、五階。検査室から離れろ。逆に向かって歩いて、いちばん離れたエレベーターで待ち合わせる』


 


 龍之介と箱崎ひなは、渡り廊下を誰かに見られることなく渡りきり、無事、階段で五階まで降りる。ひと気の無い古い建物をエレベーターに向かって歩き始めたとき、突然背後から声を掛けられた。


「どうしたの? 迷子かな?」


 振り返り見ると、白衣のポケットに両手を挟み、ぶらぶらと足を投げだすように歩く若い医師の声だった。

 落ち着け、と龍之介は自分に言い聞かせる。間に挟まれた箱崎ひなは、向かい合う医師から隠れるように、怯えた様子で龍之介の背後に回った。

「検査が終わって、寄り道して帰ろうと思ったんですが、道が分からなくなっちゃって……」

「ふーん……」

 若い医師は、龍之介とその背後に隠れる箱崎ひなをジロジロと眺め回した。


 龍之介の背中に嫌な汗が流れる。


「妹さん? 看護師さんは? 一緒じゃないの?」

「来る時は一緒だったんですが『お兄ちゃんと一緒なら大丈夫よね?』と言われて……」

 龍之介が困った顔で首を傾げると、医師はにやりと笑って言った。

「良いとこ見せようとしたんだ?」

「はぁ……そんなもんです」

 何かを理解したように、一人うんうんと頷くと龍之介と箱崎ひなをじっと観察しながら言った。

 「妹さんが入院してるなら、小児病棟かな?」

 龍之介の頭の中にある病院案内図に、小児病棟の位置が表示される。


 七階だ…マズイ。


「いえ、売店に用事があって……コンビニの入っているのってどこでしたっけ?」

 喋っている最中も、売店を探して頭の中の拡大した案内図をスクロールしていく。


 落ち着け、と自分に言い聞かせるものの心臓は早鐘を打つ。

 

 探せ、探せさがせ。

 ……あった。


 古い病院建物の一階の西側。

 このまま検査病棟のエレベーターで五階まで行き、廊下続きの旧入院棟(現在は用途不明。案内図には病室番号のみ記載)に渡り、そこから一階までエレベーターで降りる。表玄関のある方向とは反対に、病院の奥に向かって道なりにしばらく歩くと売店がある。


「うーん。コンビニの売店かぁ……ここからどうやって行くのがいいかなぁ。コーヒーチェーン店ならそれぞれ違うのが二つ、新しい病院建物にあるけど、それじゃ駄目なんだよね?」

「そうなんです……」

「じゃあ、病院の売店は? 地域に根差した売店ってのがウリで、美味しいお弁当とか売ってるよ?」


 考えろ、考えろかんがえろ。


「……すみません……あの……切手が欲しくて」

「あー。切手……そう言えば、あのコンビニ。郵便も受け付けてたか……! 了解です。だったらこの先のエレベーターで下まで降りて、ぐるーっと歩くのかな? ……ごめん……ね? ボクもまだこの病院来たばかりで、迷うんだよね。実は今も迷子になってたりして。あはは」


 軽い。

 知っている誰か、を彷彿とさせる。


「ありがとうございます」

 龍之介が軽く頭を下げて、箱崎ひなの背中をそっと押した。

 倉部のようにはいかない。

 これ以上、嘘をつき続けるのは無理だ。

 すぐにでも、ボロが出そうだった。


 バイバーイと、ひらひら手を振る若い医師を横目に、龍之介と箱崎ひなは待ち合わせのエレベーターへと急いだ。



 「遅い。何かあったか心配してたぞ」

 倉部の苦虫を噛み潰したような顔に、箱崎ひなは再び龍之介の背に隠れた。

 ……懐かれたな。

 それを見て不機嫌だった倉部が上々、と目だけで笑う。

 そのまま箱崎ひなの頭から爪先までを見ると、手にした袋を掲げてみせた。

「だろうと思って、急ぎ取ってきて貰った」

 そう言って見せたそれは、幼稚園に持って行くような絵柄のレッスンバッグだった。

 中に入っていたスウェットワンピースを無造作に取り出す。

「……ひな、分かるな? 家に帰るには病院の服を着ていては、外に出ることが出来ない。……ほら、上からそのまま着ちまえ」

 倉部から戸惑い気味にワンピースを受け取り、言われるままそれを頭から被った箱崎ひなは、龍之介の方を問いかけるように見た。

「この人は倉部さんって言って、家に帰る道を案内してくれるんだ。ひなちゃんのお母さんが、この人の所に助けてって言いに来たんだ。それで……」


「……これ、ひなの。ひなの服……バッグ……ママが作ったやつ」

 その声は震えて小さなものだったが、初めて箱崎ひなが喋った言葉だった。


「急ぐぞ」




 この事件は、箱崎ひなが無事、両親の元に帰ることが出来たことで幕を下ろす。

 

 もちろん病院の旧建物、西口玄関から三人揃って外に出たそれからのことは、龍之介も忘れられない。

 院内での出来事も、帰るための『入り口』までの道すがら、興奮気味に倉部に話したものだ。

 鬼海が転んで、注意を引き付けてくれたこと。若い医師に呼び止められて、嫌な汗をかいたこと。その医師は鬼海に似ていたこと。


 それよりも、何よりも忘れられないのは、『入り口』から出た先に箱崎ひなの両親が居たことだ。


 ひなは母親の姿を認めた瞬間、その腕の中に飛び込み、胸に顔を埋め、ひなの母親はただただ、しっかりと我が子を掻き抱いた。その二人の肩に背後から手を乗せる父親。

 長いながい抱擁の後、はにかんで俯いたひなが、スウェットワンピースの裾から病院の入院着のズボンが見えていたことに気づき、大きな声で笑った。


 その笑いは、その場にいた全員に伝染して、後からタイミングよく現れた鬼海を困惑させたこと。

 龍之介はこのことを、いつまでも忘れないだろうと思う。




 明くる日、昨日のことを思い出しながら事務所に出勤した龍之介は、ドアを開けた瞬間見慣れない顔を見て、慌てて口元を引き締めた。

 倉部がこちらに背を向けているため、鬼海が目配せで龍之介に近くに来いと合図する。


 龍之介が倉部の背後から近づくと、振り向きざまに紹介された。

「龍之介、こちら警視庁の柴崎さん。電話で話したことあったよな?」

 龍之介は頭を下げた。

「先日は、ありがとうございました」

 その人は、おう、と言って片手を挙げると龍之介を遠慮なく眺め回した。

「龍之介くん。おじさんのことさァ、覚えてたりする?」

 龍之介の頭の中のファイルに、今より若い柴崎の顔があったので、頷く。

 ガシガシと遠慮なく頭を撫でられ、龍之介は首を竦めた。

「デカくなったな」

 コーヒーの香りとともに熊谷ユキが現れたところで、柴崎は用件を唐突に切り出した。


「お前らのところの『ミイラ』、職質受けてな。ご協力を願ったところでらしい。さて、何か話すことは?」



 

 

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