熊谷ユキの場合 ⑤


 「ここですか?」

 龍之介が驚いたような声を上げる。


 倉部、鬼海、龍之介とユキの四人は、箱崎ひなが姿を消したコンビニエンスストアの駐車場に立っていた。

 

 見上げる空は、今にも降り出しそうな濃い灰色の雲が、ところどころ低く垂れ込めている。

 龍之介が言った『ここ』というのは、箱崎ひなの消えた歩道の、まさにその場所、ではなく、駐車場と歩道の境辺りまである白い網目状フェンスのポールと、コンビニに隣接するアパートのコンクリートブロック塀との隙間。およそ大人の拳ひとつ半といったところだろうか。


「ここが『入り口』なんですか?」

 龍之介は、ユキに向かって再び念を押すかのように尋ねた。


「そう。どうやらここが、いつもある『入り口』みたい」

 ユキは幾分、あっけないほどあっさりと頷いた。無関心を装っても、その隙間からは目が離せない。


「なぁ。ユキには『そこ』がどう見えるか、龍之介に説明してやったらどうだ?」

 倉部が痒くもなさそうな頬をぽりぽりと掻きながら、顎で『入り口』を示す。


 ユキは恐ろしさから口の中が干上がり、その上口調が平坦になるのが自分でも分かったがどうしようもなかった。

「……上手く説明できないのだけど、心霊写真を見ているみたいな感じなの。最初は気づかないの。……あれっ? って。それでよく見てみたら、写るはずのないものが写ってる。その隙間から細く白い指先が、おいでおいでって呼んでるの」

 

「……指……?」


 慌ててユキは、両手と首を同時に左右に振って否定する。


「やっ、指はないよ? 指は見えないです。見えないのだけど呼ばれているのは、分かるの……なんて言ったらいいのかな……?」


 ぞくっとして思わず身震いをしてしまう。


 中を覗きたくないのに、覗かなくてはいけない気持ちになる。

 抗いたいのに、掬い取られてしまいたい。

 暗闇が呼んでいる。


 ユキを、誘っていた。


 知らず知らず視線はその隙間の暗闇に絡めとられ、引き寄せられてしまう。

 

 ……もう少し近づいてみる?

 手を隙間に入れてみたらどうなるかな?


「じゃあなんで、ひなちゃんは水溜りに落ちたんですか?」


 龍之介の言葉に、はっと我に返った。


「……滲むの。雨の日は時々『入り口』が滲むのよ、多分。としか言えないんだけれど」

 無理矢理隙間から視線を剥がしたユキは、今立っている場所よりも、もう少しだけその隙間から距離をとる。


「ここが、ひなちゃんの消えた『入り口』で間違いないと思う」

 ユキの言葉に、倉部が携帯電話を取り出しタイマーをセットし始めた。

 鬼海もユキも同じようにタイマーをセットするのを、龍之介は見ていた。


「いつも通り、まずは入って五分。そこがどの世界なのか見極める。既存の並行世界か、あるいはまた別の知られていない世界なのか。すぐに戻ってこられるように『入り口』近くを歩いて、様子を探る」

 携帯電話を掲げて見せながら倉部がそう言うと、ここに来てはじめて龍之介が怯む様子を見せた。

 この狭い隙間にどうやって? と顔に書いてあるのが手に取るように分かる。


「あの有名な児童小説……ロンドンの駅のホームにある壁に向かって歩いていくと……って、龍之介くんも知ってる?」

 戸惑いつつも頷く龍之介に、ユキは言う。

「あの小説書いた人ね、きっと『入り口』に入ったことがあるんだと思う。……ちなみになんだけど、わたしが居た世界とこっちではあの小説、話がちょっと違うし書いている人も違うんだな」

 いたずらっぽく笑うと、龍之介がひどく驚いた顔で尋ねてきた。


「えーっ! 子どもの頃、あの本大好きだったんですよ。どんなところが違うんですか? 書いている人も違うって……凄いなぁ。それって、どういうことなんだろう? すごく気になります。良かったらどんな話なのか、覚えているところだけでも教えて下さい」


 興奮気味に捲し立てる龍之介に、呆れた様子の声が被さった。


「ねぇ、ねぇ。ユキさん、龍之介くん? 話がずれてきてますよー?」

 鬼海が間延びした言い方で、ユキと龍之介に注意をする。


 龍之介の緊張が解けたのが分かる。

 それでも顔は強張り、身体には変な力が入ってしまっているのはどうしようもない。


「さて、覚悟はいいかなー? 龍之介くん。倉部チーフの中年男性らしいこの背中を、真っっっ直ぐに見たまま進むんだよ。いいね? 自分は後から行くので、立ち止まるのは禁止でーす」

 鬼海の言葉に倉部が顔をしかめる。


「大人の男の背中だ。……鬼海、覚えとけよ」


 躊躇う素振りなく、倉部がその隙間に向かって歩き出した。

 ユキはいつもその様子を目の当たりにするたびに、信じられない気持ちになる。


 ぶつかって無様に転ぶ。


 そんな考えが微塵も思い浮かばないないような倉部の歩き方が、倉部という人を表しているかのようでユキは羨ましくもある。


 鬼海も何気ない様子で辺りに目を配りながら龍之介の背中を軽く押し、倉部について行くようにそっと促す。

 

 あっ倉部さん!

 

 思わず声に出してしまいそうになり、ユキは自分の口を押さえる。


 倉部の背中が闇に呑まれた。

 龍之介の身体の一部がそれに続き、滲むように鬼海が消えた。


 ユキは闇の中に、懐かしい顔を見たような気がした。

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