熊谷ユキの場合 ④
わたしがこの世界に迷い込んだのは、朝から雨の降る日だった。
きっかけ?
前から走ってくる車を避けようとしたときに、片足が水溜りに入ってしまったの。
ただ、それだけ。
まぁ、それだけなら靴が濡れるだけだったのが本当なんだろうけど、足は地面を踏み外したような感じがした……と、思ったら転んだように尻餅をつく感じで座り込んでいた。
慌てて立ち上がって、何事も無かったかのように澄まして歩き出したわ。
誰かに見られていたら恥ずかしかったし、転んだことにも動揺していたから、すぐには気づかなかった。
ええ、そう。
周りの景色に大きな変わりはなかったの。
それよりも転んだことに驚いていて、恥ずかしくて、その場から離れることしか考えていなかった。
歩き始めてしばらくしたとき。
違和感を感じた。
……雨が……雨が降っていなかった。
ううん。違う。
雨が止んだのではなくて、その日は最初から降っていなかったかのようだった。
地面が全く濡れていないし、空には、さぁっと刷毛で描いたような白い雲。
晴れていたの。
それなのに、わたしはぐっしょりと濡れた傘を手に持って歩いている。
突然、恐怖が迫り上がってきた。
走りたくなる気持ちをぐっと押さえて、家へ向かったの。家にさえ帰ればどうにかなる、なんていうのはおかしな話だろうけど、その時のわたしは、もうそれしか考えていなかった。
あ、言い忘れていたわね。
その日、わたしは実家に帰る途中だった。
だからかなぁ。
ふふふ。
子どもの頃の、お母さぁーんって勢いがあったかも。通学路だったし、訳が分からない恐怖で童心に返ってたんだね。
いまにも走り出しそうな自分と、どうにかして落ち着こうとする自分。
そして、それを打ち砕くもの。
……ポストだった。
そう。それよ。
どこでも見かける、そのポスト。家に帰る道標みたいにしてたの。子どもの頃ね。
次の角を左に曲がるとタバコ屋さん。
赤いポストは『お帰り』の目印。
それを過ぎれば家はすぐそこ。
そんなふうに、胸の中で唄うように家に帰ってた。あのときも、自分を落ち着かせる呪文みたいに、繰り返し繰り返し。
なのに、ポストが……。
ううん。あった。ポストは、あったの。
ただ、形が……形が違うの。
あんなの見たことなかった。
駅員さんの帽子みたいなのがついた、円筒形の真っ赤なやつ。
知ってる? 見たことある?
そうなんだ。
わたしは初めてだった。
いつもの四角いポストのあるところに、頭から血を被った人が居るように見えたの。
恐怖を宥めていたその
パニックね。
駆け出さないようにするのが、精一杯。
何かに追われているような、誰かに見られているような、訳の分からないあの恐怖。
とにかく逃げて、逃げて、逃げたい。
家にたどり着いて、玄関を開けて……わたしは信じられないものを目にして悲鳴を上げた。
……祖父だった。
目の前に、わたしが中学生の頃に亡くなった祖父が、在りし日のように玄関の上がり
『どうした? 幽霊でも見たような顔して?』
腰が抜けるって言うじゃない?
もうね、立っている感覚がないの。
祖父はわたしに話しかけてたみたいなんだけれど、わたしの様子があまりにもおかしいから、居間の方から姉が呼ばれて出てきた。
子どもを抱かえてね。
『ユキ、大丈夫? どうしたの? 何かあったの?』
『……お姉ちゃん。その子、誰?』
いえ、違うわ。
姉に子どもが居るのは、同じ。
子どもが違うの。
姉の子どもは、男の子だった。わたしが知っているのはね。産まれたときも、そのあとも何度も会っているし、ついこの間、三歳の誕生日のお祝いにって欲しがっていた恐竜のフィギュアをあげたばかり。
なのに、姉が抱かえていたのは女の子。
わたしは見たこともない、子どもだった。それなのに、当たり前のように……まぁ姉には当たり前よね? 子どもを抱かえて怪訝な顔でわたしを見ていた。
わたしは何を言ったのか覚えていないけれど、とにかく回れ右して家を飛び出した。
あんなに帰りたいって思っていて、帰ればなんとかなるって思っていた家だったんだけどね。
震える手で携帯電話を取り出すと、着信があった。
飛びつくようにして掛け直してみた。
長く付き合っていた人なんだけどね、正直に言うと上手くいってなかった。
付き合いが長いからなのか、その人の性格なのか、まぁわたしに見る目が無いのがそもそもの原因なんだけどね。
『どこにいるんだよ! 何度も連絡してんだぞ? ホント、使えねぇヤツだな』
酷いって?
ふふふ。わたしもそう思う。
大学の時に知り合ったの。
悪い人じゃないのよ。
普通の人。どこにでもいる、どちらかと言えば人当たりの良いひと。
見た目も優しそうで、実際に優しい人。
でもね。不思議なんだけど、人って、甘えを許すと、びっくりするぐらい傲慢になれるものなんだって知るきっかけになった人、かな。
そうなの? そうよね。でも、憎めないの。可哀想って思ってしまって。突き放せないから、わたしのこと、捨ててくれないかなって思ったりもした。
結局はわたし、自分が悪者になりたくなかっただけなんだよね。
彼がわたしのアパートのドアの前にいるって言うから、わたしは引き返すことにした。実家近くにいて、すぐには帰れないって言ったら、怒ってたなぁ。
え? 彼がわたしに、どんな用事が?
いまになって言えば、いつもの大したことじゃないことで、ひとり勝手に傷ついて、不貞腐れて、甘えられるわたしに八つ当たりをしに来たってところだと思う。
だけど、その頃のわたしは蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫と同じ……。
なんていうかな? この電話でいきなり現実に戻った、というか、分からない恐怖よりも彼の怒りのが怖かった。
可哀想で、怖かった。
わたしも、彼もね。
電話も通じたんだし、よくわからないけれど今度は自分のアパートまで帰れば、またいつも通りになる。そんな感じ。
暴力? ううん。それはなかったの。
それがあれば、捨てられた?
……分からない。
まぁ、そんなわけで急いでアパートに引き返してびっくりよ。
アパートが無かったの。
すぐに電話した。アパートのある所まで来たんだけどって。
彼はわたしの姿が見えない、嘘をつくなって怒鳴っていたけど、嘘じゃなかった。
電話の向こうで、ひとり怒鳴っている彼を残したまま、わたしは電話を切った。
そして、さよならも言わずに面倒だったことは全部捨てちゃった。
……逃げてきちゃったの。
よく似た世界だったから。
酷くて、ずるいわよね。
この世界に居た『わたし』は、いまどこにいるのかな? わたしが居た、あっちの世界にいるのかな?
龍之介くん?
「……電話が通じたんですか?」
ええ、そう。
今も持ってる携帯電話なの。
どういう仕組みなんだろうね。電話帳にある番号も、架けられるところと架けられないところがあったりするんだけど……?
「あのっ……もしかしたら。可能性は少ないですけど、もしかしたら、行方不明のひなちゃんの居る場所が判るかもしれません……!」
龍之介の言葉に三人は顔を見合わせた。
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